“平和”のために始める66歳からのブログ

年寄りだからと言ってこのまま黙って見過ごしていて良いのか?66歳の男が過去を振り返り今を考えるブログに挑戦!

怖かった兵隊さんと父の死

2009年04月16日 16時11分22秒 | 私の記憶
<父からの絵はがき(満州:チチハルから)>

 年月も不明だし、どちらが古い事柄だったかも全く思い出せないが、思い出される順に古い記憶を書き留めておく。
恐らく終戦後だと思うのだが、「髪結い」の商売をやっていた私の家には、「お宅の御主人と戦地で一緒だったかも?」と言う言い方で、軍服を着て重いリュックを背負った、髭面の真っ黒い顔をした兵隊さんがよく訪ねてきた。その度に私の母と祖母(父の母)が、玄関に出て丁寧に対応をしていた。大半がと言うより結果的には全て、父の消息には結びつかない話ばかりだったが、母と祖母は藁にもすがる思いで話を聞き、その都度必ず一杯のご飯と沢庵とお茶を差し出していた。子ども心に私は、見るからに怖そうな兵隊さんが、早く帰ってくれないかと柱の陰で祈るように見守っていた事を思い出す。そして、その兵隊さんが帰った後、母と祖母が「また今回もただのもの貰いだったね」とガッカリした表情で話しをしている姿を何度も見た記憶がある。更に私は何故か、その兵隊さんが使った茶碗と大きな湯飲を見るのが怖くて仕方なかった。不潔感と言うより、何故かその湯飲がただ怖かったことだけを良く覚えている。

<美容院の花子先生(母)とマサちゃん>

その後(何年後だったか不明)結局、同じ愛知県内のある街(不明)に、父がシベリヤの地で死んだ時(1946年2月)一緒だったという本当の戦友が生きていることが分かり、母と祖母と私と(兄は一緒だったか記憶にない)で、その人を訪ねていった事を覚えている。その人は、母と手をつないでいた私の顔を見て「残念だが、あの時死んだ小林さんは、この子のお父さんに間違いない」とハッキリ言い切っていた。正直私は何のことか良く分からなかったが、母と祖母が大きな声で泣き出したのを見て、何か大変なことがあったのだと子ども心に不安になったのを覚えている。しかし反面、何故かまだ見ぬ父が私に瓜二つ、そっくりだと言うことを聞いて嬉しいような得意なような気もしたことも事実だ。
この辺りの詳細について、いま私の廻りにいる人たちの中で知っていて教えてくれそうな人は殆ど居ない。何とか誰かにもう少し、その頃のことを聞きたいものだと思うのだが・・・。

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