ケバル川のほとり日本でも

在日4Kの気ままなブログ。

ペテロのように

2024-03-31 16:02:18 | 日記

イースターおめでとうございます!

数日ぶりの投稿になります。この一週間はキリスト教暦で言う受難週を過ごし、今日は主イエスがよみがえられた事を記念するイースターでした。

あらためて、この出来事が罪という現実のなかで踠(もが)いている私にとってどれほど喜ばしいことで決して揺らがない事なのかを噛みしめたいと思います。

しかし、この喜びの知らせを知りつつも、先週は現場の変わりやすい天候も左右したからなのか一喜一憂の一週間を過ごしました。

前半は気持ちが下向きでしたが、週末には以前働いた大阪の現場の所長さんが、なぜか現場に視察に来られ、私の所へも歩み寄ってくださり、新たな話し合いが出来ました。

以前に頂いた商談は実現が難しかったことや、また新しい話し合いが出来たことは感謝でした。

次の一喜一憂は、帰省の新幹線(トンネル通過や対向車通過時の気圧の変化?)が体に合わないのか、翌朝からめまいが酷く立ち上がるのも困難で休日は事務作業も出来ず終日横たわっておりました。

前回の帰省では、新幹線はなんと楽ちんなんだろう! と思って二週間足らずの事です…。

また現場への戻るのに、新幹線に乗って調子が悪くなるのが大きな心配ですが、仕方なく現場に向かっております。

そのように私の気持ちや信仰などは、いとも簡単に揺らいでしまいますが、それでも神様が私たちに向けられたイースターのメッセージは決して揺らぐことはないものです。

最近、働きながら大山を眺めてよく思うことは、この山ようにどっしりとした信仰を持ち続けていたいな、という思いです。

あのイエス様を裏切ったペテロが、晩年変えられていったようにです。

若い頃のペテロは「…『たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。』」(マタイの福音書 26章 33節)、と豪語していましたが、死の恐れを前にして、主を否んでしまいました。

この一介の漁師にすぎなかったイエス様の一番弟子ヨナの子シモンは、イエス様から「ペテロ」というニックネームを与えられました。

★「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。』」(ヨハネの福音書 1章 42節)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ケファもペテロも“岩”を意味している言葉からきているそうです。そんなニックネームを頂いたペテロの心中はいかばかりであったでしょうか…。しかしペテロがイエス様と寝食を共にした頃の信仰と言えば、岩のようにどっしりとしていたどころか、むしろ、たまに誉められても、そのほとんどが突拍子もないことを言ってしまったり、失敗だらけの生涯でした。

そして当局に逮捕された主を前にし、先に豪語していた彼が発した言葉と言えば、

★「ペテロは誓って、『そんな人は知らない』と再び否定した。しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。『確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。』するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。(マタイの福音書 26章 72〜74節)

と、そんなペテロでしたが、よみがえられた主イエスはペテロのもとに再び現れてくださり、彼の弱さを知った上で、再度ペテロを御自身の働きを担うものとして召してくださいました。

イエス様が生涯の半ばにペテロに仰ってくださった言葉が私の心にも残ります。

★さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」"マタイの福音書 16章 13〜19節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私たちプロテスタントの教会の理解では、あのピリポ・カイサリアの地で、ペテロが主イエスに向かって告白した、ペテロと“その信仰告白”をかけて、主は「わたしの教会を建てます」と仰ってくださり、主の教会は、約二千年間、迫害もくぐり抜けこの信仰告白の上に建てられ続けて来ました。

そして、あのイエス様を裏切ったペテロは、上からの力を着せられて(ルカ24章49節.使徒の働き1章8節)、初代エルサレム教会の指導者として、イエス・キリストを知らないなどとは言わず、迫害や死ぬことも厭わずに、イエス・キリストを証し続け、当時の教会を建て上げる働きに貢献しました。

ペテロをそのようにしてくださった主は、小さな私にも現れてくださり、御自身の十字架とよみがえりを示してくださり、私をも成すべき主の働きへと招いてくださいました。

「あなたは生ける神の子キリストです。」

心は一喜一憂し、信仰も揺らいでしまう弱い者ですが、ただこの信仰告白に立ち続け歩む者とされていきたいです。

本当に主はよみがえられました!

