コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

世界はどこまでも断片であること。

2010-01-27 18:16:32 | 
1/23、@みろくさんぶ、承
水銀座、10年ぶりの公演

出演の鷹匠訓子・土門土門エ門・AYAME、それぞれの一人芝居は、数年前、マシマさんのアトリエで観ている。しかし、“水銀座”としては初めて。

『看護婦の手紙 その2 (「銀の牙」断片)』
それから『デッドロード』の新作。(コンビニ店長ね)。

どっちもyoutubeで古いのが見られるので、この辺と、この辺、チェック。

演劇として、とか、音響とか、音楽とか、この芝居について、語る言葉を私は持ち得ない。
と言うのは、それ自体、何か、大きな文脈の中の本当に小さな欠片を目にしただけだ、と言う感覚があるからだ。

“みろくさんぶ”と言う妙なおでん屋のことを知ったのは、別の知り合いのブログだったような気がする。
そこが、“そういう場所”だと言うことは全く知らなかった。
その日集まっていた人たちは、“そういう”時空を共有してきた古い仲間たちのようだった。
AYAMEさんは、本当に底が知れない人で、いくつもの名前と顔を使い分けている。
私の識っている“鈴木大治”は、その中の、ホンのひとかけらに過ぎない。
いつだったか、別件で宴会をした長谷通りの飲み屋で、ちょっと世界の違う人たちと親しく言葉を交わしていたのを思い出す。


で、実は、芝居の内容も、それと相似形を為している。
彼は、自身の演出ノートに、“断片”と言うことについて、この芝居の成り立ちとともに、具体的に説明してくれている。
たまたま見た物が“一人芝居”のように見えたとしても、それは“大きな物語”の“圧縮された断片”であること。それは、観客が積極的にコミットすることで、解凍されるであろう事。

歌舞伎や講談・落語では、“抜き読み”というのは良くある。
『忠臣蔵』を通しでやることなど、滅多にないのだけれど、我々は、“大きな物語”を知っているから、その断片を楽しむことが出来る。

では、知らない物語の断片を見せられる場合は、どうしたら良いんだろう。
今の学生達は、『忠臣蔵』さえまともには知らない。そういうときは、解説を読む。これまでの粗筋、人物関係、このあとの展開……。
それで、一応、“全体”を識っている人と同等の位置に立てるわけだ。
実際に通しで見たことのある人と“粗筋”情報で知っている人との、身体的な感受の差は、それこそ体験してみないことには多分理解できないだろう。


でさて。
『銀の牙』は、そういう親切な全体図が提供されているわけではない。
高々半時間ほどの“一人芝居”のなかには、だから、誰の話なんだか、何の話なんだか解らないことが山ほど出てくる。
途中で、「コレは、さっき言っていたアレのことなのか?」と思いはじめると、作り手の術中にはまっていくことになる。

では、それからそれ、断片を増やし、ピースを繋げていくことで見えてくる“大きな物語”は、何なのか。
実を言えば、それは、“作者”であるAYAME氏の作った世界そのもののはずだ。
それは、馬琴の稗史のような物。

稗史。

AYAME氏は、“地方史家”でもある。
彼は、ローカルな情報をあれこれ集めて“歴史”を書いている。
その中には、“一級資料”から“紙屑”まで、実に様々な情報がコラージュされていて、“史実”だの“虚構”だのを論じるのがバカバカしくなる代物だ。

だからけしからん、と言うのではなく、歴史というのは、おしなべて、そういう胡散臭い物に過ぎないのだよね、と言う話なのであるよ。

歴史家は、“信憑性の高い”断片を拾い集めて“科学的”で“蓋然性の高い”解釈によって繋ぎ合わせ、一つの“物語”を作る。

稗史もまた歴史だ。
それは、認識論とか解釈論とか、そういう問題ではなくて、そういう記述や語りも、また、更に大きな物語の断片なのだと。

われわれは、今、世界をどころか、隣の誰かを、否、自分自身をさえ、実は、そうやってたまたま手に入った断片だけを手懸かりに、並べ替えて“理解”しているに過ぎないのだ。

我々は、それぞれに大きな文脈の中で生きていながら、日常的には小さな逸話の集積しか話題に出来ないのと相似形を為している。


こうやって書いていることそのものも、実は何かもっと大きな物語の中の一齣なんだろうと思う。

上の方に「語る言葉を私は持ち得ない」と書いたけれど、実は、コレは、そのことそのものへの言及でもある。

そこから解脱することが可能なのかどうか、出来たとして、それは別の……。


まさに輪廻。

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5 コメント

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欠片を埋める35 (AyameX)
2010-01-28 02:40:11
では、私も「演出ノート」を全文掲載。

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Notes / Post-apocalypse #***

