ケバル川のほとり日本でも

在日4Kの気ままなブログ。

高槻ハーフマラソンの感想。「ありがとう!」

2024-01-24 21:54:37 | 日記

 先日高槻のハーフマラソンに初めて参加しました。マラソン自体初めての経験で、今日はその感想です。

 マラソンに参加する思いは人によってさまざまだと思いますが、私の場合は高槻市の現場で失敗というか、高槻での出来事がきっかけで、その反省を機に残りの人生天を見上げて本名で生きていきたい、人生の分岐点にしたいと決心したからでした。

 本名に関して言えば、私はこの日本という国に在日とし生まれてきたこと事態、あまり喜べず悔やんでおりました。しかし救い主イエス・キリストとの出会いによって、自分の存在やルーツをも受け止められるようになり、むしろ在日であったからこそイエス様の愛、そして私へのお取り扱いを知り、逆に感謝さえ覚えるように変えられました。そして、それから同郷の人にもこのお方を証することが、私の人生に与えられた神様から頂いた使命の一つであることも受け止めるようになりました。それ以降、本名で生きていくことも数年おきには真剣に考えるようになりました。しかし結局は慣れてきた日本名から、わざわざ本名で生きることは、デメリットはあっても、メリットがあるとは思えず決断に至ることはありませんでした。

 しかし、今回高槻市で働くなか、自分はクリスチャンとは言っているものの、今でもそうなんですが、己の醜さを痛感することがありました。そんな時、通勤途中にradikoで聞いていた「世の光」というラジオ番組で、当日のメッセンジャーのお話が、一人の在日の中学生か高校生の女の子が、ピリピ人への手紙3章20節のみことば(しかし、わたしたちの国籍は天にあるのです)から「先生、わたし本名で生きていくことを決心しました!」という証を聞きました。

 時々耳にするような在日事情の話でありました。しかし、同じ日の朝、私自身が神様から聞いていた聖書箇所の申命記28章10節には、「地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。」との神様のみことばがありました。

 正しい解釈ではなかったのかもしれませんが、そのみことばを思い巡らしていると、名前のことを考える以前に、まず私たちが恵みによって神様のものとされているんだ、と思いました。すると、もはや名前でのメリットやデメリット云々ではなく、神様の子供とされていることに、もはや恐れや心配は不思議となくなりました。今こそは神様によって与えられた機会であり、神様ご自身が私の背中を押してくださっておられることを感じました。

 むしろデメリットがあったとしても、在日として生まれてきたのなら、在日としてあたりまえに生きていきたい、たとえ不利益を被ることや時代が悪くなっていき百回困難なことがあったとしても、一回でも私と同じような在日と出会い、その一人にでもイエス様の愛を伝えていくことが出来るならば、と前向きに考えられるようになりました。

★「…むしろ神の民とともに苦しむことを選びとりました…。」(ヘブル11:25)

 話が長くなりそうなので、まとめに向かって頑張ります。

 私にとって高槻は、本名を決断した地であり、人生の分岐点であり、残りの人生を天国を見上げながら生きることを願うようになった地です。また高槻は、民や将軍にも仕え神様の愛に生きることを貫き、しかし信仰を捨てるように迫ってきた将軍の命令よりも神様を恐れたキリシタン大名、高山右近の地でもあります。

 しかし、いつまでもたっても私は神様よりも人々を恐れ、自分の決心がいかに脆いかを知っているので、今回の決心を忘れずに生きていく為、この地で開催されるマラソンレースに出場して、いつも決断した思いを忘れず、いつでも思いを新たにして歩みたいと願うようになりました。自分の決心が弱いと分かっているからこその道しるべです。(ヨシュア4:6)

 正直一つだけ気になったのは、キリスト者のしるしと言ってもよい、礼拝という大切な集まりの日に開催される、ということでした。(出31:13)

 この決心は、あくまでも神様と自分との関係なのかもしれませんが、それだけではなく、神様の民が共に神様の御前に立つということは大切です(申命記29:15)。周りに躓きは与えたくはない…。感謝なのは、私がそんな決心をしても、すぐ近くで「その日の礼拝はどうするの?」としっかり言ってくれる妻や、教会学校に娘を連れて一緒に行けなくなるので、「◯◯ちゃんはどうするの?」と娘のことや私の行動も気にかけ、あるべき質問を真っ直ぐに言ってくれる信仰の家族が側にいてくれることに感謝を覚えました。しかし、そんな後ろめたさも少し感じながらの高槻ハーフマラソンでした。

