74年前の東京大空襲は忘れることができません
防空壕で寝ていたら、母に起こされて防空頭巾をかぶって、
外を見たら家の前の通りを大きな火の粉がどんどん飛んで
行きます、父はリヤカーに荷物を積み、姉が自転車に荷物を
積んで、外に出ました。私は母に背負われました。
姉たち両親、隣の母子4人、お父さんが出征中で我が家が
お世話していました。
総勢10人近くの神社の防空壕に入っていました。両親は
私たちをおいて、家に何かを取りに戻りました。
私は大声で、行っちゃだめだ~と大声で叫びました。
私だけが大声を出したのでしょうか。
姉たちの声は聞こえません、すぐに両親は戻ってきて
もうだめだと言いました。防空壕は熱くなってきました
熱い熱い私が大騒ぎをしました。そして総勢10人は
そばの橋を渡りました。渡りきったところで、こちらに
大勢の人が向かってきました。両親はどんな気持ちだった
のでしょうか。
そこへ馬がパカパカと駆けてきます。みんなで建物の
陰に隠れて馬が通り過ぎるのを待ちました。

そして川沿いの堤防を走りました。木の橋をみんなで
渡りました。風が轟々と鳴っています。
橋の欄干が燃えています。父が何か言っていますが。
母には聞こえなかったそうです。
橋を渡ったところで、警防団の人がみんなを小学校に
案内してくれました。
そこで母が渡った橋が船堀橋だと気がついて、母の従姉妹の
ことを思い出し、警防団の人に話したら、その中に従姉妹の
ご主人が居て総勢10人がお世話になりました。
私たちが渡ってまもなく、船堀橋は焼け落ちたそうです。
お隣のさだおちゃん、りょうこちゃん、とし坊はまもなく
房総のおばさんの実家に帰ったそうです。
どうしたかしら可愛い三人兄妹弟、今でも忘れられません。
私は今でも、両親が家に戻るとき行っちゃだめだと叫んだこと
熱い熱いと騒いだことがみんなを救ったと思っています。
姉はおんぶされた強子が何を言うのと馬鹿にします。
近所でも速く学校に避難した人が亡くなりました。
今でも大きな火の粉が飛んでるのを思い出します。

防空壕で寝ていたら、母に起こされて防空頭巾をかぶって、
外を見たら家の前の通りを大きな火の粉がどんどん飛んで
行きます、父はリヤカーに荷物を積み、姉が自転車に荷物を
積んで、外に出ました。私は母に背負われました。
姉たち両親、隣の母子4人、お父さんが出征中で我が家が
お世話していました。
総勢10人近くの神社の防空壕に入っていました。両親は
私たちをおいて、家に何かを取りに戻りました。
私は大声で、行っちゃだめだ~と大声で叫びました。
私だけが大声を出したのでしょうか。
姉たちの声は聞こえません、すぐに両親は戻ってきて
もうだめだと言いました。防空壕は熱くなってきました
熱い熱い私が大騒ぎをしました。そして総勢10人は
そばの橋を渡りました。渡りきったところで、こちらに
大勢の人が向かってきました。両親はどんな気持ちだった
のでしょうか。
そこへ馬がパカパカと駆けてきます。みんなで建物の
陰に隠れて馬が通り過ぎるのを待ちました。



そして川沿いの堤防を走りました。木の橋をみんなで
渡りました。風が轟々と鳴っています。
橋の欄干が燃えています。父が何か言っていますが。
母には聞こえなかったそうです。

橋を渡ったところで、警防団の人がみんなを小学校に
案内してくれました。
そこで母が渡った橋が船堀橋だと気がついて、母の従姉妹の
ことを思い出し、警防団の人に話したら、その中に従姉妹の
ご主人が居て総勢10人がお世話になりました。
私たちが渡ってまもなく、船堀橋は焼け落ちたそうです。
お隣のさだおちゃん、りょうこちゃん、とし坊はまもなく
房総のおばさんの実家に帰ったそうです。
どうしたかしら可愛い三人兄妹弟、今でも忘れられません。
私は今でも、両親が家に戻るとき行っちゃだめだと叫んだこと
熱い熱いと騒いだことがみんなを救ったと思っています。
姉はおんぶされた強子が何を言うのと馬鹿にします。
近所でも速く学校に避難した人が亡くなりました。
今でも大きな火の粉が飛んでるのを思い出します。


このブログを読み、あなたが私の大先輩と知りました。これまでの失礼を、ご容赦ください。
本などに知識を求めるより、貴方にお話を伺った方が、ずっと正しい正確なのだと分かりました。
これからも、どうか、よろしくお願いいたします。
父や母に昔の話をもっと聞いておけばと
後悔しています。
二人とも関東大震災の生き残り、東京大空襲にも
生き残って。戦後の食料難の時子どもを守り。
おまけにキティ台風で水害に遭い。
凄いと思いますが、国民はみんなこのようなことを乗り越えて、頑張ってきました。
今生きていられてありがたいです。