★「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。(ルカの福音書 24章 34節) 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

 

 

 

 


気ままな温泉旅行記

2024-03-24 21:05:01 | 日記

 今日は鳥取は倉吉での礼拝の後、もう少しだけ足を延ばして、三朝温泉の『株湯』というところに行ってきました。日帰りではありますが、気ままに温泉旅行記を綴ってみようと思います。

 三朝温泉に行くのなら、まずは『株湯』かと思って乗り込みました。調べてみたら、ここがこの温泉の原点のようなことが書いてあったからです。ここは、この地区で運営している公衆浴場で、気軽に日帰り入浴が出来、料金も銭湯くらいの料金でした。券売機で券を購入して窓口で渡すと、「こちらは初めてですか?」と。「はい、初めてです」と応えると、「お湯が熱いので掛け湯で何回か慣らしてから入ってください。一時間で出るようにしてください」と。

 中に入ってまず驚いたのは、脱衣場で着替えている人達の肌が、そろって真っ赤なこと。“これは相当熱いな…”と思いました。お風呂場の浴槽は3㎡程度で、その回りに椅子に座って体が洗えるシャワー付の蛇口が5人分程度ある小さな所でした。

 家では熱い湯を好むほうで、家族には敬遠されるくらいなので、よっぽど大丈夫だと思いましたが、まずは丁寧にシャワーを浴びて熱さに慣らしてから掛け湯をしました。

 確かに熱いです。暫くは掛け湯しか出来ませんでした。すると地元の常連のおじいさんが入ってこられて、シャワーのある椅子に座るでもなく、浴槽の目の前であぐらをかいて、湯船からお湯をすくっては固形石鹸一つで頭も身体も洗い始めた方が、新参者の私を見かねてか、「掛け湯していたらじきに入れるよ」と。

 言われた通りに掛け湯を続けてから入ってみましたが、入った瞬間に「あちち!」と思わず声が出て飛び出ました。まるでお笑い番組で「絶対押すなよ」で押された人が取るリアクション状態です。そんなことを繰り返していたら、次に入って来た同じく浴槽の目の前であぐらをかいた常連さんが、「湯船の腰まで浸かれる高さで半身浴していたら入れるよ」と。

 しかし、半身浴すら熱くてすぐに飛び出してしまいました。しかしそんなことを数回しているうちに身体も慣れてきたからか、少しずつ半身浴も出来ました。そしてようやく肩まで浸かりましたが、素早く60秒まで数えて飛び出しました。なんか湯船に浸かって数字数えるなんて、まだ小学生の頃に父と銭湯通いをしていた頃以来でした。

 先の常連さん達には「ごちそうさまでした!(もう十分です)」と言ってすぐにお風呂場を後にしました。

 脱衣場に出て鏡を見ると、私の肌も真っ赤っ赤でした…。

 『株湯』を出て写真を撮っていると、三朝地区の一人の長老さんが『株湯』について色々と説明してくださいました。地区の役場で働いていた方で、今の施設入り口横の基礎にある、定礎の文字を刻む木材などを準備する役目もされたそうです。今では飲み水の所にある、志の報謝箱の鍵を開けてお金を取り出しに来られているそうです。

 今の新しい施設は15年ほど前に出来たこと。それ以前は、今の足湯がある所が元々あった所で、その時に伝承となってきた楠の木株は、新しくする時に一度切り刻んで捨てようとしたが、今の源泉の飲み水場で利用したことや、当時の浴槽は、男子と女子の間にあった塀が頭くらいの高さで、我々地元の人は出来ないが、町民以外の人が来ては覗いたり、湯船の下の方は仕切りが無かったので、潜ったり、足を伸ばしたりと問題があったので、湯船の中も仕切りを造ったことや、この周囲にある他の地区の温泉場も、昔は全部一つで『湯村』と言われていたこと、また近くの『三徳山投入堂(日本一危険な寺)』のことなども含めて色々とガイドしてくださいました。

