京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(98):小野随心院(その1)






 どうも。
 一ヶ月も本シリーズの更新を止めてしまいました。
 理由は先月13日記事にも書いたとおり、地震や原発事故などで萎縮してからですが、これではいかんと考え直しましたので、30日記事で「日常」復帰を宣言しました。

 ということで、本シリーズも今回より再開といきます。
 実は、このシリーズでとりあげたいネタはいくつもあるし、(桜や梅の写真も含めて)写真のストックも大量にたまっていますし、どれから手をつけていいのか迷っておりましたが……一ヶ月ぶりのシリーズ再開の第一回は、「小野小町」の関連記事を書くことにしました。

 皆さんは、小野小町という女性をご存知でしょうか。
 おそらく日本人の多くは、彼女の名を知っていることでしょう。
 平安時代の優れた女流歌人にして、絶世の美女。
 今でも彼女の名は美人の代名詞のように使われ、美人のことをよく「○○小町」と呼びます。
 しかし実はこの小野小町、不思議な力を持つ巫女や異能者の類だったという話も遺されているのです。
 例えば、『小町集』にある(注:リンク先では、69番目の歌)

「ちはやふる-かみもみまさは-たちさわき-あまのとかはの-ひくちあけたまへ」

という和歌を詠んで雨を降らせた……などという伝説も遺されています。
 また、本シリーズでも何度かとりあげてきた、この世とあの世とを自由に行き来できる能力を持っていたという超人・小野篁(おののたかむら)と血縁者(姪か、孫娘という説あり)であると伝えられています。
 篁・小町の先祖には、聖徳太子時代の遣隋使として有名な小野妹子(おののいもこ)が居て、さらに小野氏とは古代において神事や呪術などを司っていた一族だったとも伝えられているそうです。

 小野小町など古代・平安時代の人々が作り、詠んできた和歌も、実は非常に呪術的要素が強いものです。
 というより、元々は和歌も日本の「言霊信仰」(言葉が霊的な力を持ち、発した言葉は現実の事象にも影響を与えるという信仰)によって生まれたものであり、そのルーツは神道の祝詞だそうです。
 聖なる数字「五」と「七」を、「五・七・五・七・七」と並べて、その中に言霊をこめるという一種の呪術であったわけです。
 そう考えれば、和歌を作り、詠む人は「言霊使い」。一種の呪術師でもあったわけです。

 前置きが長くなってしまいましたが、小野小町とは、このように不思議で神秘的な要素をたくさん持った人物であるということを、ご理解いただけたでしょうか?

 今回は、その小野小町ゆかりの寺院、京都市山科区にある小野随心院を訪れました。


 まずは、アクセスから。
 最寄りの鉄道は、京都市営地下鉄の小野駅です。






 一番出口から、5~10分も歩けば、小野随心院の入り口にたどり着きます。
 アクセスや道のりについての詳細はこちらもご覧ください。


 



 この辺りは元々、「小野郷」と呼ばれる小野氏の所領であったそうです。
 この小町の邸跡だったのが、小野随心院だったそうです。
 小町の死後から100年近く、小野氏の後、991(正暦2)年。
 真言宗小野流の祖・仁海僧正が、牛に生まれ変わったという生母の供養に牛皮山曼荼羅寺を建立したのが、随心院の始まりだと伝えられています(仁海僧正と、その伝説についても、後日に本シリーズでとりあげます)。
 
 ここを訪れたのは3月27日。
 名勝ともされる小野随心院の梅園で「観梅会」の開催期間の最中でした。
 さらにその日は、小野小町の伝説を元にした「はねず踊り」の開催日でした。
 この「はねず踊り」と、その元になった「草深少将の百夜通い」の伝説については、回を改めて写真付きの記事で紹介します。
 そのためか、当日は多くの参拝者や観光客などで賑わっていました。






 入り口から入ったところにも梅の花が。









 境内のすぐそばには、あの弘法大師ゆかりの寺のひとつ、大乗院も。
 そういえば、この小野随心院も「小野流真言宗」という密教系の寺院でしたね。
 











 境内に入ります。
 小野小町の歌碑が建っていました。






 「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」という百人一首にも選ばれた有名な歌が刻まれています。
 これは、老いて衰えゆく自らの美貌を見て世の無常を詠んだ歌と言われてますが、この歌で「花の色」に例えられたのは、「老い」や「容色」などではなく、「薄情な人の心」だと解釈する説もありますが。
 ただいずれにしても、世の無常を感じさせる作品です。


 境内の庭です。


















 実は境内には、重要文化財などにも含めた貴重な仏像や、障子に書かれた絵画、特殊な仏具などの宝物があったのですが、建家の中は撮影禁止となっておりましたので、残念ながらここで読者の皆様にお見せすることができません。
 宝物については、せめてこちらをご覧ください。
 なんと、その中には牛の皮で作られたらしい荘厳具・華鬘(けまん)もありました。
 「随心院を開基した仁海僧正が、母の生まれ変わりである牛の死骸の皮から作った」という伝説の曼陀羅とは、これのことでしょうか?


 ところで、次は今回のおまけ映像。

 境内の庭に、何故かこんなかわいいお地蔵さんが(笑)。









さて、これ以上は長くなりすぎますので、今回はここで一旦切ります。

 次回は、毎年この時期に小野随心院で行われる「はねず踊り」と、その元になった「草深少将百夜通い」の伝説についてとりあげます。

 では、また次回!
 
 


*小野随心院のホームページ
http://www.zuishinin.or.jp/index.html

 小野随心院の周辺地図はこちらをご覧ください。




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm





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