先日(6月20日)、江戸川区健康部が区管理職級以上の職員と議員を対象に、放射線の専門家による研修会がありました。講師を務めた専門家は昨今、メディアでしばしば登場する放射線医療専門の中川恵一氏でした。
みなさんの中でも、中川氏の見解や意見を新聞などでチラホラご覧になっている方も多いことと思います。ですので、放射線医療の専門家としての中川氏の講演内容をここに転載する意図はありません。また、講演内容は同氏いわく『放射線のひみつ』に書いてあることと同様だということでした。ご興味のある方はお読みになるとよいでしょう。私はコンパクト版しか持っていませんが・・・。感情的にではなく、放射線について実証的または科学的に理解したいという方にはお勧めです。そもそも原発に関する本ではまったくありませんし、原発に賛成の人も反対の人も、放射線というものに関する科学的な知見は備えておいて損はないと思います。
さて、私はここに専門家による放射線の評価について展開する意図はないと申し上げました。と申しますのも、実際のところ、私は放射能についても放射線医療についても門外漢ですので、数字をつらつら並べて力説するには決して適任者とは言えません。私がかりに「何ミリシーベルトは危険だ、安全だ」と語ったとしたら、それは受け売りにしかすぎません。私に限らず、学生時代に原子力物理でも専攻していないかぎり、ほとんどの議員や政治家による原子力や放射能に関する昨今の「危険だ、安全だ」といった意見は専門家の見解の「受け売り」であるはずです。
もっとも、受け売りが悪いとは申しません。原子力や放射能について語れる人は限られています。ゼネラリストたる政治家には、どんなに専門的な問題であっても、意見や判断を求められることが少なくありません。専門家から学ばざるを得ません。私はただ、政治家が放射線量について数字を取り扱ったり、評価するのはあまり適任ではないと申し上げているだけです。
さて、私は今「受け売り」と申し上げてきました。専門家の示す数字をそのまま引用することは文字通り「受け売り」ですから。
ところで、放射線量の値については、数字単体としてはあまり意味がありません。少なくとも、放射能の専門家以外の、私たち一般人にとっては、です。問題となってくるのはその数字をどのように評価するかという解釈の行為が行われたときです。
例えば、一般公衆の年間被ばく限度の閾値(しきいち)は1ミリシーベルト(注1)なのか、10ミリシーベルトなのか、あるいは20ミリシーベルトなのか。この数字をめぐる疑問に対して評価または解釈がなされたとき、私たち一般人ははじめて大きな関心を持ち、数字に大きな意味が生じてきます。
ある人は「1ミリシーベルトでも危険だ」と語るでしょうし、またある人は「1ミリシーベルトでは危険だとは評価できない」と語るかもしれません。ラドンのような放射能泉を例に「○○ミリシーベルトくらいならむしろ安全とさえ言える」という解釈も飛び出してくるかもしれません。(注2)専門家の間でもいろいろな評価があるようです(2011年3月25日開催の第373回食品安全委員会)。
専門家がそれぞれの科学的知見を駆使し、数字に対するある評価や解釈を下すと、今度はそれをメディアが取り上げます。政治家も反応します(私も含め)。専門家の各評価を参考とし、その政治家の主観というフィルターを通し、その政治家の「解釈」がそこから開陳されていくわけです。
ここで注意すべきは、それら閾値に対する評価や解釈は、専門家による分析評価に比べ、科学的純度の劣った素人の「解釈」だという点です。
この点をもう少し補強しておきましょう。メディアは視聴率を意識しないわけにはいきません。美談や無難さを報じてもニュースとしてはインパクトが足りません。「ここではこれだけ測定できました! 政府の言う通りで本当に大丈夫なんでしょうか!?」と。ですから、メディアにとっての閾値は低い方が都合がよいでしょう。どちらがニワトリでタマゴなのかはわかりませんが、放射能の危険性は誰しも知っているため、社会的風潮としても閾値を上げることには抵抗があります。メディアと私たち一般人とのベクトルはここで一致します。
政治家にとってはいつでも有権者(一般人)の動きが一番の関心事です。みなが「危険だ、不安だ」と言えば、「ごもっとも」と、閾値を下げようとします。「危険ですよ、不安ですよ、そうですよね」と。自分もそうですが、政治家は常に世間とベクトルを合わせようとします。というより、合わせざるを得ないというべきかもしれません。ある種の職業的運命というか・・・。
しかし不幸なのは、メディアや政治家が語れば語るほど、科学的評価から徐々に遠ざかっていき、圧倒的な力を持つ社会的風潮の中で、非科学的な答えや解法が模索されようとするということです。
放射能を不安に思うことがいけないわけでは毛頭ありません。私だって不安がないと言えば、ウソになります。またむしろ、不安に感じるほうが自然と言えるでしょう。放射能は実際問題、とても危険なものです。(人間は自分たちで制御できない原子炉というものを作り出してしまったのです。)
しかし、そうした不安な見方を持った時こそ、感情で処理してはいけません。感情は理性で制御する必要があります。科学的データが公表された場合には、科学で理解するのです。前述の「解釈」に踊らされてはいけません! ましてや感情で理解するのも間違いです。イメージでもいけません。
科学という理性で理解し、対処するのです!