 この地区は、お湯の熱さや、投入堂のなど危険がいっぱいな所だな! と思いましたが、人々の心は、親しく声をかけてくださったり、とても親切な人達ばかりに出会えて良かったです。

 鳥取県の日本一は砂丘しか知りませんでしたが、“温泉の熱さ”、“投入堂”、そして宿のある米子市では、“どら焼”の生産も世界一の工場があったり(4月4日はどら焼の日らしいです)、また『水木しげる』さんや『青山剛昌』さんなどを輩出している漫画県でもあることが分かってきました。これまで知らなかった鳥取県の新しい発見が少しずつ増えてきて嬉しいです。

 今日は気ままに書いてみましたが、明日からは仕事モードに切り替えて一週間頑張ります!

 (今日を含めてこれまでの写真も掲載します。)

 

 

 

 


鳥取も、放送伝道との関わりを覚えつつ

2024-03-20 12:27:06 | 日記

 今日の現場は朝から雪かきでしたが更に吹雪き、作業的に危険や溶接品質の問題があるので、私達の班は中止になりました。


 最近立て込んでおりましたが、時間が出来たので、この機会に、鳥取へも“神様によって招かれた”と、いま感じつつあることを、この場をお借りしてお話させていただきます。
 まず、こちらに来る前の現場では、豊川市にある教会で祈祷会に参加させていただいておりました。その教会は私と同じ東海地方で放送伝道の働きの支援もしておられ、そちらの牧師先生も特に三河方面で尽力されておられ、短い期間でしたが、ご一緒させて頂けたことは、とても感謝なことでした。
 ふつう祈祷会では、教会からの祈祷課題と、あとは自分が願うような祈祷課題を伝え、その自分の課題に終始してしまう傾向が多いですが、何度か参加している途中で、こちらに導かれたのなら、“放送伝道の働きの為にこそ祈るべき”ではないか、と思い、共に祈って頂いておりました。
 しかし、そのように祈り始めた矢先、鳥取の蒜山へ行く辞令を頂きました…。とても残念に思え、また教会の方々も惜しみつつ、“急な辞令であっても、きっと神様の導きがあるのでしょう”、と祈ってくださいました。
 さて、鳥取県には流石に繋がりのある教会や知り合いは無かったので、私の通う教会の、他教会へも奉仕でよく出向かれる教師の方に相談しましたら、“ここなら!“と思えた教会も、隣の島根県の更に山口県よりで、高速を車で走らせ2時間はかかる所でした。
 そんな時、一人の兄弟が、“鳥取と言ったら「はわい温泉」だね”。と言ってくれました。どうもその地方で、日本なのに「日帰りでハワイに行ってきました」とか「日帰り入浴で、はわい温泉に行ってきました」なんてのが一つの鉄板ネタにもなっていると教えてくれました。
 それなら日曜日の午後、私も一度「はわい温泉」に行ってみようと思い、その行く手前で教会がないかと探してみたら、10分ほど手間に教会がありました。インターネットを拝見してみると「世の光」の案内があり、TOKYO FM  をキーステーションにする「FM山陰」で平日の朝に放送している案内がありました。それなら少しは安心して参加出来るだろう、と次の日曜日に行くことを決めました。
 伺って案内係の方に、教会のホームページに「世の光」の案内がありましたので、こちらを訪問したことを告げると、最初にご紹介してくださった方は、「世の光」のスタッフをしておられる方でした。その方に伺ったところ、こちらの教会では、主に鳥取県と島根県での事務局をされているとのことで、教会ではもう一人の姉妹とお二人でスタッフをされているそうです。そして、この方は鳥取県で電気工事会社としても手広く働いておられる代表取締役の方で、聖書を配布する働きもなされておられたり、数年前に牧師先生を天国へ送られてからは、もう一人の地元の建設会社の土木の監督さんと隔週の交代で、日曜日礼拝のメッセージもなされておられる方でした。その方に自己紹介を済ますと、何度も固く握手をしてくださり歓迎してくださいました。
 その事を祈って送り出してくださった豊川の牧師先生にお伝えすると(その後はZoomで祈祷会に参加して放送伝道の働きの為にお祈りしています)、“○○さんですね! 放送伝道の全国の集まりで接して、また別の機会にお会いした時に、私の所へ来てくださって固く握手をしてご挨拶してくださったんですよ。とても腰の低い方で聖書配布の働きでも役職についてくださっておられ、えー○○さんと、鳥肌が立ちました”と仰っておられました。先生のご両親も、聖書配布の働きを三河方面でしておられるので、より身近に感じておられるようでした。
 祈って送り出していただいた私も、ようやく今回の神様の導きをひしひしと覚えはじめました。もちろんお客様の会社の必要性があっての今回の出来事です。しかしどんな出来事のなかであったとしても、神様は私達の歩みを見守り、いつも導いてくださるお方だと信じております。
 私にとっては、ただ放送伝道の関わりのある教会に導かれただけではなく、最近はクレーンオペレーターだけでなく、仕事でゼネコンさんから仕事の依頼も受け、工事会社をご紹介したりもさせて頂き始めるようにもなったので、この方とは信仰の面でも事業者としても、模範にさせて頂けたらと思っております。
 あらためて今回の事を考えた時に、“この上ない場所”に導いてくださったのではないかと思っております。
 やはり、この生ける神様から遠く離れ、失われていた罪人でしかなかった私が「世の光」のラジオ番組があったからこそ、キリストのメッセージにふれ、キリストの教会に導かれ、天地万物を造り治めておられる神様に帰ることが出来たように、これからも社会で頑張って働きながら、このラジオ「世の光」やテレビ「ライフ・ライン」に寄与していくことが出来たら、いや、残りの人生、在日コリアンへの伝道と共に、少しでも“放送伝道の働き”にお返ししていくことが出来たら、と願っております。
 最近は、頻繁に投稿出来なくなりましたが、そんな感じで歩んでおります。また新たな動きがあった時には投稿させて頂きます。
 いつも小さな者をも覚えてくださり感謝します。また引き続きお祈りのうちにも覚えて頂けたら感謝です。
 主に在りて

