なんだか古い話になってしまったんだけれど、触れておかないと居心地が悪いので。
文学概論最終回(2/4)、突発的にAyameX氏を迎えてやった“対談”の話。
そもそも何で最終回にそんなことをしようと思ったか、というと、その前の回に“私の専門”の話をしたらかなり食い付きが良くて(毎度のことだけれど、授業で話すとみんな面白いと言ってくれるのに、それについて誰かに訊ねられたということはない。専門外の“江戸文学”のことは良くきかれるんだけど……)、ちょうど、“断片”の話と繋がる感じもあり、しかも、彼の“名作”「ユリの木」(これ、ネット公開しません?)の絶妙な虚実感覚を是非とも、と思ったこともあり……。
しかし、時既に遅く、みんなに事前に読んで貰うわけにも行かず……。
結局、「ユリの木」と、前に紹介した「演出ノート」を当日配布し、その場で簡単な説明をしてあとは全くフリートーク。
この時既に“何か”の罠にはまっていたのだ。今思えば。
そこにいる誰ひとり読んだことのない「ユリの木」の“あらすじ”を説明し、“面白さ”を解説する事、それ自体が訳の分からない“断片”への入口。
さて、話はあっちこっちに飛び、特に演劇の中の役者と登場人物のアイデンティファイの話はものすごく興味深かった。これこそが演劇(ほら、どんな話か知りたいでしょ。今あなたの頭の中に、AyameXさんと私と演劇に関する情報が渦を巻いている。それでいいのです)。
で、以下冒頭に「触れておかないと居心地が悪い」と書いたことについて。
というか、まぁ、“負け惜しみ”です。
負け惜しみであることは否定しないんだけれど、その“負け方”について、学生たちが誤解したままであると言うのが引っかかっているのだよね。
状況をちゃんと理解した人もいたとは思うけど。
期せずしてこの授業の展開を振り返る(AyameXさんは、逆に、過去のこの授業で何が扱われ、私がどういう立ち位置で話していたか、と言う情報がないのです)様な流れになって行きつつ、「……は文学ですか?」「……をどうやって評価するんですか」というような事を私が問われる。
私は「優等生的なこたえかたをするなら」と前置きをして「“人間の本質”が描かれているとか……」と、“ブンガクシャ”を代弁するような発言。
待ってました! とばかりに喰いつくAyameXさん。
そこからの、“人間の本質”談義も本当に魅力的だったんだけれど、取り残されたのは“文学は人間の本質を描く”と言う、可哀想なテーゼ。
私は、もとより、そんなことを主張する“ブンガクシャ”ではない。
何度も繰り返しいているように、“文学”というモノがあるとしても、それは力学であって、作品やジャンルではない。
ただ、話の流れの中でそれを明示せず、「“優等生”なら」が、“優等生”的発言者にすり替えられてしまった。
そのことを、2人は自覚しているのだけれど、聴衆は言葉の表面を追いかけるのに精一杯で、理解できなくなる。そうなると、私の言いよどみ、ためらい、AyameX氏のつっこみ、と言う“空気”が、解釈の手助けを始めると言う循環。
まずいな、と思った時には手遅れでした。
さて、そうやって“反省”していく中で、もう一つ、私の“失敗”というか、これはもう少し深いところで良くないなぁ、と思うことがあった。
私は、結局の所、“研究対象としての”という説明をしたがる。
“人間の本質”だのなんだので価値判断をしたり、誰かが捏造した“古典”に惑わされる愚を嗤いながら、一方で、ただ面白がるのでは仕事にならん、と言うところが確かにあって、だからこういうブログで、訳の分からない見聞を文字化しようとしているのだ。
それも、罠。
そのことは、とてもよく解った。
さて、AyameXさんは、落語の“オチ”の意味についても話した。
続き物を最後まで聴かないと言葉に取り憑かれた亡者になる。
“オチ”で、スッキリするのは、“祓い”なのだと。
で、連続講義であるこの授業は、4人の教員が“文学”について好きな話をし、最後が私。
私はみんなをさんざん迷わせ、最終回でなにか“答え”でも用意されていれば、ちゃんと“腑に落ちる”はずだったのだ。
しかし、元々そんなモノはない。
ただ、私が最後までやっていたら、それでも美しい表現とか、あるよね~などと言うことを『豊饒の海』や『三島由紀夫のレター教室』をネタに話してなんとな~くまとめてしまったと思う。
しかし、“対談”によって、軸が一本ではなくなった。
“インテリの攻め方”講義としては、オチがあったけれど、多くの学生は、面白かったけれどワケが分からなくなった、と言う感想を書いている。
それこそが、私の求めていた終わり方だった。
最終回にいた学生たちは、多分、一生、“ブンガク”の亡霊に取り憑かれたまま、答えのない旅を続けるだろう。
この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。 「悟浄出世」
……また中島敦かい。
