全ての公権力は暴走する。幻想は捨てよう。労を惜しんで平和な世界は来ない。
2009.03.08 Sunday
幻想は捨てよう。労を惜しんで平和な世界は来ない。
国民それぞれが責務を負い、公権力の監視と批判をし続けなければ未来はない。
もう、今まで、何度も見たじゃないか。
警察、検察、裁判所。そして政治。監視と批判を続けなければ、やりたい放題だ。
誰かがやってくれるだろうと、じっとしていても「誰もやってくれない」
その意味でも「高知白バイ事件」は、明日はわが身を表している。
竹原信一氏のブログ
国民それぞれが責務を負い、公権力の監視と批判をし続けなければ未来はない。
もう、今まで、何度も見たじゃないか。
警察、検察、裁判所。そして政治。監視と批判を続けなければ、やりたい放題だ。
誰かがやってくれるだろうと、じっとしていても「誰もやってくれない」
その意味でも「高知白バイ事件」は、明日はわが身を表している。
竹原信一氏のブログ
■2006/11/02 (木) 自由からの逃走 さるさる日記 - 阿久根時事報
国民は家畜型思考を持つように仕向けられている。私が言う「家畜型思考」とは一見安全そうに見える方向へ一斉に考えを向ける癖の事。
今の姿は牧羊犬に追い立てられて動く羊の群れと変わらない。
私の行動目的の中心は、ほとんどの人が疑った事のないこの「家畜思考の型」を打ち破ることだ。
例えば、多くの市民が好きな役所や議会の有様の話などは私にとって単なる入口に過ぎない。
今に始まった事ではないが、人々は自分の考えと感覚に自信がない。自分の感覚を信じていない。自分が無い。
私が話を始めると直ぐに、「何処へ連れて行ってくれるの」とくる。「批判ばかりではなく建設的な意見を言え」というのもある。
「あなた方が居る一見居心地のいい場所から外へ出てみようよ。」と言うととたんに檻の中へ逃げ帰る。自由からの逃走だ。
「昔は悪かった、今の社会は進歩している。」「昔の人は世の中の事を知らなかった、私達は知っている。自分は知らなくても偉い人たちは分かっているはずだ。」「昔は独裁主義や全体主義だった、今は民主主義だ。」
私は、こういった「常識」が全くの誤りである事を示してきたつもりだ。
常識を覆(くつがえ)すと「行き場所がない、どうしたら良いか判らない」そういう不安に駆られる事も承知している。
しかし私は「この不安に耐えるならばその不安感の多くが錯覚だった事が分かる」という事も知っている。
錯覚でしかない不安感から逃げ出す為に信じ込む相手を探しても無駄だ。
他人への期待は失望とセットになっている。必ず失望する。
新興宗教などに頼ったてもだめ。失望的な状況に慣らされ、追い立てられ、徹底的に利用されるだけの事だ。
適度な不安感はエネルギーになる。
私達は不安の全面解消ではなく、不安感との付き合い方を知る必要がある。不安の正体を見つめるトレーニングが必要なのだ。
よく考えてみると、民主主義というのもひとつの信仰に見える。多数決=民主主義ではないはずだ。 主義は思考停止を促す。 民主も現実ではない。
では何を、、それを自分で考えることに意味がある。思考の自由は自分で獲得するしかない。トレーニングの始まりだ。