京都市街地の中に古くから遺る、数々の歴史と伝説に彩られたパワースポット、神泉苑を紹介する第4回目です。
今回も、この庭園の各所をめぐりながら、そうした伝説のいくつかを紹介していきたいと思います。
今回は「本堂」と「鯉塚・亀塚」を、有名な京都・祇園祭の元になった「御霊会」の話と共に。
まずはシリーズ前回の続きから。
善女竜王から法成橋を渡っていきますと、すぐそこに本堂が見えてきます。
ここが本堂です。
御池通り側の入り口から入ってすぐ正面のところに善女竜王社があるので、善女竜王社の方が本堂みたいに見えそうですが、こちら方が本堂です。
聖観世音菩薩がご本尊として祀られているそうですが、中はよく見えませんでした。
礼儀として、礼拝していきます。
ご本尊の脇にはたくさんのお地蔵さん、つまり地蔵菩薩像が集められた箇所が。
よくあるのが、「明治の廃仏毀釈の難を逃れて移されてきた」というケースですが、ここのお地蔵さんたちもそのクチでしょうか。
ここで思い出したのですが、有名な京都・祇園祭の元になったという「御霊会(ごりょうえ)」が、初めて公に行われたのが、ここ神泉苑だそうです。
御霊会とは、(特に権力闘争や政治的謀略などで)非業の死を遂げて怨霊となった人々を祀り、慰め、鎮めるために始められたという宗教的儀式です。
当時、「疫病や天災などの災厄は怨霊や疫神などの仕業である」と信じられていました。
貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われたそうです。
崇道天皇(早良親王)、井上内親王(いのえないしんのう)、他戸親王(おさべしんのう)など、権力闘争によって非業の死を遂げて怨霊になったと考えられた6名の霊を祀るために、神泉苑で祭壇が設けられました。この時、庭園の門が開放され、読経をはじめ、雅楽や舞踊などの芸能も演じられ、盛大に行われたと伝えられています。
なお、この時祀られた6名の霊は、現在でも「上御霊神社」(シリーズ第56回なども参照)などに祀られています。
貞観11年(869年)には、神泉苑の南端(現在の八坂神社・三条御供社の位置)に、当時全国の国の数であった66本の鉾が立てられ、祇園社から神輿が出され、これが現在の祇園祭の元になったと言われています。
本堂の向かい側に立つ、「鯉塚」と「亀塚」。
それぞれ、鯉と亀が彫られています。
ここ神泉苑の池にも、たくさんの鯉と亀が居ます。
神仏習合によって神道にも取り入れられた仏教の「不殺生戒(生き物を殺していけないという戒律)」に由来した、「放生(ほうじょう)」「放生会」という宗教的儀式があります。
捕獲した生き物(魚や鳥獣)を自然に放して、殺生を戒めるというものです。
ここ神泉苑でも、放生会が行われていたのでしょう。
本堂、鯉塚・亀塚前から「平安殿」という建物の横を通って、北門を目指します。
さて、記事がそこそこの長さになりましたので、ここで一旦切ります。
神泉苑の記事はあともう1回続きます。
それでは、また。
*神泉苑へのアクセスはこちら。
*神泉苑の公式HP
http://www.shinsenen.org/
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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