コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

演出

2011-02-22 00:11:06 | 
横浜~東京日帰り。
もともと歌舞伎見物だけ決まっていたんだけれど、その前に、朝一でまず横浜美術館
高嶺格:とおくてよくみえない
朝日新聞レビューでかなり気になったので行ってみた。
かなりの衝撃。
個別の“作品”についても一つ一つ書き留めたい誘惑もあるが、控えておこう。
高嶺格は、私的な出来事の中にあるちょっとしたずれや違和感を社会的な繋がりの中にまで拡げて、自問しながらパブリックな問題として問いかけて来る。
強いメッセージがあって、それを如何に表現するか、が課題になる。
そういう意味で“美術”というカテゴリーに入らないようにも見えるけれど、そう言う疑問に対して、それなら“美術”とはなんぞや? と言う問いかけが追いかけてくる。
イヤ、ホントに。
“文学”には高尚なメッセージを求めるくせに“美術”には「感じろ」というような不公平はイカンと思うよ。
私は逆の指向が強いんだな。

面白がる事、好奇心からスタートしながら、その表現にどう責任を持つか、と言う良心の問題まで含めて提示している。
伝えようとしていることも、その方法も、かなり好みで、にやりとしたり、うるっとさせられたり。

今回は、新聞記事を読み、美術館のサイトを見てから出かけたので、そこそこ情報があった。全く予備知識の無いまま観たら別の見え方だったかもしれない。
そして、帰宅後に改めて検索したところ、Take Art Easyが、学芸員による解説を掲載しているのを見つけた。
この団体(?)は、横浜で「アートで横浜★地域力をつなぐ、伝える」活動をしているらしい。
この解説動画は“復習教材”としては非常に行き届いているのだけれど、ネタバレというか、展示を観る前にみてしまったら、“正しい”情報の確認に行くことになりそうで、“展示の趣旨”に反するような気がする。
開催前のインタビュー

時間を気にしつつ、常設展(コレクション展)を覗くと、これがまたすごい。横浜、侮るべからず。


昼食後、本郷に移動。
文京ふるさと歴史館子どもの遊びと学び ―おもちゃ絵を楽しむ―
近年、おもちゃ絵の展示が増えたように思う。
何か背景があるのかよく判らないけれど、錦絵が“美術”から解放されていくのは悦ばしい。
ここのコレクションは、この土地に屋敷のあった武家に伝わった物らしく、近代の教育錦絵まで含め、かなり残っているらしい。
玉川大学の展示でも明確に示されていたように、おもちゃ絵は、ただの“玩具”と言うより、“知育教材”の役割を担った物がかなり多いらしい。
展示されている点数は少ないが、掛け絵の縮小版のような物まで含め、なかなか気の利いた展示だった。

早めに移動したお陰で時間に余裕が出来たので、ここでも常設展を覗き、その充実振りに驚く。
本郷という立地の良さもあるだろうが、この町をどう伝えていくか、と言うことをしっかり見据えている展示だと思う。
企画展示室でも常設展示室でも、地元のコドモ達が遊んでいる。
昨年夏に、やはりおもちゃ絵目当てで行った足立区郷土博物館郷土博物館の浮世絵 あそんでまなぶオモシロうきよえ)に行った時も、子供達が沢山遊んでいた。
地域の博物館・美術館が、本当に地域の人たちが自然に集まる場所になっている。
ここのところ、国立の大きな美術館に行く事が少なくなって、相対的に区立の美術館・博物館が多くなっている。それは、江戸時代を扱う物が多いせいもあるのだろうけれど、学芸員・職員の高い志を感じられる丁寧な展示の魅力によるところも大きいと思う。

初めての場所だったので、過去の企画展の図録など、5冊購入。
横浜でも、今回の企画展用に作られた冊子と、コレクションの図録を購入した。『とおくてよくみえない』は、文字情報の多い、高嶺入門書として非常にありがたい物だけれど、こうやって写真図版にしてしまうことで、またしても、展示の本質から外れていくような気がする。
展示会ではかなりの確率で図録を購入するのことにしているのだけれど、図録は作品ではない、という当たり前のことも、ちゃんと認識しないとな。


さて、やっと当初のメインイベント。ル・テアトル銀座で歌舞伎、女殺油地獄 

この劇場は前にも何度か行っているのだけれど、歌舞伎は初めて。
緩い傾斜のついた客席がどうも歌舞伎っぽくなくて落ち着かない。
蜷川実花も参加した広告の効果なのか、海老蔵事件のお陰なのか、ここのところ歌舞伎は大盛況で、この日も大入り。

『女殺油地獄』は、孝夫(仁左衛門)はじめ、歌舞伎でも何度か観たし、もちろん文楽でも何度も観ている。
授業や読書会でも扱ったことのあるテキストだけれど、やっぱり引っかかりはある。
“逮夜”まで入れたことがどういう意味を持ったのか、と言うのも問題だけれど、ここでも、それをどう見せるか、と言う話。

与兵衛の最後の告白をどう評価するのか、捕り手とのやりとり、退場の時の表情。
その前に、なぜお吉は殺されるのか。父母の愁嘆を、与兵衛はどう聞いたのか。浄瑠璃本文を、節付けの知識がないまま読むと、どうとでも取れてしまうから、それを謎のまま提示するか、一定の“合理的解釈”を見せるのかで、演出が大きく変わる。
孝夫は「先にから門口に蚊にくはれ、長々しい親達の愁歎聞いて、涙をこぼしました」を、かなり白々しくやったように思うが、今回は真実みがある。
真実みがあるのは、それが心底改心したのか、改心したように見せかける“演技”が迫真なのか。

細かく思い出せないが、与兵衛が花道から退場するいくつかの場面を比べると、臆病で見栄坊な若者の姿が見えてくる。
難解というか、明確に読み切れない話を、読み切れないなりに明確な演出をして見せたところが、現代の余り同情できないような育ち方をしたゆとり息子の不安定な心情をリアルに見せてしまったようで、妙な気分。

贅沢な詰め込みで、長くなった。

また個別に書き足すかも知れない。

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