 しかし、出場して良かったです。この地で与えられた出来事と抱いた決心をさらに大切にして歩んで生きていきたい、今回このような決心へと導かれたことは本当に良かった、とさらに強く思うようになりました。

 いつも練習でも走る時は背中を押してくれる曲を聞いています。スタートの直前にランダムで流れてきた曲は、10代の頃よく聞いていた杏里の「砂浜」でした。曲の主人公の僕が、いつも訪れる場所は「とある砂浜」です。しかし私にとっての場所は「人生の分岐点となることを決心した高槻」です。スタート直前大勢いる人混みのなかでも音楽を再生したら、思わず感極まってしまいました。サングラスをしていてよかったです。そしてコースは摂津峡とか景色の良い山の方に向かって戻って来るくもんだとばかり思っておりましたが、全くの予想外で、私が携わらせて頂いた現場を小高い堤防から眺めながら走れたり、残念ながら分岐点という物はなかったですが、中間地点辺りで堤防を一時降りると、まさかの現場事務所を横切るコースでした。走りながらいろんな思いが込み上げてきました。

 レース自体は、“完走を目指す”人の集団でスタートしたので、10キロあたりまでは、ゆっくりすし詰め状態。相変わらず写真も撮る余裕もありました(今回の参加は記録よりも記憶です!www)。しかし、中間地点の10キロを過ぎた現場事務所辺りを過ぎてからは足が重たくなり始め、そこからは真剣に走りました。15キロを過ぎた辺りからは足全体が痛くなり、痛みをこらえて走りました。調整不足ですし、昔のバイク事故の古傷もあります…。それでも制限時間の約10分前に関所も通過して完走することは出来ました。

 ハーフといえども、今回しんどくなってきた後半あたりから思ったのは、まだまだ人生の分岐点を通過したに過ぎないですが、ここからがマラソンと同じようにしんどくなっていくのかもしれない、と考えました。そして次のみことばが心に思い浮かびました。

★こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:1,2)

 私もそれを得られるよう、御跡に従って行けるように、イエス様ご自身が模範となり目標に向かって完走されたこと、今も私の背中を押していてくださること、そして良いゴールを果たすことが出来る様に、信仰の先人たちや信仰の友を与えてくださっておられる事実を思いました。

 午後はその現場の時にお世話になっていた教会で、その群れの関西地区の新年の集まり(聖会)があったので、途中からでしたが参加出来ました。懐かしい顔ぶれと、お会いしたかったファミリーにもようやくお会いすることも出来、とても感謝でした。また、その集会の講師は、神戸の神学校の校長先生で、私がこのような決断をして以後、自然とよく考えるようになった、ローマ人への手紙の12章1~8節の聖書箇所からの奨励でした。

 メッセージのほんの一部分ですが、神様に喜ばれる生き方を求める”心の一心”さえも神様によって与えられ、またクリスチャンの交わりの中で育まれること。そして神様から与えられる風を止めないで広げて歩んでいきたい、と心新たにされました。

 神様のあわれみと恵みのなかで、来年も物理的に可能なら高槻のハーフマラソンには出場したいと願います。

 翌日は膝周りが固まり痛みも酷く、ベットから起きて横に座るだけでもしばらく時間がかかってしまいました。もしかしたら今日は現場に行けないかも、やってしまったかも…と思いましたが、棒のように固まった足を引きずって何とか行けました。ラジオ体操も下半身は棒状態のままでしたが上半身だけは一生懸命動かしました。フルマラソン完走出来る人を尊敬します。

 最後に独り言にはなってしまいますが、心から思っいることを綴らせてください。

 私にとって、どこの元請けであれ現場であれ、神様が遣わしてくださった尊い現場であり、人には見えない場所も眼差しておられる主に対して働きたく願っております(コロサイ3:22,23)。しかし、それでも敢えて綴らせていただきます。

 

私にとってはどこの現場であっても、ありがたい思いで働いているけど、高槻の現場よ、私が今まで働いたどこの現場よりも本当に本当にありがとう😆💕✨

 もう一度言います! 高槻の現場よ、私が今まで働いてきた現場のなかで、どこよりもどこよりも本当に本当にありがとう😂❗

 主よ。高槻の現場に導いてくださって本当に感謝します。

 주여,高槻의 건설현장의 이끌어주쇼서 정말 감사합니다 !