(写真は大山です)

★ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
ローマ人への手紙 10章 17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです

2024-03-16 15:28:11 | 日記

 昨日の休みは、滅多にない平日でもあったのでお客様のところへ営業回り。まずは前回現場のお客様と元請けゼネコンさんへ。帰りはお昼だったので近くで食事。そこでの現場にちなんだ食事が思わず食べられました。いわゆる剣スコ型のスプーンでいただきました。あまごが美味しかったです。

 夜は私の誕生日祝いも兼ねての子供の卒業前祝い。当日は近くにいてあげられないので、本人が選んだお店で家族で楽しめて良かったです。私がリタイアしてしまった学校を、上の付属? の大学まで。私の家系では大学など行った者もいなかったので、中途半端な私にはよけい誇らしく思えました。

 今日は家族でショッピングモールでお買い物。モールの名にふさわしくお店のモチーフが緑になっているイオンです。店内にはそのようなオブジェが点在しています。娘の服選びに男性の私は疲れてしまうのでいつも妻に任せ、私の買い物は終わったので一人椅子に座ってくつろいでいます。買い物も終わったようで合流しましたが、次はデザートを何にするか二人で迷っています。「何にする?」と聞かれたので「何でもいいよ。適当に買ってくれたら」とだけ言って椅子にへばり着いています。娘と半分こです。

【今日の聖書】マタイの福音書24章29-51節

 今日の箇所は、昨日までの世の終わりについての言及に続いて、何らかの天変地異が起こること。イエス様のしるしが天に現れること。救われたものが集められること。そしてこれらのことが全て終わるまではこの時代は過ぎ去らないこと。この天地は消え去ってもイエス様のお言葉は決して消え去ることがないこと。最後に時の現象を見分けて目を覚ましてイエス様を待ち望んで生活することが語られています。

 心に留まったのは37節の、「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。」とのお言葉です。
 ノアの方舟前に語られたお言葉です。