水銀座『看護婦の手紙 その2 (「銀の牙)断片』 2010年1月23日 みろくさんぶ

演出ノート AYAME-鈴木大治

『看護婦の手紙』は一人芝居ではない。演劇のモノローグシーンを一人芝居とは言わぬように、『看護婦の手紙』は一人芝居ではない。『看護婦の手紙』はモノローグでもない。『看護婦の手紙』には「最小」二人の登場人物がいる。その登場人物の一人の台詞を「台本上から」消したのが『看護婦の手紙』である。

『看護婦の手紙』は「断片化」された「大きな物語」である。

断片化された事で、「物語」は小さなものになっただろうか? 安全無事な演劇ならば、部分が全体を超えることはない。しかし私が「物語の断片化」で構想したのは、「圧縮演劇」である。私はこの発想をJ・G・バラードの「濃縮小説」から得た。

『看護婦の手紙』には複数の物語が圧縮されている。例えば文学ならば『千夜一夜物語』の入れ子構造を思い浮かべてほしい、例えば美術ならばジョゼフ・コーネルのボックス・アートを意識してほしい。

圧縮された物語は観客の意識の中で解凍される。だが、テキストにはいくつもの罠が仕掛けられている。正しく物語を開くためには、観客は傍観者であることをやめなければならない。

私がこのような言い方をしてもよいのは、私が、演劇を演劇たらしめているのは観客だと考えているからである。観客は演劇の一部である。演劇は観客の存在、観客の視線によって演劇として成立するのである。演劇の外側に立つ傍観者は、おそらく罠にとらわれるであろう。

サブタイトルに「銀の牙 断片」とあるように、『看護婦の手紙』の「大きな物語」は『銀の牙』である。『銀の牙』は水銀座が1983年に上演した(水銀座はこの頃は劇団水銀8½ スイギンハッカニブンノイチ を名称としていた)。物語の舞台は昭和11年の帝都。軍部のクーデター未遂事件と猟奇殺人事件が交差し、テロリスト、探偵、スパイ、大陸浪人、心霊術者といった謎めいた人物が入り乱れる、B級活劇を擬したダークロマンだった。初演の後、『銀の牙』は明治から近未来を通底する「大きな物語」の一部として再構想される。2000年の「水銀座大見本市」に於いて、私は全八部に及ぶ『銀の牙』構想を開示した。物語が終焉した時代に、あえて「大きな物語」の復活をもくろんだ訳だが、これを困難にしたのが「9.11同時多発テロ」だった。

21世紀に「演劇」は可能なのだろうか。震災の廃墟で「演劇」が可能なのだろうか。私は十年考えた。結論とは言えぬが、ひとつのヒントはある。90年代半ば、分裂したユーゴスラビアは深刻な内戦状態にあった。特にボスニア・ヘルツェゴビナは悲惨な状況だった。爆撃と狙撃で首都サラエボには連日血が流れていたが、その中で市民は演劇の上演を企画し、世界の演劇人にメッセージを送った。その思いを真正面から受け止めたのは、スーザン・ソンタグだった。彼女は戦火のサラエボに乗り込み、市民たちと共に、二十世紀演劇のうちでも最も難解だと言われる『ゴドーを待ちながらを』上演した(ちなみに鈴木忠志はサラエボからの招聘を断った)。絶望のさなかで「演劇」に何が出来たのだろうか。私には「演劇」が希望であったなどとはとても思えない。だが、そこになんらかの「意味」があったことは確かだと信ずる。

演劇を演劇たらしめているのは 演劇を待っている 人々である、すなわち演劇を求める観客である。9.11以降、私たちの精神は瓦礫の下に埋もれている。もしもまだ心が死んでいなければ、そしてここにいるのだと微かな声を発しているのなら、演劇は不可能ではない。
返信する
感謝。 (小二田)
2010-01-28 07:29:49
コメント欄にこんなにはいることに驚き!

