2006年02月23日
ロシア滞在通算165日目
【今日の写真:ボーバの部屋。壁にはたくさんの漢字カードが貼ってあり、それぞれにロシア語で意味、日本語で漢字の読みが書いてあった。】
今日の主な動き
13:46 出かける
13:54 インターネットカフェ
15:23 列車予約センター
15:59 日本センターの入っている建物 ボーバらと待ち合わせ
16:30頃 近くのカフェ
18:22 「505」(CD、DVDの店)
19:00 ボーバの家
21:51 いつもの薬局
21:55 帰宅
今日2月23日は一般に「男性の日」と呼ばれているが、この日はもともと赤軍の創立記念日(1918年)で、その記念日を祝うために1996年に新設された新しい祝日。ロシア語では”день защитника отечества(祖国防衛軍の日)”というのだそうだ。
昨夜ホストファミリーに、来週チェレポビェッツへ行くが一緒にどうかと誘われ、今朝その話の続きをした。3月1日はチェレポビェッツに住むセルゲイの母の誕生日で、ナジェージュダとセルゲイはそのお祝いに行くのだそうだ。チェレポビェッツはペテルブルクに近い東の町。鉄道の距離にして468kmほど離れているこの町には、夜行列車で10時間ほどで行ける。
チェレポビェッツのあるヴォログダ州(ペテルブルクのあるレニングラード州の隣、州都ヴォログダ(Вологда)、人口約130万)はナジェージュダ、セルゲイの出身地で、ヴォログダをはじめ各地にホストファミリーの親戚がいるそうだ。セルゲイはベロゼルスクやキリロフなど周辺の町の写真を見せながら、チェレポビェッツに行くついでにこれらの町も見に行くよう勧めてきた。私にとってはいささか急な話だったが、もともといずれヴォログダには行く予定でいたし、ペテルブルクやモスクワ以外のロシアの都市も見ておかなければいけないと思うので、行くことにした。
午後、ボーバと、テコンドー教室のユリカ先生と待ち合わせてカフェで話をする。
4月に友達がロシアに来るので、モスクワとペテルブルクを案内する旨ボーバに言うと、「どうしてモスクワなんかへ行くのか?」と聞かれた。ボーバによるとモスクワは頭が悪い連中、雑多な人間がたくさんいて言葉の発音もおかしいから、ペテルブルクの人の中にはモスクワを嫌う人が多いのだという。ユリカ先生も同意見。
そういえば、去年私達のクラスに教育実習に来た先生も同様のことを言っていた。12月に私がモスクワに行った際、彼は「モスクワなんかにいないで早くペテルブルクに帰ってこい」と私に伝えてきた。ペテルブルクの人はこの街が一番だと思っているようだ。何だかんだで私もペテルブルクはヨーロッパ一の街だと思っている。ペテルブルクに住んでいるからということもあろうが、昨年訪れたパリ、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヘルシンキなどの都市に比べて上品さと落ち着きがあり、雑多な観光客が極めて少ないというのも大変良い。いくら歴史ある街でも、うるさい観光客がうようよ跋扈しているようでは興ざめ。イタリア諸都市は特にそれがひどく、どこに行っても日本人はいたし、外国人観光客でごった返していた。
ロシアはビザの手続きが大変面倒で、街で英語がほとんど通じないが、雑多な外国人観光客を遠ざけるという意味ではそれも悪くないなと思えてくる。特にペテルブルクは、本当にこの街を好きな人がゆっくりと時間をかけて静かに観光する場所だと私は思う。
私は日本にいた頃、指導教官のN先生とこんな話をしたことがある。
私:「ロシアといったらペテルブルクが一番ですよね。」
N先生:「いやいや、なにを言ってるんだ。やっぱりモスクワだよ!」
N先生は大学院でロシア留学の経験があるが、ペテルブルクではなくモスクワで勉強していた。私がペテルブルクを一番だと思うのと同様に、N先生にとっては自分の住んでいたモスクワが一番らしい。その先生に何も知らずに「ペテルブルクが一番」と言ってしまったのはあまりに迂闊だった。N先生以外にモスクワ経験者やモスクワの人とあまり話したことはないが、モスクワの人はきっと「モスクワが一番」と言ってペテルブルクの悪口を言うのかもしれない。
そもそもどっちが一番だなんてそれぞれの人の好みの問題だが、私は断固ペテルブルク一番説を支持する。帰国したらこんな話題でN先生と論争するのも面白い。ボーバとユリカ先生にこの話を紹介すると、彼らも笑っていた。