先日の研修会の開始冒頭、中川氏がこう語っていたのが、放射能の中身の話よりも皮肉にも私にとっては一番印象的なひとことでした。
「放射線をめぐって、ある数値をもってして『安全だ』と語ると、すごい非難を受ける。東電から金をもらっているんだろう、政府の犬、御用学者、云々と。逆に、『危険だ、危険だ』と言えば、ヒューマニストだと評価される。私たちが語っているのは放射線と人体への影響という自分たちの医療の研究成果。原発の賛否など語ってもいないのに、研究成果と無関係に『危険』と語らなければ、言葉の暴力に襲われる。もはやわれわれ研究者は語らなくなってしまった。」(記憶の中で発言趣旨を綴っていますので、テニオハは不正確です)
科学が沈黙してしまう・・・。
社会として非常に不幸なことだと思います。科学は万能ではありませんが、科学者の研究成果の積み上げによって現代社会の多くの部分がつくりあげられてきたことは間違いないと思います。ことに、放射線や医療の研究となれば、その多くが自然科学に負うているはずです(医療においては脳死や輸血などの倫理、思想、宗教と密接な分野もありますので、すべてとは言えません)。
私は、中川氏の講演を初めて拝聴したという立場で、個人的なお付き合いもありません。あえて無感情に(できるだけ客観的に)言えば、同氏が善人なのか悪人なのかは分かりません。原発に賛成なのか反対なのかもわかりません。(私は明確に脱原発を支持しますが。)政治的スタンスも知りません。ただ、それらは放射線と人体への影響をめぐる氏の医学的研究成果とはまったく関係のないことで、講演で伺った氏の科学的知見には見るべきものがありました。少なくとも、中川氏が科学的数値にきわめて忠実な方であるということは肌で感じられました。
「何ミリシーベルトが危険だ、安全だ」という、メディアや政治家の「解釈」に踊らされそうになったら、科学的に測定されたデータを科学的に理解することです。ちょっと面倒かもしれませんが、専門家の本を1冊でもよいから紐解き、理解する努力を素人の私たち一人一人もすべきです。
科学には、科学をもって反論。科学を社会の雰囲気が黙らせるとしたら、それは構造的暴力というものです。「安全?」な基準値が非科学的に「危険」と言われれば、それは冤罪というものです。
放射能はたとえコンマレベルの微量でも浴びれば健康にはマイナスですので、「安全」という言葉は必ずしも適当とは言えませんが、地球上に自然被ばくのない場所がないという事実を踏まえ、現在観測されている線量値を冷静に受け止める必要があります。
無論、行政はその判断材料となる線量値を、適切に測定し、速やかに公表する義務があるのは言うまでもありません。
(注1)放射線障害防止法において、一般公衆の年間被ばく線量の限度は1ミリシーベルトとされています。ただし、この1ミリシーベルトには自然被ばくと医療被ばくの値は含まれません。私たちが地球上で日常生活を送っているかぎり、大地からの被ばくを受けます。日本国における自然被ばくは年およそ1.5ミリシーベルトで、海外はそれよりも高くおよそ2.4ミリシーベルトだということです。また、日本人の医療被ばくは年平均で2.3ミリシーベルトということで、逆にこれは海外よりもずっと高いそうです。
(注2)放射線と人体への影響の評価において、実際には人の健康には他の要素、つまり喫煙や食生活などの生活習慣やそもそもの遺伝などの要素があるため、年100ミリシーベルト以下の影響評価は正しく判断できない、と言われています。例えば、100ミリシーベルト以下の被ばくによる危険要因と喫煙による危険要因が共存する場合、どちらがガンのリスクとなっているのかその主要因を客観的に評価はできないということです。
※このブログを書いたころは、私自身、上記のような考えを示しています。ですが、放射性物質汚染に対する私の考え方は、ブログ記事「『安全宣言』と『危険宣言』はともに慎むべき」を記したころより、変化してきました。現在はパターナリズム的なスタンスには反対です。
江戸川区議会議員 木村ながと
公式HP http://www5f.biglobe.ne.jp/~knagato-gikai/
ブログ http://blog.goo.ne.jp/knagato1/
ツイッター http://twitter.com/#!/NagatoKimura
みなさんの中でも、中川氏の見解や意見を新聞などでチラホラご覧になっている方も多いことと思います。ですので、放射線医療の専門家としての中川氏の講演内容をここに転載する意図はありません。また、講演内容は同氏いわく『放射線のひみつ』に書いてあることと同様だということでした。ご興味のある方はお読みになるとよいでしょう。私はコンパクト版しか持っていませんが・・・。感情的にではなく、放射線について実証的または科学的に理解したいという方にはお勧めです。そもそも原発に関する本ではまったくありませんし、原発に賛成の人も反対の人も、放射線というものに関する科学的な知見は備えておいて損はないと思います。