ハーフマラソンに出た感想「ありがとう!」

2024-01-21 23:43:29 | 日記

 先日高槻のハーフマラソンに初めて参加しました。マラソン自体初めての経験で、今日はその感想です。

 マラソンに参加する思いは人によってさまざまだと思いますが、私の場合は高槻市の現場で失敗というか、高槻での出来事がきっかけで、その反省を機に残りの人生天を見上げて本名で生きていきたい、人生の分岐点にしたいと決心したからでした。

 本名に関して言えば、私はこの日本という国に在日とし生まれてきたこと事態、あまり喜べず悔やんでおりました。しかし救い主イエス・キリストとの出会いによって、自分の存在やルーツをも受け止められるようになり、むしろ在日であったからこそイエス様の愛、そして私へのお取り扱いを知り、逆に感謝さえ覚えるように変えられました。そして、それから同郷の人にもこのお方を証することが、私の人生に与えられた神様から頂いた使命の一つであることも受け止めるようになりました。それ以降、本名で生きていくことも数年おきには真剣に考えるようになりました。しかし結局は慣れてきた日本名から、わざわざ本名で生きることは、デメリットはあっても、メリットがあるとは思えず決断に至ることはありませんでした。

 しかし、今回高槻市で働くなか、自分はクリスチャンとは言っているものの、今でもそうなんですが、己の醜さを痛感することがありました。そんな時、通勤途中にradikoで聞いていた「世の光」というラジオ番組で、当日のメッセンジャーのお話が、一人の在日の中学生か高校生の女の子が、ピリピ人への手紙3章20節のみことば(しかし、わたしたちの国籍は天にあるのです)から「先生、わたし本名で生きていくことを決心しました!」という証を聞きました。

 時々耳にするような在日事情の話でありました。しかし、同じ日の朝、私自身が神様から聞いていた聖書箇所の申命記28章10節には、「地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。」との神様のみことばがありました。

 正しい解釈ではなかったのかもしれませんが、そのみことばを思い巡らしていると、名前のことを考える以前に、まず私たちが恵みによって神様のものとされているんだ、と思いました。すると、もはや名前でのメリットやデメリット云々ではなく、神様の子供とされていることに、もはや恐れや心配は不思議となくなりました。今こそは神様によって与えられた機会であり、神様ご自身が私の背中を押してくださっておられることを感じました。

 むしろデメリットがあったとしても、在日として生まれてきたのなら、在日としてあたりまえに生きていきたい、たとえ不利益を被ることや時代が悪くなっていき百回困難なことがあったとしても、一回でも私と同じような在日と出会い、その一人にでもイエス様の愛を伝えていくことが出来るならば、と前向きに考えられるようになりました。

★「…むしろ神の民とともに苦しむことを選びとりました…。」(ヘブル11:25)

 話が長くなりそうなので、まとめに向かって頑張ります。

 私にとって高槻は、本名を決断した地であり、人生の分岐点であり、残りの人生を天国を見上げながら生きることを願うようになった地です。また高槻は、民や将軍にも仕え神様の愛に生きることを貫き、しかし信仰を捨てるように迫ってきた将軍の命令よりも神様を恐れたキリシタン大名、高山右近の地でもあります。

 しかし、いつまでもたっても私は神様よりも人々を恐れ、自分の決心がいかに脆いかを知っているので、今回の決心を忘れずに生きていく為、この地で開催されるマラソンレースに出場して、いつも決断した思いを忘れず、いつでも思いを新たにして歩みたいと願うようになりました。自分の決心が弱いと分かっているからこその道しるべです。(ヨシュア4:6)

  正直一つだけ気になったのは、キリスト者のしるしと言ってもよい、礼拝という大切な集まりの日に開催される、ということでした。(出31:13)

 この決心は、あくまでも神様と自分との関係なのかもしれませんが、それだけではなく、神様の民が共に神様の御前に立つということは大切です(申命記29:15)。周りに躓きは与えたくはない…。感謝なのは、私がそんな決心をしても、すぐ近くで「その日の礼拝はどうするの?」としっかり言ってくれる妻や、教会学校に娘を連れて一緒に行けなくなるので、「◯◯ちゃんはどうするの?」と娘のことや私の行動も気にかけ、あるべき質問を真っ直ぐに言ってくれる信仰の家族が側にいてくれることに感謝を覚えました。しかし、そんな後ろめたさも少し感じながらの高槻ハーフマラソンでした。

 しかし、出場して良かったです。この地で与えられた出来事と抱いた決心をさらに大切にして歩んで生きていきたい、今回このような決心へと導かれたことは本当に良かった、とさらに強く思うようになりました。