ともあれ、4月に友達が来た際には、やはりモスクワへの案内は外せない。良くも悪くも首都だし、一瞥をする価値はある。もちろん、私が「ヨーロッパで一番」だと思うペテルブルクにはモスクワよりも長く滞在してもらってこの街を案内するつもりである。
カフェで話をしている間、私が最近ラジオで聴いて気に入った曲の曲名や歌手をボーバらに教えてもらった。ラジオで聞き取れたさびの部分を実際に歌ってみたり、イヤホンからデジカメに録音した音を再生してみたりすると、彼らは曲名や歌手を教えてくれて、CDを買いに案内してくれた。
CDの店では商品を開けて実際に試聴できた。今日は”Алла Пугачёва”という歌手のCDを買ってみた。彼女の”Стариные часы”という曲はとても良い。実はこの歌手、日本語でも有名な”Миллион алых роз”(日本語での曲名は正確に知らない。百万本のバラ(?)みたいな名前だったと思う。)という曲も歌っていて、今日買ったCDにはその曲も入っていた。
その後ボーバの家に行き、ここでも2時間以上3人で話した。その時聞いた興味深い話。ロシアで最も給料が安い仕事は医者と先生だという。医者と先生の給料が安いことは知っていたが、「最も」というところがミソ。
いくらなんでもまさか医者の給料が「最も」安いなんてことはないだろうと思いこんでいたが、どうやら本当に「最も」安いらしい。医者よりも、例えば工場労働者の方が給料は高く、医者の倍くらいなのだそうだ。日本の感覚ではおよそ考えられないが、所変わればなんとやらというわけか。
もう一つ驚いたことは、ロシアには学費無料の大学があるらしい。先生達への給与はどうなっているのかと尋ねたところ、全部国が負担するとのこと。ボーバの学費もかなり安いと聞いた。それに比べて日本の大学はといえば、一番安いはずの国立大学でさえ年間50万円以上なわけで、私立大学だとこの2倍、3倍はざらである。そのことをボーバに話すと目が飛び出るくらいびっくりしていた。
以前も紹介したが、ペテルブルクの平均月給は350ドル前後。物価が安い分給料も安いわけだが、日本は物価が高い分給料も高い。そう考えれば大差はないのではないかと思っていたところ、ユリカ先生が「(ロシアと諸外国では)大きな違いがある。」と言う。彼女は「日本では1年働けば海外旅行に行けるでしょう?私達にはそれは無理だ。」と語った。
ユリカ先生は、「ロシアにはまだまだ社会主義の、ソ連時代の名残が根強く残っている。」と言う。その言葉の含意を全て理解するにはもう少し時間が必要だが、ロシアの現実は、私達外国人の想像を上回るものがある。良くも悪くも、人々の生活、価値観の中には随所に「ソ連の軛」が亡霊のように残存しているように見える。
私達が歴史を理解する際は、まず始めに時代の変化のメルクマールとなる出来事に目向ける。710年平城京遷都、794年平安京遷都など、小学校以来おなじみの、年代の語呂合わせとともに覚えてきた出来事がそれである。しかしそれらの出来事を境に何が変わったのか、変わらなかったのかというより本質的なことを往々にして見落としがちである。私が大学で受けた古代日本史の授業の先生は、国立大学法人化という極めて身近な例でそのことを説明した。法人化によって、私達学生や教官にとって何が変わったか。あれだけ大きなニュースになったにも関わらず、授業料が安くなるわけでも、事務の官僚的で無愛想な対応が改善されるわけでもなく、結局のところ学生にとっても教官にとっても、何ら大きく変わったことはない。歴史とはそういうものだと教えられた。
1991年12月25日は全世界的に衝撃を与えたソ連邦終焉の日として永遠に記憶されるに違いないが、ロシアの人々にとって、それがどれだけの意義をもっていたことか。ロシアの現代をさす言葉として時に「ソ連崩壊後…。」という言葉が用いられ、私自身も深く考えずに用いたことがある。しかしこれはロシアに暮らす人々から見てほとんど無意味でナンセンスな時代区分なのではないか。そればかりか、時にこの言葉は、人々の生活、価値観の連続性という重要な部分を見落とす原因になりうる危険な言葉である。
今のロシアは人々にとって、決して「ソ連崩壊後」、あるいは「ポストソ連」ではない。ロシアの人々の暮らしぶりを見たり、話を聞いたりしていると、そのことを痛感させられる。
