ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

裏日本の天候ー暗さが生み出すものー

2017年12月05日 11時28分39秒 | 風物・光景
日本海に面した地域は、かっては「裏日本」と呼ばれていた時期がありました。
私たちが小学生の時の社会科の教科書では、表日本と裏日本と言うように、日本列島を区分けしていました。
表日本には京浜工業地帯などの工業が発達し、それに比べると日本海側の「裏日本」には大きな工業地帯などは存在しなくて、主な産業は稲作を主とする農業生産である、と習った記憶があります。
昭和30年代の日本列島は、そのように区分けされてもしょうがない状態であった事は、否定できない事実でした。
裏日本には「後進性」が多く見受けられると理解されていたのです。

これは社会科の授業なので、そのように区分けしたのでしょうが、一方、産業面以外の事に関して言えば必ずしも裏日本には優れた文化性が無かったかと言えば、そうでもなかったように思えるのです。

文学や芸術などの文化面ではそのような地域の「後進性」の中で文化的成果を与えてくれた人々がおります。
一例をあげると、津軽出身の太宰治や秋田県の大館市近郊で生まれた安藤昌益、または江戸時代の国学に一石を投じた平田篤胤などが挙げられます。

太宰治はご存知のように自身の出生を「原罪」と捉え人間の持つ根源を私小説と言う形で、表現しようとしました。
また、安藤昌益は当時の封建社会の持つ規範にたいして、鋭くその問題性を提起してあるべき社会の形を考えることを試みました。
わが県出身の平田篤胤は、江戸封建社会の中で武士社会の規範ではなく神道を社会の中枢に置くべきとの思想を唱え、その後の尊皇攘夷の支柱となりました。(篤胤の思想と学説そのものについては私は疑念を持っているのですが、今はここでは触れません)

また、秋田市出身の舞踏家「土方巽」はそれまでの舞踊を西洋のダンスとも日本古来の舞踊とも全く違う「暗黒舞踏」を生み出して、現在ではわが国のみならず欧米で高く評価されています。
彼の生み出した「暗黒舞踏」は日本国外では単にButoh(ブトー)と呼ばれるまでの認知を勝ち得ています。


土方は自身が生み出した「暗黒舞踏」に関して、次のように言った事があるそうです。
「わたしが「暗黒舞踏」を生み出したのは「東北の暗さ」であった」と。

画家のゴッホが南フランスで描いた明るさを生み出したのと同じように、東北または北日本、裏日本はその暗さゆえに生み出したものがあった事を忘れてはならないと、思います。

今の季節のわが地方の天候の暗さを思うにつけ、こんなことを考えて見たのでした。
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