内給の意味は、(コトバンクより)
平安中期以降に行なわれた、天皇の年給。毎年、諸国の掾(じょう)二人、目(さかん)三人、および史生(ししょう)その他の一分官(いちぶかん)二〇人の任官を請求する権利で、天皇はこれによって近侍の者に官職を与え、あるいは任料を得て私的な財源に充て、また、この権利を乳母、女房に年官として与えてその給与の一部とするなどした。→年給。
建久九年に出てくる宗景だが、友景の息にしては年代に疑問があると思われるため、別人としようと思う。
寛喜三年の宗景はどうなのだろうか?1231年であり、宗景の註に「後伏見院北面 左衛門尉」とあり、年代が合わない。やはり別人か?
次に出てくるのが寛元三年(1245年)、是は友景の息といえるだろうか?
建長五年1253年は?
後伏見院北面という事は、友景と宗景は、親子ではなく祖父と孫の関係なのではないだろうか?
範景が抜けているのではないだろうか?
友景は後嵯峨院(在位1242-1246年)の北面だったようなので朝廷に務めていたことになる。
その息が後伏見院(在位1298-1301年)北面だったとは、思えない。孫の世代となるのではないだろうか?
宗景の息 中原景氏は1245年に左馬允になっている。という事は、註が誤記載なのかもしれないし、
もしくは、宗氏が友景の息で、その息が宗景…と順番が間違えられているか??
なにか、ある。
ともかく、オカシイ。
もう一度、考える必要がありそうである。