
前回の続きで、小野小町ゆかりの寺院・小野随心院の話です。
先月27日に小野随心院を訪れたのは、毎年この時期に行われる「はねず踊り」を見に行くためでした。
「はねず」とは薄紅色を意味する古語であり、小野随心院には見事な梅園があって、その梅を「はねずの梅」と呼ぶそうです。
その「はねず」色の衣装をまとった女の子たちが、紅梅をさし、花笠をかぶり、風流傘の周りをわらべ唄に合わせて踊ります。
そのわらべ唄の題材になっているのが、小野小町の「深草少将の百夜通い」伝説です。
「深草少将の百夜通い」伝説とは、おおまかに言って次のような話です。
絶世の美女と言われた小野小町に恋をした男というのはあまた居ましたが、最も熱心に求愛をした貴公子の一人に、深草少将という人が居ました。
小町に求愛した深草少将は、彼女から「百夜通ったら想いを遂げさせてあげましょう」と言われます。
それ以来少将は、毎夜小町の元に通い、その証拠にと榧(かや)の実をひとつずつ置いていきます。
しかし九十九日目の大雪の降る夜、少将は最後の榧の実を持ったまま、力つきて倒れてしまいました。
よく伝わっているのはこような話ですが、「最後の夜に代人を立ててしまって、それがバレて小町にふられてしまった」という説も伝わっています。
小野随心院に伝わっているのは、後者の話です。
いずれにしても、深草少将は想いを遂げられず無念の結末を迎えることになるわけです。
その「百夜通い」伝説を元にしたわらべ唄が伝わり、この小野郷では昔からこのわらべ唄を踊りながら里の家々を回る風習があったそうです。
この「はねず踊り」は、絶えてしまった時期もあったそうですが、1973(昭和48)年に復活させられて現在に至るそうです。
なお、その歌詞はこちらをご覧ください。
当日の境内は、はねず踊りや梅園を見ようと集まってきた大勢の参拝者・観光客にあふれかえっていました。大盛況です。

小野随心院の薬医門という門の前につくられた特別ステージに、踊り手の女の子たちが立ちます。
踊り手となるのは、小学校の4年生から6年生までの女の子です。

舞台で踊り手の子たちにインタビューをしているのは、司会進行をつとめる、2010年「ミス小野小町」に選ばれた土井由賀さんです。
小野随心院では、毎年秋頃に「ミス小野小町選考会」が行われ、そこで「ミス小野小町」に選ばれた女性は旅行券などの賞品を与えられると共に、一年間随心院の諸行事やボランティア活動などに従事することになります。
「今の気持ちは?」と尋ねる土井さんに、女の子達は「緊張しています」と返事。がんばれ。
さて、はねず踊りのはじまり、はじまり。
白い縁取りの花笠を被ったの子が「深草少将」役。赤い縁取りの花笠を被り、緑の裾の着物を着ている子が「小町」役です。この「小町」&「少将」のペア何組かで踊ります。






唄は四番目までありましたが、彼女たちは最後まで踊りきりました。
お疲れさまでした。ありがとう!
ところで、この「百夜通い」伝説にはいくつもの後日談があり、謡曲などの題材になっています。
謡曲『通小町』は、死後も成仏できない小町の霊を高僧が供養しようとすると、深草少将の亡霊が現れ、生前の恨みから小町の成仏を邪魔しようとする話です。最後には、高僧の供養によって、二人とも成仏します。
謡曲『卒塔婆小町』になるともっとドロドロした話になっており、少将の霊は年老いた小町にも取り憑き、恨みや未練をはき続けるというのもです……。
強烈な未練や無念を抱きながら亡くなった深草少将の霊は成仏できなかったと考えられたのでしょう。
夢枕獏原作の『陰陽師』などでも、「深草少将の霊が、死後も小町の霊に執着し続ける」というくだりがありました。
そうえいば……。
小野随心院の住所は「京都市山科区小野御霊町35」となっています。
その地名にもある「御霊」という言葉は、確か「死者の魂」とか「怨霊」などを表す言葉です。
一体、誰の「御霊」を表しているのでしょうか?
小町本人の? それとも小町に対して強い未練や恨みを残して死んだ深草少将の?
やはり、怨霊を生み出すようなドロドロした何かがあったのか?
そのように考えてしまいます。
そういったドロドロしたエピソードや、さらにはその後日談に関連したスポットなどもあるのですが、そうしたスポットについても、いずれ本シリーズでとりあげることにしましょう。
なお今回は、はねず踊りの後に行われた「今様(いまよう)」の踊りと、「陵王の舞」も少しだけですが、紹介します。
「今様」の舞。




今様とは平安時代末期に流行した歌謡曲。
当日の解説によれば、「はねず踊りがかわいらしい少女の踊りであるのに対して、今様は大人の女性の踊り」であるそうです。
今様は、当時宴席に侍った白拍子によって広められましたそうです。
水干(すいかん)、直垂(ひたたれ)に立烏帽子(たちえぼし)などといった当時の男性の服装を着て舞をするというもの。つまり、現代の宝塚歌劇のように男装の麗人たちによる舞だったのです。
さらに面白いことに、この白拍子の舞は古代の巫女舞がルーツになっているそうで、その踊り手が男装するというのも、「神を憑依させた時の一時的な性転換作用表す」などといった呪術的な意味があったと考えられています。
次は、奉納舞。
「陵王の舞」とかいう、古代に中国から日本に伝わり、しかも現在の中国には残されていないという、非常に珍しい舞だそうです。




現在では、京都の「市比賣神社」が中心となっている雅楽復興の会「いちひめ雅楽会」の皆さんが演奏を担当しておられました。

この雅楽は元々は神事のためのものであり、ある時代まで神職以外の人が演奏することはできなかったというものです。
それでは、また長くなってしまいましたので、今回はこの辺で切ります。
次回は小野梅園の風景を少し紹介し、さらに次々会では小野随心院の不思議スポットを紹介していきます。
では、また次回!
*小野随心院のホームページ
http://www.zuishinin.or.jp/index.html
小野随心院の周辺地図はこちらをご覧ください。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm


