大同大学-高森裁判 経過ブログ

「ペンネーム使えますか?」
問い合わせただけで契約を解除された高森が、支援者とともに裁判を闘うドキュメンタリー。

手続きなのか実態なのか?

2009-06-23 04:52:18 | 法律論
 アメリカ連邦最高裁では、すごい判決が出ているようです。
 たとえばAFPとか。
 日本では菅家さんのDNA鑑定が間違っていたとなると、どういう権限によるのか何なのか知りませんがあっという間に牢屋から出てきてしまいました。そして検察は謝ったりして、めずらしくしおらしい。
 アメリカのアラスカ州で強姦で牢屋に入っている黒人のオズボーンさんも1994年にDNA鑑定を受けて有罪になっていました。オズボーンさんはDNAの再鑑定を申請したのですが、アラスカ州連邦裁判所は拒否をしました。
 オズボーンさんはこの拒否を違憲だとして連邦最高裁に訴えていたわけです。
 しかし、連邦最高裁は5:4で連邦裁の決定を支持しました。

 この決定はデュープロセスに則って行った判断であり有効であるということのようです。もし、オズボーンさんの有罪判決が覆るようなことがあってはならないというわけです。これは、日本のお役人たちが自分たちの無謬性を維持するために隠し立てしましょうというようなことではありません。
 もしDNA鑑定でオズボーンさんの無罪が確定したら、一体前回の裁判での決定はどうなるんだということを問題にしているわけです。つまりデュープロセスに則って決定されている以上、それはあくまでも最終決定なのであって、そのあとテクノロジーが発達したからといってくつがえすわけにはいかない。なぜならば、もしそれを認めると、すべての判決はいずれも暫定的なものにすぎないことになり、裁判の正統性も、デュープロセスの概念すら脅かしかねないというわけです。
 完全にスプリットな決定なのですが、残りの最高裁判事たちは事実を踏まえた判決を行わなければならないので、事実を明らかにする手段ができた場合にはそれを踏まえるべきだというものです。

 これは要は、裁判が正当な手続きを経て行われた場合にはその決定は正しいものとするという手続きの正統性を保障するべきなのか、自然科学的に事実に基づいた判決の正統性を保障するべきなのかという、極めて重い判断が行われたことを意味します。しかも、それがこれだけ意見が割れてしまう。

 大同大学の件でも、裁判官は手続きを重視していそうな口ぶりをしたりもしますので、非常勤講師採用の実態がどうなっているのかということよりも、大学が後出しじゃんけんで出してきた手続きを基礎にした議論をしてくれそうな雲行きもあったりしそうです。初めから決まってたんじゃないんだぜ。後出しじゃんけんで自分たちの行いを正当化するために採用プロセスをでっち上げてきて、しかもそれが担当者が言っていることと合わないんだから、びっくりです。それでも一応手続きを見るといわれると困るんですよね。
 アメリカ連邦最高裁とは比べ物になりませんが、大同大学も何もおかしいことはしていないということですから、隠し立てするようなこともないと思います。すべてをつまびらかに実態を明らかにして、判断をしてもらえるようにしたいです。

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学問の自由

2009-06-23 03:30:43 | 法律論
 大学には学問の自由が保障されているということになっていて、そのなかにはさらに「研究の自由、研究発表の自由、教授の自由、および大学の自治」というのが認められていると、大学の先生方はみんな思っています。
 いつぞやとある研究会に参加してみたところ、「マイケル・ジャクソンの顔の変化と仮面ライダーに出てくる怪人の装飾具合の変化がよく似ている」という発表をしている某有名大学の先生がおられて、こちらは発狂しそうになったことがあります。自由だから研究はしても良いんだろうケドさ。国立大学だったら確実に税金泥棒と叫ぶところですわな。といってもそれも若気の至りで、よく考えると私立大学も私学助成金でかなり食っているわけで、税金泥棒と叫んでもいいところでした。ま、昨今は、私学助成金は大学のばくち打ちに使われていて、うちの近所に引っ越してくるはずだった大学なんかも、お金がないからしばらく延期します、といっておられます。大丈夫、来年からまた授業料が舞い込みますから、数年で引越しもできるようになります。
 そんなわけで、大学にはいろいろな自由があり、その自由を謳歌しておられるのが大学の先生方なわけです。
 「大学の自治」といっても、大学経営者なのか、大学の先生たちなのか、学生たちなのか主体がなんなのかよく分かりません。しかし、鹿児島国際大学の先生方が集めてくださった判例集を見ると、その自治の一端は大学の先生方の意思決定機関である「教授会」にもあると裁判所はしばしば判断をしていらっしゃるようです。
 しかし、「学問の自由から教授会の自由が当然認められるものではない」という判断もあります。

 今回の大同大学事件については、大学側は担当の教授、准教授はリストアップをしているだけだといっています。単なる事務作業をしているだけなので、お前を採用した覚えはないというのです。そうだとすると、その時点で選考からはずす理由もありません。「ペンネームを使いたいといっているようなけしからん輩を採用するわけにはいかない」ということを、3ヵ月後の教務委員会か教授会で決定して落とせばよいのです(会議は3ヵ月後ですが、私の採用の決定は一日を争っていたそうですし、私の後任の先生は教授会で承認する前にシラバス作成という業務をやらされていたし、「教授会は形式的なものですから」と担当者から言われていたりしましたし、どこからどう見ても教授会での決定を待たずして事実上採用されている扱いになっていました。こうした事実をいくら積み上げても彼ら自身が教授会決定まで採用が決定されていないとする行動を取っていないのですが・・・)。履歴書を見たところ明らかに要求していた、修士以上の学位と大学での教育経験が不足しているなど純粋に事務的に採用には不十分なものについては事務的な手続きで選別をする権限もあるのでしょうが、最初の募集の条件にも入っていないし他の大学では普通に認められているペンネーム使用について問い合わせるということで、選別をする権限だけは認められているというのはいかにも不自然です。

 ところが、今回の事件では大学の専任の先生方はほとんど相手にしてくれません。
 「大学において教授会の権限は絶対なので、教授会を通っていない案件については、大学では何の決定もされていないということになります」と異口同音におっしゃるわけです。
 つまり、「教授会で決定するまでは、担当者は非常勤講師に何を言おうと、その結果非常勤講師がどんな目にあおうと知ったことではありません。大学のローカルルールを知らないお前がどうかしているのだ」ということをおっしゃるわけです。
 しかし、「自由」とはもともとは滝川事件天皇機関説事件などから考えられるようになってきました。日本で学問の自由が憲法23条に記されるようになった契機を作った事件は、国家権力との闘いでした。その本義を忘れて、自分たちの権力を温存することばかりに汲々としている大学の先生もあまりにも多いのが現実です。最近の例だと七尾養護学校の性教育に関する事件がありました。この先生方は自分たちの自由を守るために戦い抜きました。大学の先生方におかれましても、せめて都議くらいとは戦ってから自由を口にしてもらいたいものです。
 大同大学の先生方も、本当におかしなことをしていないという確信があるなら、せめて私たちと法廷で正々堂々と戦い抜いていただいて、教授会の権限を自分の力で守り抜いてから、自由を口にしていただきたいと思います。

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