木村長人(きむらながと)。皆さんとつくる地域の政治。

1964年(昭和39年)千葉生まれ。元江戸川区議(4期)。無所属。

山元町でのボランティア作業

2011-06-20 23:58:30 | 地方自治
 今日の午前1時半に宮城県山元町より無事に帰宅しました。まずはご一報です。

 ボランティア隊の皆さんの純粋な気持ちに感心したり、津波被害の実際を目の当たりにし衝撃を受けたりと、一言でまとめることはとても不可能です。震災から3カ月がたち、ある程度生々しい部分が取り除かれた今(地元の方談)でさえ、初めて訪問した私などにとっては十分な衝撃でした。

 今回ですべてをお伝えすることが困難ですので、何回かに分けてご報告したいと思います。今回はまず、ボランティア作業についてのみ記したいと思います。

 さて、それでは、現地での活動報告を詳細にいたします・・・と申し上げたいところですが、実は、具体的様子をお伝えするのに効果の高い、肝心の、作業の様子をお伝えする写真があまりありません。・・・というか、私が撮れたのはたったの1枚だけです。(作業前に地域の様子の写真は何枚か撮れました。)

 と申しますのは、実際にボランティアに入った場合をご想像いただくとお分かりになると思うのですが、みなさん、被災地の復興支援のために労働に来ている状況です。間違っても観光や視察ではありません。みな作業着のいでたちで、台車、スコップ、バケツ、バール、金槌などを手にしているのです。そんな中、カメラのシャッター音を響かせるというのは、ちょっと場を理解していないというか、もっと言えば、無神経なヤツということになりかねません。

 仕事の開始後は作業が一段落した際に、1枚撮るのがやっとでした。それさえも後ろめたい気がしたくらいです。

 作業現場で一緒になったチームのみなさんにも、自分が議員で、ブログで活動を報告したいから写真を・・・なんて説明などいちいちしません。ボランティアに来ていれば、それぞれの本職は何ら関係ありませんし。 

 ということで、画像が乏しいので、がれき撤去作業に関しては、文章での報告がメインになってしまいます。お許しください。

 私は前日の夜1時に江戸川区を出発し、首都高と東北道を乗り継いで、宮城県角田市(山元町の隣)にちょうど朝6時に到着しました。そこで、習志野レスキュー・サポート・バイク(NRB)の会長である石渡さんと合流し、ボランティアのみなさんが宿泊している宿へ向かいました。宿でみなさんと顔合わせをし、朝食をとって、8時に山元町の社会福祉協議会へと出発しました。

 朝8時半に山元町役場に隣接する社会福祉協議会に到着すると、ボランティアのみなさんが集まり、その日の作業現場や内容の指示を受け、確認していました。そして、それぞれの内容に基づいて台車、スコップ、シャベル、バケツなど、必要な道具を車に乗せていました。





 私たちはタグを組んでいる、現地のボランティア団体 band⇔aid のリーダーの方の指示を受けました。
 
 さて、現場で作業を始める前に「なるほど」と思ったことが一つありました。作業現場に散っていく前に、みんなで準備体操!をしたということです。

 「なるほど」というのは実は事後の感想であって、最初は実は「おやっ」と思ったのです。ただ、作業にとりかかってから、自分たちが取り組んでいるのは結構な肉体労働だということが理解でき、最初の準備体操に「なるほど」と感じた次第です。

 うかがった現場は、正確には分かりませんが、私の推測では海岸線から2キロメートル程度のところでしょうか。津波で床上1メートル程度まで迫った地区のようです。私が行動した100メートル範囲に限って言えば、家々は流されずに残っていましたが、各家の壁にはそれとわかる水かさの跡がありました。

 作業現場近くの写真です。



 3カ月たった今でも、汚泥の臭いが時折、風にのって鼻をついてきました。

 現場では、がれき撤去の作業をしました。もう少し正確に申し上げれば、今回は津波で浸水したお宅の床板剥がしおよびそこの汚泥の掻き出しでした。

 画像がないので、十分にお伝えできませんが、床板剥がしは大きなバールを手に一枚一枚剥がします。こ慣れた手つきの、我が習志野レスキュー・サポート・バイク(NRB)の石渡会長より手ほどきを受け、私も一枚一枚剥がしました。人が住んでいた家ですから、それなりのしっかりした造りです。そう簡単には釘を抜いたり、板を剥がすことはできません。素人には十分大変な作業でした。1時間半くらいは作業していたのでしょうか。複数人で取り組んだので、とりあえず、床板剥がしは無事に終了。でも、ここまでで相当の汗が噴き出ました。また、この日はとても暑い日で、シャツはもちろんパンツまでびっしょりになりました。