文学概論最終回(2/4)、突発的にAyameX氏を迎えてやった“対談”の話。
そもそも何で最終回にそんなことをしようと思ったか、というと、その前の回に“私の専門”の話をしたらかなり食い付きが良くて(毎度のことだけれど、授業で話すとみんな面白いと言ってくれるのに、それについて誰かに訊ねられたということはない。専門外の“江戸文学”のことは良くきかれるんだけど……)、ちょうど、“断片”の話と繋がる感じもあり、しかも、彼の“名作”「ユリの木」(これ、ネット公開しません?)の絶妙な虚実感覚を是非とも、と思ったこともあり……。
しかし、時既に遅く、みんなに事前に読んで貰うわけにも行かず……。
結局、「ユリの木」と、前に紹介した「演出ノート」を当日配布し、その場で簡単な説明をしてあとは全くフリートーク。
この時既に“何か”の罠にはまっていたのだ。今思えば。
そこにいる誰ひとり読んだことのない「ユリの木」の“あらすじ”を説明し、“面白さ”を解説する事、それ自体が訳の分からない“断片”への入口。
さて、話はあっちこっちに飛び、特に演劇の中の役者と登場人物のアイデンティファイの話はものすごく興味深かった。これこそが演劇(ほら、どんな話か知りたいでしょ。今あなたの頭の中に、AyameXさんと私と演劇に関する情報が渦を巻いている。それでいいのです)。
で、以下冒頭に「触れておかないと居心地が悪い」と書いたことについて。
というか、まぁ、“負け惜しみ”です。
負け惜しみであることは否定しないんだけれど、その“負け方”について、学生たちが誤解したままであると言うのが引っかかっているのだよね。
状況をちゃんと理解した人もいたとは思うけど。
期せずしてこの授業の展開を振り返る(AyameXさんは、逆に、過去のこの授業で何が扱われ、私がどういう立ち位置で話していたか、と言う情報がないのです)様な流れになって行きつつ、「……は文学ですか?」「……をどうやって評価するんですか」というような事を私が問われる。
私は「優等生的なこたえかたをするなら」と前置きをして「“人間の本質”が描かれているとか……」と、“ブンガクシャ”を代弁するような発言。
待ってました! とばかりに喰いつくAyameXさん。
そこからの、“人間の本質”談義も本当に魅力的だったんだけれど、取り残されたのは“文学は人間の本質を描く”と言う、可哀想なテーゼ。
私は、もとより、そんなことを主張する“ブンガクシャ”ではない。
何度も繰り返しいているように、“文学”というモノがあるとしても、それは力学であって、作品やジャンルではない。
ただ、話の流れの中でそれを明示せず、「“優等生”なら」が、“優等生”的発言者にすり替えられてしまった。
そのことを、2人は自覚しているのだけれど、聴衆は言葉の表面を追いかけるのに精一杯で、理解できなくなる。そうなると、私の言いよどみ、ためらい、AyameX氏のつっこみ、と言う“空気”が、解釈の手助けを始めると言う循環。
まずいな、と思った時には手遅れでした。
さて、そうやって“反省”していく中で、もう一つ、私の“失敗”というか、これはもう少し深いところで良くないなぁ、と思うことがあった。
私は、結局の所、“研究対象としての”という説明をしたがる。
“人間の本質”だのなんだので価値判断をしたり、誰かが捏造した“古典”に惑わされる愚を嗤いながら、一方で、ただ面白がるのでは仕事にならん、と言うところが確かにあって、だからこういうブログで、訳の分からない見聞を文字化しようとしているのだ。
それも、罠。
そのことは、とてもよく解った。
さて、AyameXさんは、落語の“オチ”の意味についても話した。
続き物を最後まで聴かないと言葉に取り憑かれた亡者になる。
“オチ”で、スッキリするのは、“祓い”なのだと。
で、連続講義であるこの授業は、4人の教員が“文学”について好きな話をし、最後が私。
私はみんなをさんざん迷わせ、最終回でなにか“答え”でも用意されていれば、ちゃんと“腑に落ちる”はずだったのだ。
しかし、元々そんなモノはない。
ただ、私が最後までやっていたら、それでも美しい表現とか、あるよね~などと言うことを『豊饒の海』や『三島由紀夫のレター教室』をネタに話してなんとな~くまとめてしまったと思う。
しかし、“対談”によって、軸が一本ではなくなった。
“インテリの攻め方”講義としては、オチがあったけれど、多くの学生は、面白かったけれどワケが分からなくなった、と言う感想を書いている。
それこそが、私の求めていた終わり方だった。
最終回にいた学生たちは、多分、一生、“ブンガク”の亡霊に取り憑かれたまま、答えのない旅を続けるだろう。
この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。 「悟浄出世」
……また中島敦かい。
で読めます。
ありがたや。
ていうか、ここ、恐ろしく深い闇の世界かも。
http://suiginza.blogspot.com/