国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その31

2019-01-21 13:33:33 | 中高生のための内田樹(さま)
日本の私学を代表するW大学とM大学が同じ年に内田樹さまの『街場の現代思想』のほぼ同じ箇所が入試に出題されていたことがある。

で、だ。

この際、「大学の中の人」の考え方をこの文章で知ろうではないかというのが今回の記事の主眼である。

傍線の引いてあるところの問題はどういう問題だったか。空欄の問題は選択肢か本文中から抜き出せか。

両大学の出だしが違うのはなぜか。長いとどういう問題が作られていたか。

などなど、諸君が考えることは多くある。

出題者の思考や心情(これくらいはできてくれよみたいな、ここに傍線を引いた私は偉いなぁみたいな)を理解する一助になれば幸いである。


M大(青くしている)
傍線 ① ~ ⑥
空欄 A ~ C 【 】の部分

W大(★以降)(赤にしている)
傍線1・2
傍線A ~ D
空欄X ~ Y 【 】の部分



 ここに美しいカットグラスがあったとする。私はこれを大切に取り扱う。それはちょっとした不注意でそれが砕け散ることを知っているからである。だが、そんな気づかいをしないで済むように、踏んでも叩いても割れないグラスを使えばいいじゃないかと言われても、おいそれと肯(うべな)うわけにはいかない。どれほど造形的に美しくても、私は「割れないグラス」に①「割れるグラス」と同じような愛情を感じることができないからである。
 しかし、これは考えてみるとおかしな話だ、もし見た目も触感も同じであるとしたら、「まだ割れていないグラス」と「これからも割れないグラス」の間にはさしあたり有意な差はないはずだからである。にもかかわらず、私が「まだ割れないグラス」を「決して割れないグラス」よりも選択的に丁寧に扱うとしたら、その理由は一つしかない。それは、「まだ割れないグラス」については、それが手から落ちて滑り落ちて床に砕け散り、それが「もう割れてしまったグラス」になった瞬間に私が感じるであろう喪失感と失望を私が想像的に「先取り」しているからである。
 つまり、②「割れるグラス」の魅惑を今現在構成しているのは「それが失われた瞬間に立ち会っている未来の自分」が経験する喪失の予感なのである。
 今目の前にある「うつろいやすいもの」の美や儚(はかな)さはそれらの器物そのもののうちに内在するのではない。そうではなくて、「それが失われた瞬間に立ち会っている私」という先取りされた視座が作り出した「【 A 想像の効果】」なのである。私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」はそれら個々の事物に内在するのではなく、それが失われた私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。
★ ③私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」は「私という物語」の読者である。読者が本を読むように私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。
 それは「犯人がなかなか分からない推理小説」を読んでいる経験に似ている。怪しい人間が何人も登場するが、どれが犯人かさっぱり見当がつかず、プロットはますます錯綜してきて、こんな調子で果たして残された紙数でもちゃんと犯人は言い当てられ、不可解な密室トリックのすべては明かされるか、読者は不安になる。しかし、その不安は本を読む楽しみを少しも減Aするものではない。それは、どれほど容疑者がひしめきあい、どれほど密室トリックが複雑怪奇であっても、「探偵が最後には犯人をみごとに言い当てること」についてだけは、読者は満腔(まんこう)の確信を持って物語を読んでいるからである。
 結末がまだわからないにもかかわらず、私たちは「いかにも結末らしい結末」が物語の最後に私たちを待っているであろうかということについては、いささかの不安も感じていない。私たちが物語を楽しむことができるのは、仮想的に想定された「物語を読み終えた私」が未来において、現在の1読者の愉悦を担保してくれるからである。もし、終章で探偵が犯人を名指しして、すべての伏線の意味を明らかにすることなしに小説が終わってしまう「かもしれない」と思っていたら、私たちは推理小説を愉しむことはできないだろうし、そもそも、そんな小説を手に取りさえしないだろう。
 私たちの人生もそれと同じく「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されている。けれどもそれにもかかわらず私たちが日々のどうということもない些末(さまつ)な出来事をわくわく楽しめるのは、それが「2巨大なドラマの伏線」であったことを事後的に知って「なるほど、あれはそういうことだったのかと腑に落ちている「【 B 未来の私】」を想定しているからである。私たちの日々の【 C 散文】的な、繰り返しの多い生活に厚みと奥行きを与えるのは、今生きている生活そのもののリアリティではない。そうではなくて「私の人生」という物語を読み終えた私である。
 ジャック・ラカン(注フランスの精神分析者)はこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」という言い方で説明したことがある。「前未来形」というのは「明日の三時にこの仕事を終えているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点においてすでに完了した動作や状態を指示する文型である。
 私たちが自分の過去を思い出すとき、私たちはむろん「過去に起きた事実」をありのままに語っていない。私たちが過去の思い出を語るとき、私たちは聴衆の反応に無関心であることはできないからだ。あるB逸話について聴き手の反応がよければ「おお、この種の話は受けがいいな。では、この線で行こう」ということになるし、ある逸話についての反応がかんばしくなければ「おっと、この手の自慢話はかえって人間の価値を下げるな」と軌道修正を行う。私たちが自分の過去として思い出す話は、要するにその話を聞き終わったときに、聴き手が私のことを「どういう人間だと思うようになるか」をめざしてなされているのである。話を聞き終わった未来の時点で、聴き手から獲得されるであろう【 Ⅹ 人間的な信頼や尊敬や愛情】をめざして、私は自分の過去を思い出す。④このような人間の記憶のあり方をラカンは「前未来形で語られる記憶」と称したのである。
 それと同じことが、私たちが私たち自身の現在を物語として「読む」ときも起きている。私たちは、⑤今自分の身に起きている出来事(人間関係であれ、恋愛事件であれ仕事であれ)が「何を意味するのか」ということは、今の時点で言うことができない。それらの事件が「何を意味するのか」は百パーセントで文脈依存的だからである。
 「その事件が原因で私はやがてアメリカに旅立つことを余Cなくされたのであった」とか「その恋愛事件がやがて私の思いもよらぬ悲劇を引き起こそうとは誰一人知るよしもなかった」とか「【 Y 結果的にそのとき病気になって転進したことが幸いして私は震災を免れたのである】」とかいうナレーションは、物語を最後まで「読んだ私」にしか付けることができない。
 私たちはその「ナレーション」をリアルタイムでは聞くことができない。
 しかし、それにもかかわらず、私たち自身が恋愛事件のクライマックスや喧嘩(けんか)の修羅場を迎えているときに、その場の登場人物の全体をD俯瞰(ふかん)するカメラアイから自分を含む風景を見下ろし、そこに「ナレーション」がかかり、BGMが聞こえているような「既視感」にとらわれることがある。というか、⑥そのような既視感にとらわれることがなければ、私たちはそもそも自分が「クライマックス」に立ち会っているとか、「修羅場」に向かっているような文脈的な位置づけをすることができないはずである
(内田樹『街場の現代思想』による)




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