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海上国造他田日奉部直神護から始まり諏訪神社…

2019-03-20 | 古代からのつながり

昨日見つけた人名
【海上国造他田日奉部直神護】

?-? 奈良時代の豪族。
平城左京七条(奈良市)にすむ。下総(しもうさ)下海上(しもつうなかみ)(千葉県)の国造(くにのみやつこ)の子孫で,海上郡が設置されて以来の郡司の家柄。養老2年(718)藤原麻呂の資人(しじん)となり,天平(てんぴょう)元年から中宮舎人(とねり)をつとめた。20年海上郡大領(郡司)に任命してほしいと申請した。

奈良時代の下級官人。東国の地方豪族の出身。平城京左京七条に本籍を持っていたが,天平20(748)年故郷の下総国海上郡(千葉県)の郡大領(郡役人の筆頭)に任命されることを請うた文書を残している。それによると祖父以来,父の宮麻呂も兄の国足も海上郡の郡司であることをあげ,また都では,養老2(718)年から神亀5(728)年まで藤原房前の資人として仕え,その後天平20年までは中宮宮子の舎人として仕えたことをあげて,海上郡大領に任命されることを望んでいる。このように奈良時代の地方豪族出身の下級官人のなかには,中央の官司で舎人として経歴を積み,やがては出身地の郡司となってUターンする出世コースを歩む者が多かったらしい


【他田部氏】
他田部氏(おさたべし)は日本の古代氏族の一つである。
概要

他田部氏は、6世紀後半頃の敏達天皇の宮であった訳語「他田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)」にちなむ部民である他田部に由来するとされている。敏達天皇は他田の宮にあって他田天皇とも称せられた。他田部はその料地に所属し所領の管理等に従事した人々といわれる。「他田部舎人」と記された木簡が地方から発見されているが、これは敏達天皇の皇居である他田宮に地方から出仕して、皇居の警護や雑用の任に当たった一族と考えられている。

他田氏や丹田氏、長田氏、多田氏なども同じ流れを汲むといわれる。

平安時代初期までは金刺部氏と共に信濃国や駿河国に多く分布し郡司層で活躍する名が残され、特に信濃では伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占めている。貞観4年(862年)には信濃国小県郡権少領他田舎人藤雄と共に信濃国大領金刺舎人正長が外従五位下を授けられた。貞観6年(864年)には右近衛将監長田(他田)直利世が外従五位下を授けられて3年後には下野介に任ぜられている。しかし、その後は諏訪社の神官などに活動範囲が狭まっている。万葉集には律令制のもとで新たに置かれた新国造として小県郡他田舎人大島の名がある。『日本霊異記』には小県郡跡目里の他田舎人蝦夷の私出挙の話が見える。

~~~*~~~
…と調べていた昨日。

今日は外出の為、ふと手にした本を持って出かけた。

それがドンピシャリ的で、自分でも怖ろしくなっている。
持参したのは「古代天皇と前方後円墳の謎/諏訪大社と善光寺の謎」(馬場範明)

まず、上記にあった「金刺」という名が出てくる。
さらには、物部守屋が「丁未の乱(ていび)」で滅ぼされたのだが、その際に守屋連の二男が守屋連の首を持って諏訪まで逃げたという。

日本書紀には、
大連子息等信濃国伊那郡藤澤に蟄居して世間の人と交わらず…とあるそうである。

中原氏もこの物部氏族に入っているそうであるが、佐味氏もそうであると思う。

さらに、聖徳太子派物部守屋連の亡骸を物部守屋の邸宅「森の宮」に葬り、その最初の墓は「荒墓」とよばれたそうである。これが「大阪の八尾市」にあるそうである。

田原本町八尾と、同じ「八尾」だけに気になっている。

物部氏の宗教観という章が今の私には重要なようなので、かいつまんでmemoしておくこととする。

ニギハヤヒノミコトを祖先とし、今の交野市周辺に住んでいた。
武力を持って地方に君臨していた。
最新兵器の製造、管理を主にした軍事と祭祀を司る氏族である。
一族の信望する神社は大和のほぼ中心から東側にある「石上神宮いそのかみ」(奈良県天理市)である。
山自体を崇める原始信仰。自然崇拝の形態。
全ての物に神性を感じ、敬虔なる自然崇拝の意識を持つ。これが物部氏の宗教観。

諏訪では、「洩矢の神」「ミシャグチ神」と同じ宗教観である。
両者の祭祀は同根。

物部氏・中臣氏・大伴氏大和朝廷の軍事を司り、全国統一の先兵として行脚している。
大和朝廷の軍事による全国統一のために派遣された。その関係で一族は全国各地に及んだ。
そこで、信望する祭祀も広がった。

・・・

そこで、首を持って諏訪まで逃げた…と言うのは、一族の関係者がそこに居たのだろうという事になる。


さて、前回の「上野国緑野郡佐味郷」だが、長野の諏訪にもさほど遠くはない。
この辺りにも物部氏の一族が隠れ住んでいた可能性も充分にあると思う。

以下の地図は「緑野郡」と諏訪である。










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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-03-23 00:39:31
いい感じ。
みどりつけたがる人がいるんでしょうけど、諏訪湖の近く散策してチロル村だったか?秋葉か愛宕か?なんか諏訪と小野神社の間の道の北の山の向こうがみどりの付く地名になってましたよ。

みどり付くと新しいように思うんですけど何らかの意図もありまた各地のその地の歴史の中でもなんか意味あるのかもしれせんね。
金刺氏も一度調べたんですけど、好みではないです。
なんか焼き鳥にされそうで(笑)

そう守屋は好きなんですけどね。八尾も関係してくるのも必然のように思いますね。
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