 いつも練習でも走る時は背中を押してくれる曲を聞いています。スタートの直前にランダムで流れてきた曲は、10代の頃よく聞いていた杏里の「砂浜」でした。曲の主人公の僕が、いつも訪れる場所は「とある砂浜」です。しかし私にとっての場所は「人生の分岐点となることを決心した高槻」です。スタート直前大勢いる人混みのなかでも音楽を再生したら、思わず感極まってしまいました。サングラスをしていてよかったです。そしてコースは摂津峡とか景色の良い山の方に向かって戻って来るくもんだとばかり思っておりましたが、全くの予想外で、私が携わらせて頂いた現場を小高い堤防から眺めながら走れたり、残念ながら分岐点という物はなかったですが、中間地点辺りで堤防を一時降りると、まさかの現場事務所を横切るコースでした。走りながらいろんな思いが込み上げてきました。

 レース自体は、“完走を目指す”人の集団でスタートしたので、10キロあたりまでは、ゆっくりすし詰め状態。相変わらず写真も撮る余裕もありました(今回の参加は記録よりも記憶です!www)。しかし、中間地点の10キロを過ぎた現場事務所辺りを過ぎてからは足が重たくなり始め、そこからは真剣に走りました。15キロを過ぎた辺りからは足全体が痛くなり、痛みをこらえて走りました。調整不足ですし、昔のバイク事故の古傷もあります…。それでも制限時間の約10分前に関所も通過して完走することは出来ました。

  ハーフといえども、今回しんどくなってきた後半あたりから思ったのは、まだまだ人生の分岐点を通過したに過ぎないですが、ここからがマラソンと同じようにしんどくなっていくのかもしれない、と考えました。そして次のみことばが心に思い浮かびました。

★こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:1,2)

 私もそれを得られるよう、御跡に従って行けるように、イエス様ご自身が模範となり目標に向かって完走されたこと、今も私の背中を押していてくださること、そして良いゴールを果たすことが出来る様に、信仰の先人たちや信仰の友を与えてくださっておられる事実を思いました。

 午後はその現場の時にお世話になっていた教会で、その群れの関西地区の新年の集まり(聖会)があったので、途中からでしたが参加出来ました。懐かしい顔ぶれと、お会いしたかったファミリーにもようやくお会いすることも出来、とても感謝でした。また、その集会の講師は、神戸の神学校の校長先生で、私がこのような決断をして以後、自然とよく考えるようになった、ローマ人への手紙の12章1~8節の聖書箇所からの奨励でした。

 メッセージのほんの一部分ですが、神様に喜ばれる生き方を求める”心の一心”さえも神様によって与えられ、またクリスチャンの交わりの中で育まれること。そして神様から与えられる風を止めないで広げて歩んでいきたい、と心新たにされました。

 神様のあわれみと恵みのなかで、来年も物理的に可能なら高槻のハーフマラソンには出場したいと願います。

 翌日は膝周りが固まり痛みも酷く、ベットから起きて横に座るだけでもしばらく時間がかかってしまいました。もしかしたら今日は現場に行けないかも、やってしまったかも…と思いましたが、棒のように固まった足を引きずって何とか行けました。ラジオ体操も下半身は棒状態のままでしたが上半身だけは一生懸命動かしました。フルマラソン完走出来る人を尊敬します。

 最後に独り言にはなってしまいますが、心から思っいることを綴らせてください。

 私にとって、どこの元請けであれ現場であれ、神様が遣わしてくださった尊い現場であり、人には見えない場所も眼差しておられる主に対して働きたく願っております(コロサイ3:22,23)。しかし、それでも敢えて綴らせていただきます。

 

 私にとってはどこの現場であっても、ありがたい思いで働いているけど、高槻の現場よ、私が今まで働いたどこの現場よりも本当に本当にありがとう😆💕✨

 もう一度言います! 高槻の現場よ、私が今まで働いてきた現場のなかで、どこよりもどこよりも本当に本当にありがとう😂❗

 主よ。高槻の現場に導いてくださって本当に感謝します。

 주여,高槻의 건설현장의 이끌어주쇼서 정말 감사합니다 !