★主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
しかし、ノアは主の心にかなっていた。(創世記 6章 5〜8節)
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 天地の造り主なる神様は、ノアの時代にも神様に悔い改めて立ち返るように望まれつつ、ノアに方舟を作るように命じました。しかし人々はそんなノアの行いを馬鹿げたこととして、神様を無視した結婚観や遊興に耽ってばかりいたのでしょう(創世記6:2, マタイ24:38)。しかし神様のお言葉は実現しました。それと同じように今の時代もイエス様のお言葉は実現するのでしょう。

 ノアの当時に思いを馳せると、教えられるのは、地上に悪が増大し、人々の心がいつも悪に傾くなかにあっても、ノアは神様の心にかなって、お言葉に生きた、ということです。

★しかし、ノアは主の心にかなっていた。
これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(創世記 6章 8〜9節)
★ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。(創世記 6章 22節)

★主はノアに言われた。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。(創世記7:1)

 そして神の裁きの只中にあっても、ノアとノアに従った家族を神様は覚えておられたのですね。

★神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。すると水は引き始めた。()創世記 8章 1節)

  どのような時代にあっても、キリスト者はノアのような姿勢で神様を仰いで生きることが求められており、また神様もご自身に従う者を覚えていてくださることを忘れずにいたいと思います。

 イエス様のお言葉は必ず実現することを疑わず、ノアと同じように今の時代の十字架のという救いの方舟に倣って。

★かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。
この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです……。(ペテロの手紙第一 3章 20〜21節)

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そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々には、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。そのとき男が二人畑にいると、一人は取られ一人は残されます。女が二人臼をひいていると、一人は取られ一人は残されます。ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。それでは、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

マタイの福音書 24章 29〜51節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 


最後まで耐え忍ぶ者は救われます!

2024-03-14 20:00:14 | 日記

 明日から連休なのです。今回の現場での通常帰省は車で岡山まで行ってコインパーキング。あとは新幹線です。新幹線は久しぶりだけど、乗ってしまえば快適ですね。キップ売場の目の前にヴィドフランスがあったので嬉しかったです。大好きなあんパンと塩パンを車内で堪能しました。周りを見渡すとビールなどを飲みながらの人もちらほらといるもんですね。

 昔は仕事が終わってから夜行バスで帰り、戻りも月曜日の6時頃に主要地に着いて、そこから現場まで間に合うように頑張って運転していましたが、いま考えるとよくやっていたなと思います。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

【今日の聖書日記】マタイの福音書24章1-14節

 今日の箇所はイエス様の後の時代におこるエルサレムの神殿の崩壊と世の終わりに関しての言及です。それは1節で弟子たちがイエス様に当時の立派な神殿を差し示したことからの話の展開です。2節で建物を見て驚嘆していた弟子たちにイエス様は次のように言われました。「すると、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。』」と。そして場所をオリーブ山に移してから弟子たちがイエス様に、いつそのような事が起こるのか、また、いつイエス様は来られ、世が終わる時のしるしは、どのようであるか、と。

 その弟子たちの質問に答えつつ、後の時代の人々、また今を生きている私達にも、そのしるしや、艱難な時代が来ること、その時の心構えや希望をもって乗り越えられるように、惑わされないように、最後までイエス様への信仰に留まるようにとの警告であり、愛によるお言葉です。

 「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」とのお言葉に心を留めました。世の中が不法がはびこり、多くの人々の愛が冷えても、私達キリスト者は、いつでもこの権威ある主のお言葉に踏み留まって、主の宣教命令に従って生きることが求められています。以前に読んだマタイの福音書の山上の説教も思い出します。

 このブログを書いている間にもう名古屋に着いてしまいます。今までのことを思うと新幹線は嘘みたいに楽ちんです…。

★わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイの福音書 7章 21〜27節)

 主のお言葉に踏み留まって、主のお言葉に従って、最後まで主のみこころに生きていく者とされていきたいです。このように祈るように教えてくださった次の祈りを覚えつつ。

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
マタイの福音書 6章 9〜13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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【今日の聖書箇所】

イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

マタイの福音書 24章 1〜14節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会