さて、私はここに専門家による放射線の評価について展開する意図はないと申し上げました。と申しますのも、実際のところ、私は放射能についても放射線医療についても門外漢ですので、数字をつらつら並べて力説するには決して適任者とは言えません。私がかりに「何ミリシーベルトは危険だ、安全だ」と語ったとしたら、それは受け売りにしかすぎません。私に限らず、学生時代に原子力物理でも専攻していないかぎり、ほとんどの議員や政治家による原子力や放射能に関する昨今の「危険だ、安全だ」といった意見は専門家の見解の「受け売り」であるはずです。
もっとも、受け売りが悪いとは申しません。原子力や放射能について語れる人は限られています。ゼネラリストたる政治家には、どんなに専門的な問題であっても、意見や判断を求められることが少なくありません。専門家から学ばざるを得ません。私はただ、政治家が放射線量について数字を取り扱ったり、評価するのはあまり適任ではないと申し上げているだけです。
さて、私は今「受け売り」と申し上げてきました。専門家の示す数字をそのまま引用することは文字通り「受け売り」ですから。
ところで、放射線量の値については、数字単体としてはあまり意味がありません。少なくとも、放射能の専門家以外の、私たち一般人にとっては、です。問題となってくるのはその数字をどのように評価するかという解釈の行為が行われたときです。
例えば、一般公衆の年間被ばく限度の閾値(しきいち)は1ミリシーベルト(注1)なのか、10ミリシーベルトなのか、あるいは20ミリシーベルトなのか。この数字をめぐる疑問に対して評価または解釈がなされたとき、私たち一般人ははじめて大きな関心を持ち、数字に大きな意味が生じてきます。
ある人は「1ミリシーベルトでも危険だ」と語るでしょうし、またある人は「1ミリシーベルトでは危険だとは評価できない」と語るかもしれません。ラドンのような放射能泉を例に「○○ミリシーベルトくらいならむしろ安全とさえ言える」という解釈も飛び出してくるかもしれません。(注2)専門家の間でもいろいろな評価があるようです(2011年3月25日開催の第373回食品安全委員会)。
専門家がそれぞれの科学的知見を駆使し、数字に対するある評価や解釈を下すと、今度はそれをメディアが取り上げます。政治家も反応します(私も含め)。専門家の各評価を参考とし、その政治家の主観というフィルターを通し、その政治家の「解釈」がそこから開陳されていくわけです。
ここで注意すべきは、それら閾値に対する評価や解釈は、専門家による分析評価に比べ、科学的純度の劣った素人の「解釈」だという点です。
この点をもう少し補強しておきましょう。メディアは視聴率を意識しないわけにはいきません。美談や無難さを報じてもニュースとしてはインパクトが足りません。「ここではこれだけ測定できました! 政府の言う通りで本当に大丈夫なんでしょうか!?」と。ですから、メディアにとっての閾値は低い方が都合がよいでしょう。どちらがニワトリでタマゴなのかはわかりませんが、放射能の危険性は誰しも知っているため、社会的風潮としても閾値を上げることには抵抗があります。メディアと私たち一般人とのベクトルはここで一致します。
政治家にとってはいつでも有権者(一般人)の動きが一番の関心事です。みなが「危険だ、不安だ」と言えば、「ごもっとも」と、閾値を下げようとします。「危険ですよ、不安ですよ、そうですよね」と。自分もそうですが、政治家は常に世間とベクトルを合わせようとします。というより、合わせざるを得ないというべきかもしれません。ある種の職業的運命というか・・・。
しかし不幸なのは、メディアや政治家が語れば語るほど、科学的評価から徐々に遠ざかっていき、圧倒的な力を持つ社会的風潮の中で、非科学的な答えや解法が模索されようとするということです。
放射能を不安に思うことがいけないわけでは毛頭ありません。私だって不安がないと言えば、ウソになります。またむしろ、不安に感じるほうが自然と言えるでしょう。放射能は実際問題、とても危険なものです。(人間は自分たちで制御できない原子炉というものを作り出してしまったのです。)
しかし、そうした不安な見方を持った時こそ、感情で処理してはいけません。感情は理性で制御する必要があります。科学的データが公表された場合には、科学で理解するのです。前述の「解釈」に踊らされてはいけません! ましてや感情で理解するのも間違いです。イメージでもいけません。
科学という理性で理解し、対処するのです!