色々話をふくらめて行けるのでありがたいです。
返信する
欠片を埋める (AyameX)
2010-01-28 17:34:12
台本も全文。

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『銀の牙』断片
「看護婦の手紙 その二」

旦那様、お呼びでしたか?
手紙? 私に? これですか?
まあ、満州から。
はい、判ります、私が大連医院に勤めていた頃の同僚です。
え? はい、大連医院です。
ああ、旦那様はこの町にいらして間もないですから、昔の事はご存じないのですね。
子供たちが聖ヨハネサナトリウムと呼んでいる療養所が宮下町にありますね、ええ、山本医院、あの病院が震災前までは大連医院だったのです。
懐かしいですね。
三階建ての洋館、半円形のバルコニー、中庭の噴水、フランス窓と消毒液の匂い、白いカーテン。
住み込みで勤務していた私たちは、同じ部屋を使っていました。
壁には彼女が貼った写真があります。
サグラダ・ファミリア。
スペインの建築家が設計した教会です。
それから私たちは最新式の蓄音機を持っていました。
レコードはサティのピアノ曲集が一枚きりでしたが、毎日飽きもせず、くり返しくり返しその旋律に耳を傾けました。
私たちは仲の良いともだちだったのです。
いろいろな事を語り合いました。
特に芸術の話では、私たちはとても気が合いました。
小説の話、絵画の話、演劇の話、音楽の話、映画の話。
彼女は大陸に渡るとき、映画女優になるのだと言っていました。
手紙には甘粕さんのお世話になっていると書かれていますから、きっと映画関係のお仕事をしているのでしょうね。
はい、満州映画会社総裁の甘粕正彦さん、ええ、そうです、元憲兵隊長の。
関東大震災のどさくさの時に、甘粕さんは主義者の夫婦とその子供まで殺してしまったそうですが、いまのご時世は人殺しでも芸術家になれるんですね。
いえ、私は主義者には共感しませんけど、頑是無い子供まで殺めたと聞くと心が痛みます。
彼女がそんな人の仲間だと思うと、ちょっと複雑な気持ちです。

病院の建物をぐるりと取り囲んで十二本の桜の樹が立っていますね。
私が勤めはじめた当時は、桜の樹は十三本あったのですよ。
でも、その十三という数を嫌った患者がいたのです。
それは桜が満開の四月のある日、入院していた男性患者がどこからかエンジンのついたチェーンソーを院内に持ち込んだのです。
男は周囲の者が止める間もなく不運な桜の樹を伐り倒してしまった。
そして仕事を終えると、チェーンソーを掴んだまま病院長の部屋にのりこみ、桜の樹を伐ったのはわたしです、わたしが伐りましたと喚きちらしたのです。
怒った院長はその患者を地下室に監禁してしまいました。
ええ、病院長の伴五郎先生。
桜を伐った男は、二度と地下の暗がりから出てくることはありませんでした。
そのまま放置されてしまったとか、震災で地下室が埋まってしまったとか、いろいろ噂がありましたが、本当のところは判りません。
そういえば、あの地下室の鍵を持っていたのは彼女でした。
この手紙の彼女です。
彼女と伴先生で、チェーンソー男を地下室に放り込んだのです。

もし療養所の庭の隅に小さな石碑が残っていれば、そこには「ワシントン」という名が刻まれているはずです。
ワシントンは院長が飼っていたセントバーナード犬の名前ではなくて、桜を伐った患者の事なのです。石碑は男の墓だと誰かが言っていました。

いま思い出しましたが、病院の患者に、自分を看護婦だと思っている女がいました。
看護婦の制服を盗んできては、それを着て病院の中をうろうろするのですが、あんまり堂々としているので他の患者はうっかりして本物の看護婦だと思ってしまうのです。
すると女は勝手に患者を診察したりでたらめな治療を行ったりするのです。
ベッドで寝たきりの患者に静脈注射をしてしまった時は、病院中大騒ぎになりました。
それでも頭の良い女でしたから、そのうち院長が思いついて、わたしたち正規の看護婦の下働きをさせるようにしました。
そういえば、あの地下室の鍵を持っていたのは彼女でした。
え? この手紙を書いた女? 私、そんな事を言いましたか?
あら、お客さまがいらしたようですわ。
こんな時間に――。
返信する
ふとっぱら! (こにた)
2010-01-28 23:30:48
貴重ですねぇ。

白状すると、甘粕と満映の話は『龍』なんですよね、私。

歴史や芸術、例えばサティやガウディがなぜここに出てくるのか、とか、あれやこれや。
作品内世界と“リアル”世界のほころび方とか。
返信する
新たに拾ったカケラ (AyameX)
2010-01-29 01:35:03
私は甘粕や大杉を「かわぐちかいじ」で知りました(笑)

テキストは歴史的な誤りが満載です。江戸時代の物語に携帯電話が小道具として使われるようなものです。これが「罠」。

回り道をしますが、
「世界 断片」で検索したところ、興味深い結果が。

今週の本棚:川本三郎・評 『断片からの世界--美術稿集成』=種村季弘・著http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2005/11/20051106ddm015070174000c.html

種村季弘は最後まで素性を明かさなかった「お客」。私の古書店主の顔しかご存じなかったでしょうね。

「体系的思考のほかに世には断片的思考ともいうべきものが存在していて、しかもその断片性はかならずしも未完もしくは不具であることを意味せず、断片相互の組合せや対応からほとんど汲めどもつきせぬ無限の構造を生成させるものなのだ。要するに、断片によってしか語ることのできない世界があるのだ、私はそう考えたのである」

なんか語り尽くされてしまったような…。

それから、
松岡正剛の千夜千冊『全体性と内蔵秩序』 デヴィッド・ボーム
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1074.html

あれあれ、この本はたしかウチの店の棚にあったはずだぞ、と「因縁力」に唸る。やっぱりありました。
松岡正剛の文章に目を通すと、ボームの著書を読んでしまったかのように錯覚する「罠」。
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