 

 

 

 

 


罪人を招くために来られたお方

2024-01-19 20:38:03 | 日記

 今日は週末で帰省中だけれど簡単にブログを書こうと思います。

 今の現場は今日で一区切りで一時中断。来週から二週間だけ福井の山奥へ。現場側からはタイヤチェーン持参の要請があったくらいで、なにかとリスクは高いので少し気が重いです。

 日曜日はハーフマラソン。音楽無しで走り続けるのは無理なので、今から当日のプレイリストを選択しながら楽しんでいます。

 もうけっこうなおじさんだけれど、走る時にはもっぱら軽快なJ-POPかK-POP。昨年は大瀧詠一さんが没後10年目だったのでよく聞きました。他者へ楽曲を提供したものより自身の独特な歌い方のほうがいいですね。そして、走る時に相性がいいのは幾田りらさんの歌声。初めて歌声を聞いた時は、これまでに聞いたことのない新しい感じの歌声だなあ、と思いました。その歌声には最近の目覚ましでも世話になっており、心地ちよく起きれます。昨年の紅白では、存在感溢れていましたが、やはり評価されるだけのものがあるんだなあ、と感じました。後は娘の影響でよく聞くようになったIUとTREASUREなんかです。明後日の本番が楽しみです。

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【今日の聖書日記】(マタイの福音書 9章1~13節)

 今日の出来事や登場人物のなかで、どれも共通すると思えたのは「心の中」だと思いました。

 中風(ちゅうぶで聖書の脚注を見ると「からだが麻痺した人」とありました。)の人を含めて、床に寝かせたまま、みもとに運んで来た、とあります。

 他の福音書の並行記事によると、多くの人が集まったので隙間もないほどになり、屋根をはがして御前に寝床のままつり降ろした、とあります。

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた」と言われました。

 彼らには予想外のお言葉だったかもしれないけれど、イエス様はそこまでしてまでもイエス様の前にお連れしようとする彼らの信仰(疑わず求める心)を喜ばれました。(ヘブル11:6)

 それに対して、その場に居合わせた何人かの律法学者は、“心の中で”、「この人は神を冒涜している」と言いました。

 それに対して、彼らの思いを知ってイエス様は「なぜ心の中で悪いこと(神の御前に間違っている)を考えているのか」と言われ、中風の人への言葉だけでなく実際に癒され、ご自身が罪を赦す権威をお持ちのお方であることも示されました。

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 次は、この福音書の著者でもあるマタイがイエス様に召される場面。

 マタイは収税所に座っていました。 

 収税人は、当時の町の通行の要所などにあって、通行税や物品税を徴収していた職業で、ローマ帝国に税を納める手先でもあったり、余計に徴収したりして私腹を肥やしたり、当時の同胞や宗教家からは軽蔑され、罪人とのレッテルを貼られていました。

 しかし、イエス様は、人々が軽蔑する仕事場にいるマタイに「わたしについて来なさい」と声をかけられましたが、マタイの心はいかばかりだったでしょうか。イエス様からお声をかけて頂けるとは思いもよらなかったでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。

 この福音書の執筆者自身の経験を、とても簡潔に記していますが、その喜びは、収税所から立ち上がった(イエス様に従う人生を選択)ことと、イエス様を家に招いて、そこに同業者たちをも招いていたことからも(マルコ2:15「レビはマタイのこと」)分かります。

  すると、その罪人たちと交流するイエス様の様子を見た宗教家たちは、お弟子さんたちに向けて疑問を呈しました。

 これを聞かれたイエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くだめです。」と断言されました。

 宗教家たちのイエス様の行動に対する不可解な心の思いを正されました。

 私自身も、心の中をイエス様に覗かれては、もう神様の御前には立つことは出来ません。イエス様が宗教家たちを糾弾されたように、私の心の中も内側は強欲と放縦で満ちています。(マタイ23章)

 ★"ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:5)

 しかし、感謝なことは神様に心の中を見られては、心の貧しさばかり覚える痛者であっても、(マタイ5:3)イエス様の心の中の関心事は、罪人を拒絶するのではなく、罪人を招いて悔い改める為にこの世界に来てくださり、自己中心でしかない私の心をも、イエス様との交わりによって、正しく歩む者としての願いを生じさせてくださる事です。

 次のイエス様のお言葉も思い出しました。

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★見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ヨハネの黙示録3章20節 聖書新改訳2017新日本聖書刊行会

 

 

 


イエス様について行くなら

2024-01-18 18:14:45 | 日記

 設楽の現場も明日で一度中断し、来週からは再び福井県の現場へ行きます。残りの作業を二週間ほどで終わらせますが、岐阜との県境い、結構雪が積もっているそうで仕事になるのか心配です。

