びっくり箱のようなマジックという言葉が誉め言葉になるかは怪しいところだが、沢浩さんのクラッシュダイスはびっくり箱のようなマジックの中では名作中の名作だろう。
テンヨー製のそれは仕掛けの処理もできる傑作であり、以前はしばしば演じていた。
母に見せたときのことである。容器に入った1個のダイスをひと振りすると、小さいダイスに分裂した。かなりあざやかに分裂する。当然、見せた結果として母は驚き、私は仕掛けの処理をし、手渡した。もうこうなると非マジシャンはよろしくない。さらに家族だとよろしくない。「どうなっているの?」などと言って、タネを知りたがるのだ。あるいは、「もう一度見せて」というのだ。いわゆるサーストンの3原則もへったくれもない。母の目の前で種明かしをし、何が起きるかを知っている母の前で、もう一度同じマジックをしたのであった。
さすが名作である。母は仕掛けも演じ方も知ってしまった母は次の段階を要求してきた。自分もやりたいという旨の申し出である。母の場合はダイスという言い方よりサイコロの方が自分的にしっくりとくるので、以下固有名詞以外はサイコロとするが、母に演じてもらうために大きめのサイコロを私がセッティングしてから、母が容器を持ち、ひと振りすると、見事に、そして、爆弾のように小さいサイコロに分裂した。母は素直に喜んだ。仕掛けの処理の仕方までは母には難しく、母に伝えきれなかったが、母は自分が経営している音楽教室(ちなみに私たちの自宅だ)で生徒さんたちに見せたいと言う。別に私としては異論がない。さぞかし、生徒さんたちは驚き、そして、喜ぶことだろう。それは悪いことではない。
ただ、問題があった。仕掛けの処理ができないのは仕方がない。慣れと練習が必要だ。しかし、サイコロのセッティングができないというのだ。正確にはめんどくさいだけだったのかもしれないが。
かくて次のようなルーティンができた。母が生徒さんに見せる。夜遅く(というより早朝のこともあった)帰宅した私がグランドピアノの上にあるクラッシュダイスのサイコロにセッティングする。母が次の日の生徒さんに見せる。夜遅く帰宅した私が…。ある意味、文通のようなものである。「今日見せたよ」「じゃあ、明日も見せて喜ばれると良いね」という感じか。
テンヨーのキャッチコピーに「手品はコミュニケーションの道具です」というフレーズがあったが、こういうコミュニケーションの仕方もあったのである。
生徒さん、特におそらくはお子様の生徒さんらに見せ終わったらしく、サイコロはセッティングされたままになった。
突然、母は亡くなった。いろいろあったが、一区切りしてグランドピアノのある部屋に行くとセッティングされたままのクラッシュダイスが置いてあった。ひと振りした。サイコロはばらばらになった。
仕事にかまけすぎていた私は、首都圏を離れること700キロ弱の西日本へ引っ越すことにした。仕事と人間関係のほぼすべてをリセットするためだ。
ちょっとした聖なる器と化したクラッシュダイスは当然のように家の入口の靴箱の上に置かれた。一人暮らしの私にとって演じることのないクラッシュダイスがある玄関は「ただいま」を言いやすい環境を作ってくれた。
結婚して引っ越すときにクラッシュダイスはテンヨー箱に入れられることになった。ちなみに3カードモンテ2箱の隣である。
「ただいま」を言う相手がいるからかもしれないが、テンヨー箱にしまうことにしたのだ。
しばらくして、困ったことが、いや、不愉快なことが起こった。テンヨーが全世界独占販売権を取得したはずのクラッシュダイスの格安版がお店に結構な数で並んでいたのである。
帰宅した私は“本物の”クラッシュダイスを箱から出し(途中、「いやあ、久しぶりだね超能力ダイス君」などと言った具合に旧交を温めたりしながら)、セッティングをすませてから妻に見せた。人に見せるのは本当に久しぶりだ。容器に入った1個のサイコロをひと振りすると、そのサイコロは小さく分裂した。当然、妻は驚き、そして、聞いてきた「どうなっているの?」。
第一回マジックエッセイコンクール演技部門の最優秀賞受賞作品です。
当ブログへの掲載許可をくださった選者である戸崎拓也様に感謝申し上げます。