今回昨年のちょうど今頃でしたっけ。
京都を少し離れて滋賀県大津市にある、瀬田の唐橋にまで足を伸ばしました。
せっかく買った、アニメ『けいおん!』の京阪電車大津線・特別乗車券(※詳細は2011年11月29日記事をご覧ください)を使ってどこかに行きたい、というのもあったのですが(笑)、どうせ行くなら、『京都妖怪探訪』シリーズでとりあげるにふさわしい場所に行きたいと思いました。
そこで訪れた場所のひとつが、今回とりあげる「瀬田の唐橋」です。
宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる、有名な橋です。
最初に架けられた時期ははっきりしないそうですが、ここは古くから京都とも重要な関わりを持つ軍事・交通の要衝として有名で、「唐橋を制する者は天下を制する」とまで言われたほどです。
天武元年(672年)の「壬申の乱」、天平8年(764年)の「恵美押勝の乱」、平安末期の源平合戦、承久3年(1221年)の「承久の乱」など、歴史上何度も戦いの舞台になりました。
そして、この唐橋にはもうひとつの顔があります。
それが、「俵藤太の大ムカデ退治」など数々の妖怪伝説の遺るスポットとしての顔です。
今回は、その伝説のいくつかを紹介しながら、現代の唐橋を巡ります。
まずはアクセスから。
京阪電車・大津線の「唐橋前」駅。
近くには、京阪バス・近江鉄道バス・帝産バス(帝産湖南交通)のバス停もあります。
駅前、踏切を横断する道を少し東へ歩けば、唐橋の西詰に出ます。
古くからの交通の要衝だったという話ですが、現在でも結構交通量の多い場所です。
橋の西詰めから、東詰へ向かって渡り始めます。
途中の中州には、料理旅館らしき建物も。
橋の途中、中州付近の様子です。
まず、中州の南側から見てみましょう。
水準点。
明治天皇の碑が。
これは……。俵藤太?
すみません、誰の像だったか、ど忘れしてしまいました(汗)。
水難供養塔です。
昔から現在に至るまで、琵琶湖とその周辺の河川域は、水難事故が絶えませんから、このような碑も建てられたのでしょう。
中州の北側も。建物と看板が見えます。
有名な「俵藤太の大ムカデ退治伝説」を解説した看板です。
昔、唐橋に横たわる大蛇を平然とまたいで通った、藤原秀郷(のちの俵藤太)。
大蛇の正体は琵琶湖の竜神で、老人の姿で現れた竜神は、秀郷の勇気を見込んで、琵琶湖周辺を荒らしている大ムカデの退治を依頼します。
見事に大ムカデを退治した秀郷は、老人に竜宮に招待され、一生食べきれないほどの米俵などの数々の宝物を授かり、そこから「俵藤太」と呼ばれるようになりました。
また、授かった宝物のひとつである、朝敵を倒す弓で、後の平将門の乱でも活躍した、と伝えられています。
これが「俵藤太ムカデ退治伝説」の大まかなあらすじです。
「瀬田の唐橋」に関する伝説で、多くの日本人が思い浮かべる伝説といえば、まずこれでしょう。
さらに散策。
中州には、観測所みたいな場所も。
橋の下にも。
中州から、橋の東詰へ。
ここで少し話をはさみます。
この唐橋には、「俵藤太ムカデ退治伝説」以外にも、鬼や妖怪などの伝説が遺されています。
『今昔物語集』(どの巻のどの段だったか忘れましたが)には、東国からやってきた男が、瀬田唐橋付近のあばら屋に泊まっていたところ、姿の見えない鬼に遭遇して追いかけられるという話も、遺されています。
さらに、『今昔物語集』巻二十七の「美濃の国の紀遠助、女の霊に値ひて遂に死にたる語」には、以下のような不気味で陰惨な話も遺されています。
美濃国の生津庄にいた紀遠助という男が、都での仕事を終えて故郷へ帰る時のことです。
瀬田の唐橋を渡っている時、橋の上で女が立っていた女に声をかけられました。その女が「どちらへ行かれますか」と尋ねたので、遠助が「美濃へ行きます」と答えました。
すると、女は懐から絹で包まれた小さな箱を出し、「この箱を、方縣郡の唐の郷の段の橋に持っていって、橋の西にいる女房に渡してください」と頼みます。
遠助は気味悪く思いましたが、女の様子が恐ろしげだったので断りづらく、引き受けてしまいます。
女は、「ただし、決してこの箱を開けて、中を見てはいけません」と言って立ち去りました。
この時遠助には従者が居ましたが、従者には女の姿が見えず、ただ遠助が馬から降りて立っていたようにしか見えずに怪しんだといいます。
その後、遠助は美濃に着きましたが、用事を忘れてその橋を忘れて通り過ぎてしまいました。
家に着いてから箱を渡していなかったのを思い出し、「後から持っていって渡そう」と、物置に置いておきました。
しかしそれを偶然見た、嫉妬深い遠助の妻は、「他の女にあげようとしているものを、京でわざわざ買って来て私に隠しているのではないか」と疑い、遠助が外出した間に、こっそりと取って開けました。
その中にはなんと……たくさんの人の目玉や、多くの切り取られた男性器が入っていたのです!
これを見て驚き、恐ろしくなった妻は、帰ってきた遠助にそのことを話しました。
遠助は「ああ、見るなと言ったのに」と箱を元のようにして、女の言った橋に持っていきました。
すると本当に女房が受け取りに出てきましたが、その女房が「この箱の中を見たな」と言いました。遠助は「いいえ、そんな事はありません」と答えましたが、女房は顔色を変えて「なんてことをしてくれたのだ」と言って箱を受け取りました。
帰ってから遠助は、気分が悪くなって寝込んでしまい臥せるより、すぐに死んでしまったと伝えられています。
このような伝説も遺されていることから、この瀬田唐橋は「現世と異界との境目」みたいに考えられていたのかもしれません。
東詰に到着。
東詰付近の岸辺に石碑が。
表には橋の名が、裏には「俵藤太百足退治伝承の地」であることを示す文が刻まれています。
なお、本記事の写真は昨年の今頃撮影したものですから、現在ではいくらか様子が変わっているかもしれません。
数々の歴史や伝説・伝承の舞台ともなったこの橋も現在は、東西交通の要衝としての地位を、ここより北側(瀬田川のより上流)を通る国道一号線や、ここより南側(瀬田川のより下流)の名神高速道路に譲ってしまっているようです。
また、さすがに今では、鬼や大蛇、不気味な女などと遭遇することなどは、まずないでしょうが(笑)。
しかしそれでも、観光スポットのひとつとして、市民や県民の生活道路として現在も生き続けているようです。
それでは、今回はここまで。
また次回。
*瀬田・唐橋へのアクセス・周辺地図はこちら。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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