ロシア滞在通算165日目
【今日の写真:ボーバの部屋。壁にはたくさんの漢字カードが貼ってあり、それぞれにロシア語で意味、日本語で漢字の読みが書いてあった。】
今日の主な動き
13:46 出かける
13:54 インターネットカフェ
15:23 列車予約センター
15:59 日本センターの入っている建物 ボーバらと待ち合わせ
16:30頃 近くのカフェ
18:22 「505」(CD、DVDの店)
19:00 ボーバの家
21:51 いつもの薬局
21:55 帰宅
今日2月23日は一般に「男性の日」と呼ばれているが、この日はもともと赤軍の創立記念日(1918年)で、その記念日を祝うために1996年に新設された新しい祝日。ロシア語では”день защитника отечества(祖国防衛軍の日)”というのだそうだ。
昨夜ホストファミリーに、来週チェレポビェッツへ行くが一緒にどうかと誘われ、今朝その話の続きをした。3月1日はチェレポビェッツに住むセルゲイの母の誕生日で、ナジェージュダとセルゲイはそのお祝いに行くのだそうだ。チェレポビェッツはペテルブルクに近い東の町。鉄道の距離にして468kmほど離れているこの町には、夜行列車で10時間ほどで行ける。
チェレポビェッツのあるヴォログダ州(ペテルブルクのあるレニングラード州の隣、州都ヴォログダ(Вологда)、人口約130万)はナジェージュダ、セルゲイの出身地で、ヴォログダをはじめ各地にホストファミリーの親戚がいるそうだ。セルゲイはベロゼルスクやキリロフなど周辺の町の写真を見せながら、チェレポビェッツに行くついでにこれらの町も見に行くよう勧めてきた。私にとってはいささか急な話だったが、もともといずれヴォログダには行く予定でいたし、ペテルブルクやモスクワ以外のロシアの都市も見ておかなければいけないと思うので、行くことにした。
午後、ボーバと、テコンドー教室のユリカ先生と待ち合わせてカフェで話をする。
4月に友達がロシアに来るので、モスクワとペテルブルクを案内する旨ボーバに言うと、「どうしてモスクワなんかへ行くのか?」と聞かれた。ボーバによるとモスクワは頭が悪い連中、雑多な人間がたくさんいて言葉の発音もおかしいから、ペテルブルクの人の中にはモスクワを嫌う人が多いのだという。ユリカ先生も同意見。
そういえば、去年私達のクラスに教育実習に来た先生も同様のことを言っていた。12月に私がモスクワに行った際、彼は「モスクワなんかにいないで早くペテルブルクに帰ってこい」と私に伝えてきた。ペテルブルクの人はこの街が一番だと思っているようだ。何だかんだで私もペテルブルクはヨーロッパ一の街だと思っている。ペテルブルクに住んでいるからということもあろうが、昨年訪れたパリ、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヘルシンキなどの都市に比べて上品さと落ち着きがあり、雑多な観光客が極めて少ないというのも大変良い。いくら歴史ある街でも、うるさい観光客がうようよ跋扈しているようでは興ざめ。イタリア諸都市は特にそれがひどく、どこに行っても日本人はいたし、外国人観光客でごった返していた。
ロシアはビザの手続きが大変面倒で、街で英語がほとんど通じないが、雑多な外国人観光客を遠ざけるという意味ではそれも悪くないなと思えてくる。特にペテルブルクは、本当にこの街を好きな人がゆっくりと時間をかけて静かに観光する場所だと私は思う。
私は日本にいた頃、指導教官のN先生とこんな話をしたことがある。
私:「ロシアといったらペテルブルクが一番ですよね。」
N先生:「いやいや、なにを言ってるんだ。やっぱりモスクワだよ!」
N先生は大学院でロシア留学の経験があるが、ペテルブルクではなくモスクワで勉強していた。私がペテルブルクを一番だと思うのと同様に、N先生にとっては自分の住んでいたモスクワが一番らしい。その先生に何も知らずに「ペテルブルクが一番」と言ってしまったのはあまりに迂闊だった。N先生以外にモスクワ経験者やモスクワの人とあまり話したことはないが、モスクワの人はきっと「モスクワが一番」と言ってペテルブルクの悪口を言うのかもしれない。
そもそもどっちが一番だなんてそれぞれの人の好みの問題だが、私は断固ペテルブルク一番説を支持する。帰国したらこんな話題でN先生と論争するのも面白い。ボーバとユリカ先生にこの話を紹介すると、彼らも笑っていた。
