チャールズ・ハリー・イートン(1850-1901)、アメリカ。
秋の雨は冷たい。
その止んだ後には、憂いが拭われたようなさわやかさはない。
悲哀を浴びた後の悲しさが風景を漂う。
もうすぐ冬がやってくるのだ。
秋時雨降る野に立ちてゆふぐれのうれひのうするすべもなき人 揺之
すべもなくやぶれしくにのなかぞらをわたらふかぜのおとぞかなしき 会津八一
格調高く悲しみをうたいあげているかに見えるが、胡散臭い。
盗作よりも痛いことをやっていると思える。
おそらく複数の存在で共同でなした作である。
こういう情感を詠むことはたやすい。
それらしく詠いすぎていることで、かえって嘘臭くなる。
敗戦の首をおめおめつなぎつついひわけすらもならぬ身を食ふ 揺之
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば
わが身さへこそ揺るがるれ
梁塵秘抄
よく聞く詩句だが、出典はここにあった。
人間は遊びや戯れをするためにうまれてきたのだろうか。
いや決してそうではない。
だが遊ぶ子供の声を聞くと、わたしでさえ自然に引き込まれてしまうことよ。
遊ぶということは、酒や女で遊ぶことではあるまい。
おのれの手足をはちきれるほど動かして、気の合う友達と一緒に何かをやることなのだ。
そういう本当の遊びの原型が、子供の中に見える。
人間は時にそれに引かれ、子供のように遊んでしまうのだろう。
遊びせむわらはのもてるまろき石玉のごときに黒光りせり 揺之
Many tiny birds
Sing in springtime:
All is
Renewed, yet
I am grown older.
百千鳥さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふりゆく よみ人しらず
ひとはよくこういう感慨を味わう。それは外国人も同じだろう。
年毎に春はすべてが若やいで見えるが、今年の自分は去年の自分ではない。
少しずつ老いていく自分がいる。
悲しいことのようで、何か美しい恵みがある気もするのだ。
去年と比べれば、心が深くなっている自分がいるからだ。
さくらばなこぞに見し夢ふりかへり千歳の春の心をぞ知る 揺之
いとせめて恋しき時はむば玉の夜の衣をかへしてぞ着る 小野小町
小町の歌はすべて他の歌人の代作だが、その歌人はなかなかのものだ。
夜着を裏返して着て寝ると、夢で恋しい人に会えるという俗信があった。
そういう子供のようなことにさえすがりたい女の気持ちに自分もなって詠んでいる。
小町がかわいかったのだろう。
なぜ代作をしたのかと、想像をしたくなるような作である。
とほかりて聖夜にねぶるその人の夢にいらむと窓にほほよす 揺之
ベン・フォスター(1852-1926)、アメリカ。
おそらく曇天だろう。
静かな日の出だ。空に赤みもささず、輝かしい昼の予感もない。
森は死んでいるようだ。
冬に倒れていく秋の中でも、日の出はくりかえされる。
絶望の日々の中でも、永遠の愛の約束は繰り返されるのだ。
秋の日のしづかな光ふりくればうれひも澄みて道の辺に立つ 揺之
明治以降の歌から、よいと思うものを選んでみた。百人もいるわけがないが、近現代の歌人にも珠玉がひとつもなかったわけではない。
玉髄のかけらひろへど山裾の紺におびえてためらふこゝろ 宮沢賢治
すきかへす人こそなけれ敷嶋のうたのあらす田あれにあれしを 樋口一葉
薄月に君が名を呼ぶ清水かげ小百合ゆすれてしら露ちりぬ 山川登美子
春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕 北原白秋
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 石川啄木
母君よ涙のごひて見給へなわれはもはやも病ひ癒えたり 中原中也
今見つかるのはこれくらいであろうか。年代が下がるほど少なくなる。
平成の今はほとんど皆無である。
これからの世代に期待したいと思う。
手を添へてゆかむ岸辺をとほく見てわがことをなすいうれいの昼 揺之