マル激トーク・オン・ディマンド 第462回(2010年02月20日)
「政治とカネ」特集
民主主義のコストと利益誘導政治の境界線はどこに
民主主義のコストと利益誘導政治の境界線はどこに
ゲスト:富崎隆氏(駒澤大学法学部准教授)
小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体の土地取引をめぐる問題は、小沢氏自身が不起訴処分となったことで、とりあえずは収束の方向に向かっているかに見える。しかし、政権の中枢を揺るがした一連の事件が古くて新しい「政治とカネ」の問題をあらためて浮き彫りにした。
そこで今週のマル激では、政治とカネの問題を、根本から再考してみることにした。
まず、そもそも政治がカネまみれになる、つまり政治にカネがかかり過ぎたり、大量のカネが政治に注ぎ込まれると、どのような問題が生じるのか。
計量政治学が専門で海外の政治資金制度に詳しい駒澤大学法学部の富崎隆准教授は、そこには2つのリスクがあると言う。一つは腐敗・汚職の危険性、そしてもう一つは政治への参入障壁だという。汚職や腐敗が民主主義の基盤を壊すことは言うに及ばないが、集めるお金の多寡によって政治参入の可否が決まることもまた、民主主義の平等原則に反する。
そこで、政治にかけるおカネはどの程度なら適性で、それをどうやってコンロトールするかが、万国共通の課題となる。
現在日本には、戦後アメリカの政治資金制度に倣って作られた政治資金規正法があるが、富崎氏は、今回の小沢事件を通じて現行の政治資金規正法の2つの問題点が明らかになったと指摘する。
まず一つ目は、規正法自体が改正を繰り返す中で継ぎ接ぎだらけとなり、政治資金の管理・報告制度が非常に複雑怪奇なものになっているため、法に則って政治資金報告が公開されても、政治家の政治活動やお金の使い方の実態が簡単には見えてこないようになっている点だ。
小沢氏の事件でも、政治資金が複数の政治団体の間を行き来したことが明らかになっているが、現行制度で政治資金の受け皿となる政治団体を事実上無数に作ることが可能になっていることが、政治資金規正法がザル法と呼ばれる所以の一つとなっている。
二つ目の問題点として富崎氏は、こうした複雑怪奇な制度のありようが、政治資金の流れに恣意的な解釈を与える余地を与え、それが今回の小沢問題のように検察の介入を招く原因となっていることを挙げる。昨年政権交代が実現し、今後は政権選択が可能な政治状況になった今、政治資金問題も選挙も有権者の自由な選択に任せるものであり、政権とは別の国家機関が政治に介入することは相当に警戒すべきだというのだ。
同じ理由で富崎氏は、民主党が公約している企業団体献金の禁止についても、否定的な見方を示す。企業や団体など特定の利益集団の献金も個人の献金と同じく、自由な政治活動の一つであり、それを禁止することは政治活動を著しく規制しかねない。また、規制の強化はむしろ脱法的行為を助長し、検察権力の介入の余地をさらに広げることになりかねないというのだ。
そもそも政治家が特定の利益集団から献金を受け、その集団を代表して政治活動を行うことの何が問題なのか、と富崎氏は逆に問い返す。利益誘導政治は広い意味での代議制民主主義の本質であり、政治学的には利益集約と呼ばれる政治本来の機能の一部でもある。問題はその利益集約が特定の個人や団体のための個別的なものか、より普遍性があるかで妥当かどうかが分かれるのであって、全ての利益誘導を否定してしまっては民主主義そのものが成り立たないではないかと、富崎氏は問う。
それでは政治とカネの問題の本質とはいったい何なのか。富崎氏は、まず何よりも政治資金の流れを透明化して、市民的なチェックが容易に可能になる状態を作ること。その上で、大前提として民主主義には一定のコストがかかることを踏まえ、自由な政治活動を保障するためにも、一定の政治資金を認め、それがある限度を越えたときに是正を図るような形にすべきだと富崎氏は主張する。そして、その限度がどこにあるかは、市民、つまり有権者が決めるべきだと富崎氏は言う。
結局、政治とカネの問題は、カネの量が政治の質にどう影響を与えるかという問題であり、それは一概にどの規模が適正であるかは決められないということかもしれない。だからこそ富崎氏も、政治資金規正法は透明化を徹底させることが不可欠だと強調する。
政治とカネの問題は民主政治の成り立ちと深く結びついている。アメリカでは言論の自由を妨げるとの理由から、政治資金の制限は至って甘い。政治資金を制限し過ぎると、活発な政治活動の妨げとなり、民主主義の弱体化につながる恐れもある。しかし、かといってそこを緩めすぎると、腐敗や汚職がはびこるリスクが増し、その一方で検察や警察が政治に介入する余地を与えることにもつながる。
