とっても穏やかな日和でした。気温は低いらしいですが風がなくてダウンが暑いくらいでした。
1・17の、阪神淡路大震災で、学生時代の親友のお母様がタンスの下敷きになって
亡くなられました。お母様はあのとき、私と同じ歳くらいだったと思います。
独り暮らしで編み物が大好きでした。合同慰霊祭のとき、その親友は、哀しすぎて行けない・・・
と言いました。私はその親友の気持ちが理解出来ず、どうして?と冷たいと?思ったのです。
あの日から約1ヵ月間、2号線や、43号線の主要道路は自衛隊や消防隊、警察、物資を運ぶ
諸々以外の車は通行許可書を車に貼っておかなければなりませんでした。
ですからその親友のご主人は交通手段が無く遠方まで歩いてお母様を見に家まで行かれました。
あのころ、震災ルック、スニ―カーにリュックでした。お化粧も憚られます。ノーメイクでした。
携帯電話もまだ普及していない時代です。家の電話線は切れて使えませんでした。
我が家は主人が会社の携帯電話を常に持っていたので助かりました。
その親友のご主人は、一度、お母様を探しに家の中を見渡しましたが何処かに避難していると
思い一旦、帰宅しました。もう一度、見に行ったときには、タンスの下敷きになっているのを
発見出来ず、2度目に発見しました。即死でした。
私は、主人の車でお仏壇に手を合わせに行きました。哀しくて涙が止まりませんでした。
あのとき、6000以上の犠牲になられた方は、お葬式も出来ないまま、荼毘に付されました。
棺が足りなくて、高校の体育館には犠牲者の方々の遺体を安置していました。
戦争は知りませんが・・・まるで戦場のようになっていました。
ライフラインは、約1ヵ月ストップ。なるべく服は着替えないようにして、主人が帰宅してから
叔母宅までお風呂と洗濯をさせてもらいに行ったのです。とてもありがたかった。
少しのお水も分け合い、みんな助け合いました。
その親友が、19年経った、今日、お母様の名前が刻まれている、慰霊碑のところで行われる
合同慰霊祭にやっと行く気持ちになりました。哀しさは忘れないけれどやっと行けました。
今日は、私も一緒に行ってご冥福をお祈りしてきました。
良かった・・・やっとやっとお母様のところまでお参りに行けて・・・涙は溢れますが気持ちも
落ち着いてきたみたいです。
あの日から、19年。街は綺麗に復興しているみたいに見えますが、家が全壊した人や
火事で焼け出された方などは、元の場所に戻れない方がいっぱいいらっしゃいます。
東北地方の大震災も復興までに時間がかかることでしょう。
一日も早い復興を願います。
1・17を迎える度、親友の流した涙と心の傷は計りしれません。
改めて犠牲者の方々のご冥福をお祈り致します。