ともあれ、4月に友達が来た際には、やはりモスクワへの案内は外せない。良くも悪くも首都だし、一瞥をする価値はある。もちろん、私が「ヨーロッパで一番」だと思うペテルブルクにはモスクワよりも長く滞在してもらってこの街を案内するつもりである。
カフェで話をしている間、私が最近ラジオで聴いて気に入った曲の曲名や歌手をボーバらに教えてもらった。ラジオで聞き取れたさびの部分を実際に歌ってみたり、イヤホンからデジカメに録音した音を再生してみたりすると、彼らは曲名や歌手を教えてくれて、CDを買いに案内してくれた。
CDの店では商品を開けて実際に試聴できた。今日は”Алла Пугачёва”という歌手のCDを買ってみた。彼女の”Стариные часы”という曲はとても良い。実はこの歌手、日本語でも有名な”Миллион алых роз”(日本語での曲名は正確に知らない。百万本のバラ(?)みたいな名前だったと思う。)という曲も歌っていて、今日買ったCDにはその曲も入っていた。
その後ボーバの家に行き、ここでも2時間以上3人で話した。その時聞いた興味深い話。ロシアで最も給料が安い仕事は医者と先生だという。医者と先生の給料が安いことは知っていたが、「最も」というところがミソ。
いくらなんでもまさか医者の給料が「最も」安いなんてことはないだろうと思いこんでいたが、どうやら本当に「最も」安いらしい。医者よりも、例えば工場労働者の方が給料は高く、医者の倍くらいなのだそうだ。日本の感覚ではおよそ考えられないが、所変わればなんとやらというわけか。
もう一つ驚いたことは、ロシアには学費無料の大学があるらしい。先生達への給与はどうなっているのかと尋ねたところ、全部国が負担するとのこと。ボーバの学費もかなり安いと聞いた。それに比べて日本の大学はといえば、一番安いはずの国立大学でさえ年間50万円以上なわけで、私立大学だとこの2倍、3倍はざらである。そのことをボーバに話すと目が飛び出るくらいびっくりしていた。
以前も紹介したが、ペテルブルクの平均月給は350ドル前後。物価が安い分給料も安いわけだが、日本は物価が高い分給料も高い。そう考えれば大差はないのではないかと思っていたところ、ユリカ先生が「(ロシアと諸外国では)大きな違いがある。」と言う。彼女は「日本では1年働けば海外旅行に行けるでしょう?私達にはそれは無理だ。」と語った。
ユリカ先生は、「ロシアにはまだまだ社会主義の、ソ連時代の名残が根強く残っている。」と言う。その言葉の含意を全て理解するにはもう少し時間が必要だが、ロシアの現実は、私達外国人の想像を上回るものがある。良くも悪くも、人々の生活、価値観の中には随所に「ソ連の軛」が亡霊のように残存しているように見える。
私達が歴史を理解する際は、まず始めに時代の変化のメルクマールとなる出来事に目向ける。710年平城京遷都、794年平安京遷都など、小学校以来おなじみの、年代の語呂合わせとともに覚えてきた出来事がそれである。しかしそれらの出来事を境に何が変わったのか、変わらなかったのかというより本質的なことを往々にして見落としがちである。私が大学で受けた古代日本史の授業の先生は、国立大学法人化という極めて身近な例でそのことを説明した。法人化によって、私達学生や教官にとって何が変わったか。あれだけ大きなニュースになったにも関わらず、授業料が安くなるわけでも、事務の官僚的で無愛想な対応が改善されるわけでもなく、結局のところ学生にとっても教官にとっても、何ら大きく変わったことはない。歴史とはそういうものだと教えられた。
1991年12月25日は全世界的に衝撃を与えたソ連邦終焉の日として永遠に記憶されるに違いないが、ロシアの人々にとって、それがどれだけの意義をもっていたことか。ロシアの現代をさす言葉として時に「ソ連崩壊後…。」という言葉が用いられ、私自身も深く考えずに用いたことがある。しかしこれはロシアに暮らす人々から見てほとんど無意味でナンセンスな時代区分なのではないか。そればかりか、時にこの言葉は、人々の生活、価値観の連続性という重要な部分を見落とす原因になりうる危険な言葉である。
今のロシアは人々にとって、決して「ソ連崩壊後」、あるいは「ポストソ連」ではない。ロシアの人々の暮らしぶりを見たり、話を聞いたりしていると、そのことを痛感させられる。