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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森218号

2008-08-01 | 201号~220号
       ■こならの森218号■2006.6発行
表紙 「喜連川堀割 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「喜連川堀割」…………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】
ドライブガイド
足利氏ゆかりの「喜連川」

 喜連川の有名な桜並木が縁になったようだが、氏家と合併後の新市名は「さくら市」。合併ラッシュのこの時期、他府県でも同じ名前が付いていないのかと心配してしまうくらい日本人にとっては、なじみのある名称だ。
 その喜連川の有名な桜並木をくぐって、町中に入り最初に目に入った看板には、「足利家歴代の墓」とある。足利家とは、あの佐野市の隣の「足利」か? いったいどうして、ここに歴代の墓があるのか? そんな思いがよぎった、喜連川と足利氏の関連を、そういえば聞いたような気もする………と、少しばかりよぎったのだが、その時にははっきりとはしなかった。
 さらに役場から図書館まで車を走らせ、左折しようとした場所に佐野(歯科?)医院という大きな看板が目に入った。足利はもとより、ここは佐野にもゆかり?のある場所なのか。今回は、ドライブ・ガイドといった意味あいよりも、その歴史的背景の方に、興味が湧いてしまった。町のパンフレットによれば、足利尊氏の弟の系譜であるという。
 そう思えば、町の名所である掘り割りもうなずける所である。
 尊氏の血筋が、幾多の苦難、紆余曲折を経て、この喜連川に結集してくる。なんとも運命的な場所だとも思える。江戸時代には、一万石以下であるにもかかわらず、唯一藩として認められていた。
 その時代の佐野氏はといえば、鎌倉公方、古河公方とも足利氏に仕えていた。そんな経過からも少しは関連があるとも言える。
 そうした大きな歴史の背景を少し理解して行ってみると、また楽しいものである。

■御用堀
 こうした掘りで有名なのは、津和野、あるいは萩といった城下町だが、県内にも同じような風情の掘り割りがひっそりと、清流をたたえていた。掘り割りの途中には、
休日だったが、観光客で賑わう名所とまではいかない。人影もまばらで本当にゆったりと、往時の面影にひたれる。距離としては、200メートルほどで、その先の寒竹囲いの家並へ回り込んでいっても、小一時間の手軽な散策ルートである。役場前から別な散策道を通って、スカイタワーまで足を延ばしてもいい。


■喜連川の歴史

鎌倉公方から古河公方そして喜連川公方へ………
 足利尊氏は京都に幕府を聞くとともに、次男基氏に関東十力国を与え、鎌倉を拠点として鎌倉府を開かせた。鎌倉府の長官は鎌倉公方(関東公方)と呼ばれ、関東管領上杉氏に補佐され関東の政務を主導したが四代持氏は将軍義教と対立し、管領上杉憲実にも離反され、永亨十一年(一四三九)鎌倉公方家は滅亡した。その後、関東諸将の要望により持氏の子・成氏が鎌倉公方として復活したが、上杉氏の支持を失い、古河に移り古河公方と称された。
 古河公方家は、初代成氏から五代義氏まで命脈を保ったが、天正十年(一五八二)義氏は九歳の氏女を残して没し、一二八年間続いた古河公方家は断絶した。
 一方、古河公方二代政氏の次男義明は、下総小弓城にあって勢威を振い小弓公方と称された。義明は国府台の戦において討死したが、三男国王丸と二姫は安房館山の里見氏に保譲された。国王丸は成人して頼純と名乗り、その娘・嶋子は縁ありて喜連川塩谷氏十七代惟久に嫁いだ。
 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は小田原城攻略に際し、関東の諸将に参陣を命じたが、惟久はこれに応じなかったために秀吉の怒りに触れたと察知し出奔、惟広以来十七代四百年続いた喜連川塩谷氏は滅亡した。
 その際、惟久夫人鳩子は宇都宮に陣した秀吉を訪ね、惟久に二心ないことを弁明し許しを請うた。
 また、秀吉は古河公方家の断絶を惜しみ古河公方義氏の遺子・氏女に鳩子の弟国朝を配し、古河公方家の再興を認めた。
 国朝は秀吉の朝鮮出兵に応じ出陣の途次安芸国において急死したため、秀吉は国朝の弟頼氏と氏女をめあわせ襲封させた。
 頼氏は喜連川に居舘を定め「喜連川」を氏としたため「喜連川公方」と尊称された。
 江戸時代、徳川幕府は、喜連川氏を足利将軍家の後裔の中で、唯一の大名として格式十万石・実高一万石、特権十六力条を与え優遇した。
(きつれがわ てくてくあるきマップより転載)

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