先日の研修会の開始冒頭、中川氏がこう語っていたのが、放射能の中身の話よりも皮肉にも私にとっては一番印象的なひとことでした。
「放射線をめぐって、ある数値をもってして『安全だ』と語ると、すごい非難を受ける。東電から金をもらっているんだろう、政府の犬、御用学者、云々と。逆に、『危険だ、危険だ』と言えば、ヒューマニストだと評価される。私たちが語っているのは放射線と人体への影響という自分たちの医療の研究成果。原発の賛否など語ってもいないのに、研究成果と無関係に『危険』と語らなければ、言葉の暴力に襲われる。もはやわれわれ研究者は語らなくなってしまった。」(記憶の中で発言趣旨を綴っていますので、テニオハは不正確です)
科学が沈黙してしまう・・・。
社会として非常に不幸なことだと思います。科学は万能ではありませんが、科学者の研究成果の積み上げによって現代社会の多くの部分がつくりあげられてきたことは間違いないと思います。ことに、放射線や医療の研究となれば、その多くが自然科学に負うているはずです(医療においては脳死や輸血などの倫理、思想、宗教と密接な分野もありますので、すべてとは言えません)。
私は、中川氏の講演を初めて拝聴したという立場で、個人的なお付き合いもありません。あえて無感情に(できるだけ客観的に)言えば、同氏が善人なのか悪人なのかは分かりません。原発に賛成なのか反対なのかもわかりません。(私は明確に脱原発を支持しますが。)政治的スタンスも知りません。ただ、それらは放射線と人体への影響をめぐる氏の医学的研究成果とはまったく関係のないことで、講演で伺った氏の科学的知見には見るべきものがありました。少なくとも、中川氏が科学的数値にきわめて忠実な方であるということは肌で感じられました。
「何ミリシーベルトが危険だ、安全だ」という、メディアや政治家の「解釈」に踊らされそうになったら、科学的に測定されたデータを科学的に理解することです。ちょっと面倒かもしれませんが、専門家の本を1冊でもよいから紐解き、理解する努力を素人の私たち一人一人もすべきです。
科学には、科学をもって反論。科学を社会の雰囲気が黙らせるとしたら、それは構造的暴力というものです。「安全?」な基準値が非科学的に「危険」と言われれば、それは冤罪というものです。
放射能はたとえコンマレベルの微量でも浴びれば健康にはマイナスですので、「安全」という言葉は必ずしも適当とは言えませんが、地球上に自然被ばくのない場所がないという事実を踏まえ、現在観測されている線量値を冷静に受け止める必要があります。
無論、行政はその判断材料となる線量値を、適切に測定し、速やかに公表する義務があるのは言うまでもありません。
(注1)放射線障害防止法において、一般公衆の年間被ばく線量の限度は1ミリシーベルトとされています。ただし、この1ミリシーベルトには自然被ばくと医療被ばくの値は含まれません。私たちが地球上で日常生活を送っているかぎり、大地からの被ばくを受けます。日本国における自然被ばくは年およそ1.5ミリシーベルトで、海外はそれよりも高くおよそ2.4ミリシーベルトだということです。また、日本人の医療被ばくは年平均で2.3ミリシーベルトということで、逆にこれは海外よりもずっと高いそうです。
(注2)放射線と人体への影響の評価において、実際には人の健康には他の要素、つまり喫煙や食生活などの生活習慣やそもそもの遺伝などの要素があるため、年100ミリシーベルト以下の影響評価は正しく判断できない、と言われています。例えば、100ミリシーベルト以下の被ばくによる危険要因と喫煙による危険要因が共存する場合、どちらがガンのリスクとなっているのかその主要因を客観的に評価はできないということです。
※このブログを書いたころは、私自身、上記のような考えを示しています。ですが、放射性物質汚染に対する私の考え方は、ブログ記事「『安全宣言』と『危険宣言』はともに慎むべき」を記したころより、変化してきました。現在はパターナリズム的なスタンスには反対です。
江戸川区議会議員 木村ながと
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