ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

カルロス・ゴーン氏が保釈されたー長期拘留の意味するもの。

2019年03月06日 23時14分30秒 | 独り言
長期にわたり拘束されていたカルロス・ゴーン氏の保釈が3月6日に実現されました。
カルロス・ゴーン氏への長期拘留には、海外からの批判もあったようです。
海外諸国の司法制度とわが国の制度との違いはあると思われるので、わが国の司法が採った「長期の拘束」が司法制度上でどうだったのかを判断することは差し控えます。
ですが、この度の司法の遣り方には氏の犯罪行為以上の疑問の余地があります。

わたくしが現役の大学生だったころ、このような「長期の拘束」が平然と行われていたことを思い出しました。
それは次の事例です。
1970年前後に学生による「社会叛乱」が全世界的に起こっていました。
その時、わが国の司法が採った対応がこの度のゴーン氏の長期拘留と似ていると思われたのです。
被疑者に対する訴追の仕方です。小刻みに幾つかの嫌疑を小出しにして、その都度その嫌疑の立証と称して拘留期限を延長するやり方です。

わたくしの知人にもそのようなことに遭遇した人がおります。
「公安条例違反」「公務執行妨害罪」や立証もできない「凶器準備集合罪」などにより、拘置所で数か月も自由を拘束されたことは、当時は日常茶飯事でした。
そして結局は「嫌疑不十分」で不起訴になった事例がありました。
検察当局が「立件できる」と判断できないにも関わらず、被疑者を長期にわたり勾留するのは、どう考えても法治主義国家のすることではありません。

わたくしはゴーン氏の行った行為が犯罪を構成するものかどうかを、ここで問題にしているのではありません。
司法の執行が恣意的に行われたり、「ゴーン氏の報酬は貰いすぎだ」とかいう一般市民の日常感覚により判断されてはならない、と考える立場に立っているからです。
「ゴーン氏の報酬の多寡」を基準にする司法判断は決してあってはなりません。
ゴーン氏の報酬が多すぎるかそうでないかは「富の公正な配分」という司法とは全く別な分野での事象なのです。
「汚いやりかたで財をなした」結果、身柄を拘留され「それ見たことか」と留飲を下げる庶民感情もあろうかと思います。ですが、それらの庶民感情に基づいて司法の判断がなされてはならないと考えます。
司法の判断はあくまでも法に抵触した行為があったのかによって決められることと思います。

これから、ゴーン氏の行為に対する裁判が行われてゆく事でしょう。
「富の偏在」がその裁判の中で問われることはないでしょうが、裁判の行く末がとても気になっているのです。






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