日本は今政治とカネの問題をどう考えるべきなのか。政治資金の国際比較なども交えながら、富崎氏と徹底的に議論した。
そこで今週のマル激では、政治とカネの問題を、根本から再考してみることにした。
まず、そもそも政治がカネまみれになる、つまり政治にカネがかかり過ぎたり、大量のカネが政治に注ぎ込まれると、どのような問題が生じるのか。
計量政治学が専門で海外の政治資金制度に詳しい駒澤大学法学部の富崎隆准教授は、そこには2つのリスクがあると言う。一つは腐敗・汚職の危険性、そしてもう一つは政治への参入障壁だという。汚職や腐敗が民主主義の基盤を壊すことは言うに及ばないが、集めるお金の多寡によって政治参入の可否が決まることもまた、民主主義の平等原則に反する。
そこで、政治にかけるおカネはどの程度なら適性で、それをどうやってコンロトールするかが、万国共通の課題となる。
現在日本には、戦後アメリカの政治資金制度に倣って作られた政治資金規正法があるが、富崎氏は、今回の小沢事件を通じて現行の政治資金規正法の2つの問題点が明らかになったと指摘する。
まず一つ目は、規正法自体が改正を繰り返す中で継ぎ接ぎだらけとなり、政治資金の管理・報告制度が非常に複雑怪奇なものになっているため、法に則って政治資金報告が公開されても、政治家の政治活動やお金の使い方の実態が簡単には見えてこないようになっている点だ。
小沢氏の事件でも、政治資金が複数の政治団体の間を行き来したことが明らかになっているが、現行制度で政治資金の受け皿となる政治団体を事実上無数に作ることが可能になっていることが、政治資金規正法がザル法と呼ばれる所以の一つとなっている。
二つ目の問題点として富崎氏は、こうした複雑怪奇な制度のありようが、政治資金の流れに恣意的な解釈を与える余地を与え、それが今回の小沢問題のように検察の介入を招く原因となっていることを挙げる。昨年政権交代が実現し、今後は政権選択が可能な政治状況になった今、政治資金問題も選挙も有権者の自由な選択に任せるものであり、政権とは別の国家機関が政治に介入することは相当に警戒すべきだというのだ。
同じ理由で富崎氏は、民主党が公約している企業団体献金の禁止についても、否定的な見方を示す。企業や団体など特定の利益集団の献金も個人の献金と同じく、自由な政治活動の一つであり、それを禁止することは政治活動を著しく規制しかねない。また、規制の強化はむしろ脱法的行為を助長し、検察権力の介入の余地をさらに広げることになりかねないというのだ。
そもそも政治家が特定の利益集団から献金を受け、その集団を代表して政治活動を行うことの何が問題なのか、と富崎氏は逆に問い返す。利益誘導政治は広い意味での代議制民主主義の本質であり、政治学的には利益集約と呼ばれる政治本来の機能の一部でもある。問題はその利益集約が特定の個人や団体のための個別的なものか、より普遍性があるかで妥当かどうかが分かれるのであって、全ての利益誘導を否定してしまっては民主主義そのものが成り立たないではないかと、富崎氏は問う。
それでは政治とカネの問題の本質とはいったい何なのか。富崎氏は、まず何よりも政治資金の流れを透明化して、市民的なチェックが容易に可能になる状態を作ること。その上で、大前提として民主主義には一定のコストがかかることを踏まえ、自由な政治活動を保障するためにも、一定の政治資金を認め、それがある限度を越えたときに是正を図るような形にすべきだと富崎氏は主張する。そして、その限度がどこにあるかは、市民、つまり有権者が決めるべきだと富崎氏は言う。
結局、政治とカネの問題は、カネの量が政治の質にどう影響を与えるかという問題であり、それは一概にどの規模が適正であるかは決められないということかもしれない。だからこそ富崎氏も、政治資金規正法は透明化を徹底させることが不可欠だと強調する。
政治とカネの問題は民主政治の成り立ちと深く結びついている。アメリカでは言論の自由を妨げるとの理由から、政治資金の制限は至って甘い。政治資金を制限し過ぎると、活発な政治活動の妨げとなり、民主主義の弱体化につながる恐れもある。しかし、かといってそこを緩めすぎると、腐敗や汚職がはびこるリスクが増し、その一方で検察や警察が政治に介入する余地を与えることにもつながる。
日本は今政治とカネの問題をどう考えるべきなのか。政治資金の国際比較なども交えながら、富崎氏と徹底的に議論した。