京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(225):神泉苑・その3




 京都市街地の中に古くから遺る、数々の歴史と伝説に彩られたパワースポット、神泉苑を紹介するシリーズ第3回目です。
 今回も、この庭園の各所をめぐりながら、そうした伝説のいくつかを紹介していきたいと思います。

 今回は「法成橋」と、日本史上にも名高い2人のスーパーヒロイン、静御前と小野小町にまつわる伝説と共に紹介します。


 まずは、前々回前回の続きで、再び善女竜王社の前へ戻ります。









 善女竜王社の横からのびる朱塗りの丸橋、「法成橋」です。






 ちなみに、この橋がかかる大きな池は「放生池」とか「法成就池」とか呼ばれているそうです。
 この橋は、一願成就のパワースポットとしても知られています。
 心に願いを念じながら法成橋を渡り、善女龍王に祈ると叶うと言われています。
 以下、法成橋から見た善女竜王社と、お願いの仕方を書いた張り紙です。








 私もやってみました。
 何を願ったかは……内緒です。

 この橋は、恋愛成就のスポットとしても有名です。
 何故ならこの橋は、源義経と静御前の、歴史上名高い英雄とヒロインが初めて出会った場所としても知られているからです。
 さらにその時、静御前が不思議な能力を顕したという次のような伝説も遺されているのです。

 後白河法皇の時代、法皇は100人の僧に雨乞の祈祷をさせましたが、効果がありませんでした。
 その次に法皇は、100人の白拍子に雨乞の舞を舞わせましたが、99人の白拍子が舞っても雨が降りません。最後に静御前が法成橋の上で舞ったところ、にわかに空が曇って大雨が降ったと伝えられています。
 その時、源義経は静御前を見初めたと『義経記』には書かれているそうです。

 ここで驚くべきことは、静御前には「雨乞祈祷」の能力があったということ。
 善女竜王を召喚して雨を降らせた弘法大師のように、非常に優れた異能者・呪術者としての能力があったと伝えられていることです。
 この話を知ったら、歴史・伝説上に有名な美しきヒロインの、また別の側面も見えてきます。

 なお次の画像は、現在に伝わっている白拍子の姿。
 小野随心院の『はねず踊り』で披露された白拍子の芸能「今様(いまよう)」の様子です。





 でも考えてみれば、そんな伝説があっても不思議ではないかもしれません。
 静御前の職業である「白拍子」とその舞とは、そもそも何か。
 白拍子の舞の起源を遡れば、巫女による巫女舞にあるとも言われています。
 また、白拍子の服装(水干、立烏帽子、白鞘巻)は当時の男装。今で言うと宝塚歌劇みたいな男装麗人による芸能だったのですが、実はこれにも呪術的な意味があるそうです。
 「神事において舞い、神が憑依すると性別が転換する」と古来より信じられていたそうです。
 「日本武尊が熊襲タケルを打つ際に女装していた」とか、「神功皇后が三韓征伐の際に男装をした」などの伝説も、この古来からの信仰を反映していると考えられています。
 白拍子は単なる芸能者というだけではなく、巫女とか、呪術者・宗教者などとしての側面も持っていた人々だったのでしょう。

 話を戻しますと、静御前の雨乞伝説は、彼女がただ美しいだけのヒロインではなく、白拍子としても、呪術者としても非常に優秀な女性であったということを伝えようという意図で作られたのかもしれません。



 ここで小休止。
 2年ほど前の初夏頃に撮影した、法成橋上からの光景です。






 もう一人。
 この神泉苑で雨乞の呪術を成功させたと伝えられている、日本史上有名なスーパーヒロインが居ます。
 それが、絶世の美女としても知られる歌人・小野小町です。

 シリーズ第98回でも触れたことがありますが。
  『小町集』に遺されている「ちはやふる-かみもみまさは-たちさわき-あまのとかはの-ひくちあけたまへ」という和歌を詠んで雨を降らせた。そんな話も伝えられています。

 でも、小野小町にこんな伝説が遺されているのにも、理由があるのです。

 まず、小野小町が生まれたという小野の一族について。
 彼女は、本シリーズでも何度かとりあげてきた、この世とあの世とを自由に行き来できる能力を持っていたという超人・小野篁(おののたかむら)と血縁者(姪か、孫娘という説あり)であると伝えられています。
 篁・小町の先祖には、聖徳太子時代の遣隋使として有名な小野妹子(おののいもこ)が居て、さらに小野氏とは古代において神事や呪術などを司っていた一族だったとも伝えられているそうです。

 さらに、彼女が得意としていた和歌にも理由があります。
 古代より多くの日本人が作り、詠んできた和歌も、実は非常に呪術的要素が強いものなのです。
 というより、元々は和歌も日本の「言霊信仰」(言葉が霊的な力を持ち、発した言葉は現実の事象にも影響を与えるという信仰)によって生まれたものであり、そのルーツは神道の祝詞だそうです。
 聖なる数字「五」と「七」を、「五・七・五・七・七」と並べて、その中に言霊をこめるという一種の呪術であったわけです。
 そう考えれば、和歌を作り、詠む人は「言霊使い」。一種の呪術師でもあったわけです。

 異能者・呪術者の一族に生まれた美女が、和歌の形をした祈祷術を使って雨を降らせた。
 「小町の雨乞歌伝説」の意味は、そういうことになります。







 いかがでしょうか。
 こういう話を聞けば。
 少し視点・観点を変えて見れば、歴史上の有名人や、寺社仏閣などの文化財などの違った側面も見えてくることもあるのです。
 特に妖怪や呪術などオカルト方面から見れば、意外な発見があったりすることも多い。
 『京都妖怪探訪』というシリーズを続けていて、面白いと思うことのひとつがこれです。
 しかもそういうネタは、探せば次から次に出てきて、尽きることがありません。
 だから、やめられない(笑)。



 さて、記事がそこそこの長さになりましたので、ここで一旦切ります。
 神泉苑の記事はまだ続きます。
 シリーズ次回は、神泉苑内の「本堂」「鯉塚・亀塚」というスポットを中心に紹介していきます。
 



*神泉苑へのアクセスはこちら



*神泉苑の公式HP
http://www.shinsenen.org/




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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コメント一覧

小路@管理人
http://moon.ap.teacup.com/komichi/
>わ~い、お茶さん

 そういえば、出雲神話にそんな話が。
 始まりからして和歌は、そういう呪術的な意味があったとは。
 こうして見ると、日本の(特に古代の)伝統文化・芸能の多くは呪術的な意味があるものか……などという気がしてきました。
わ~い、お茶
こんばんは。和歌は確かスサノオノミコトが
クシイナダ姫とともに居を定めた時に詠んだ
歌がその起源だとされています。垣根を張ってそこを外の世界と人を住まう所を分ける、と言う内容の歌だそうです。
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