 作業現場をお伝えする唯一の画像です! 床板剥がしが完了したところです。

 上の画像の床板を剥がしたその下に汚泥らしきドロが何となく確認できませんか? 実は、次なる作業が、この汚泥の掻き出しでした。

 津波から3カ月たったというのに、この床下の汚泥はまだ十分に湿っており、べっとりとしていました。長靴が必須道具であるワケです。足元やズボンはかなりぐちゃぐちゃになります。

 海岸から2キロほどの距離がありながら、床下の泥の上にカビに覆われた小魚の死骸らしきものがあったのには驚きました。JポップらしきCDジャケットまでありました。汚泥と小魚の死骸とCDジャケットという、通常であれば共存しえないものが、民家の床下の泥の上で不調和なまま共存させられている光景を目にし、災害というものの有無を言わさぬ強制的な力の怖さを感じました。

 作業中は、暑いのと結構大変なのとで、もっともこんなことをゆっくり考えていたわけではありませんが、みなでスコップを片手に泥掻きを黙々と続けました。

 床上浸水などを体験されている方々はよくご存じなのかもしれません。私は自分では体験したことはないのですが、今回の民家の泥を見て気づいたことがあります。汚泥が二層になっているのです。まずは大部分が黒い油のような汚泥で、これがほとんどを占めていました。厚さは1.5センチメートルらいでした。その上に、茶色の通常目にする泥がうっすらを数ミリのふたをしています。

 黒い油のような汚泥は、それこそ上水も下水も油も何もかも一緒になったものなのでしょうか? よく分かりませんが・・・。

 昼過ぎまでこの作業を続け、去年10月に痛めた右手の靭帯がまた痛くなってきてしまいました。参った・・・! 

 この日は熱中症も心配されるような暑い一日でした。(みなさんがボランティアに行かれる際には、これからの季節は特に自身の熱中症対策を万全にとられることをお勧めします。自分が倒れてしまっては、何のためにボランティアに来たのか分かりません。)

 さて、私たち習志野レスキュー・サポート・バイク(NRB)のメンバーの作業はここまでで終了です。早いようでも、これで宿に戻って支度をし、千葉や東京に帰るとなると、到着は夜になります。みな、翌月曜日はそれぞれの仕事がありますので、仕事の切り上げが日曜日半日になってしまうのは仕方ありません。

 私は土曜日の作業に参加できていなかったので、正直、物足りない部分もあったのですが、前日夜中の高速移動で文字通り一睡もしていなかったので、あとで思えば、これで体力的には十分働いたのだろうと思います。

 と申しますのも、帰路の東北自動車道での睡魔たるや尋常ではありませんでした。NRBの仲間には先に帰路を急いでもらうことにし、自分だけは休憩し、ゆっくり帰ることにしました。さすがに自分でも「危ない」と思い、途中で2回の仮眠をいれました。いえ、トータルで実は5時間も寝てしまったので、仮眠というより熟睡してしまったのかもしれません。疲れてましたね~、実際。
 
 さて、東北道に乗る前に、会長の取り計らいで、30分程度、山元町の被害の現場をいくつか案内してもらいました。テレビやYouTubeなどで見ていた現場を目の当たりにしました。被災地を訪れた人が一様に、「実際に見ると、全然違う」と指摘していた意味がわかりました。この件に関しては、また別の記事でご報告いたします。

 話を戻します。ボランティアに来ている方々はいろいろでした。私が話をすることができた方々はほんの一部ですが、毎週末欠かさず横浜から来ている人、10日間も寝泊まりしてボランティアしている人(この方は女性でした)、などなど。この、運動部の合宿のような作業を、毎週末あるいは10日間もするといのは、・・・。ビックリです! 感心してしまいます! 

 そういう方々と話をしていると、ほとんど「別に大変だと思わないし」「楽しいからやっているだけだし」という答えが返ってきます。再度、感心!!

 みんなの純粋なエネルギーにボランティアワークというのは支えられているということを実感しました。また、いろいろなことを考えさせられました。本当に貴重な機会となりました。

 習志野レスキュー・サポート・バイク(NRB)も来月以降も、またボランティア隊を編成するようです。私も都合がつく時には参加していきたいと思います。今回の参加で現場の様子と要領が少し理解できたので、次回はもう少しよい装備で臨みたいと思います。




江戸川区議会議員 木村ながと
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