 そして、その前の週末には初めてハーフマラソンに参加しますが、膝が少し痛かったり、トレーニングも万全にはこぎつけられなかったので少し心配です…。でも制限時間内にだけは完走したいです。

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【今日の聖書日記】

(マタイの福音書 8章18~34節)

 

 今日の箇所は山上での説教の後、山から下りられると、大勢の群衆がイエスに従った(マタイ8:1)、とありますがその続きです。

 イエス様の教えを直接聞き、その後もイエス様に従いはしましたが、人々の信仰や覚悟や対応は様々でした。

 最初は、イエス様が弟子たちに向こう岸に渡るよう促しました。すると一人の律法学者がみもとに来て言いました。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」

 それに対してイエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

 イエス様に従っていくならば安住な生活が約束されている、ということではないですね。イエス様はこの人に、それでもイエス様の弟子として従っていく覚悟はあるのかを問われたのかと思います。

 次の人はこのようでした。

 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」(マタイ8: 21)

 その人の家庭の事情は分からないですが、もしかしてイエス様に従うことを遠回しに拒んだのでしょうか。

 しかし、イエス様の弟子として、今で言う聖職者のような立場なのでしょうか、その働きにしっかりと従うならば、まずは神様の働きを優先することを求めておられるだと思います。(マタイ6:33)

 イエス様は、けっして家族親族をなおざりにすることを進めているのではありません。

 "子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。"(エペソ人への手紙 6:1〜2)

 イエス様に従うならば、中途半端な思いではなく、神様を第一にすることを願っておられるのだと思います。

 "また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。"(マタイ 19:29)

 神様は私たちの本当の必要を何もかもご存じで(マタイ6:32)、私たちのことを心配してくださり、家族のことを気にかけていてくださるお方です。(マタイ8:14,15)

 次は先に送り出した弟子たちの舟にイエス様が乗り込まれると、湖は大荒れとなり、大波をかぶった! とあります。

 漁師出身の弟子もいたでしょうに、そんな状況でも舟で寝ておられるイエス様を見ては、たまらなくなったのでしょうか。

 "弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。"(マタイ 8:25)

 イエス様に従っていくならば薔薇色の人生ばかりでなく、茨の道だってあります。しかし、みそばでイエス様と行動や寝食を共にした弟子たちは、イエス様と共にいるということが、どのようなことなのかを体験出来たのではないでしょうか。

 "イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」"(マタイ 8:26,27)

 最後は簡単に、悪霊につかれて、人生を台無しにしたいた人達の癒しが与えられましたが、周囲の人達は、その人達が癒され正気になったことよりも(マルコ5:15)、自分達の安心な暮らしが脅かされてしまうのか、利害関係でイエス様を歓迎することなく、むしろその地方から立ち去ってほしいと懇願した、とあります。

 これらの人々の反応を見て、果たして私はどの人々に当てはまるのだろうか? と考えてみると、正直すべての人に当てはまるように思える。

 しかし、それでも幸いなのは、こんな私でもイエス様についていき、その教えに耳を傾け続け、神様の麗しさを見上げ続けさせて頂き、たとえ人生が山あり谷ありであっても、イエス様は共におられ、必要をご存じで、始めはイエス様に耳をかそうともしなかった家族をも救いへと導びき、あえて共に働く者ともし続けてくださり、神様のご真実をも知らされ続けてきた。

 感謝。

 

 "この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。"
マタイの福音書 4章 17〜20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悲しみの人で病を知っておられた方

2024-01-17 21:57:29 | 日記

毎週水曜の朝に参加している祈祷会の帰り道、気になっていた「ウォーキングセンター」看板の写真だけ撮ることができました。

現場に向かうのに時間の余裕がなくて、実際のセンターはまだ見られていいないです。

一体どんなセンターなのか想像だけが膨らんでいきます…。

 

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【今日の聖書日記】

(マタイの福音書 8章1~17)

 

 昨日まで呼んだ山上の説教が終わり、イエス様が山から降りてこられると、大勢の群衆が従った、とあります。

 そんな状況下、ツァラアト(重い皮膚病で宗教的にも汚れているとみなされ隔離生活を余儀なくされていた)に冒された人が、みもとに来て、イエス様に向かってひれ伏し、「主よ、お心当たり一つで私をきよくすることがおできになります」と言って疑わなかった。

 この人は本来なら、人々のいるところへ来ることの出来ない人であった。しかし、イエス様のうわさを聞いたからか、イエス様だけが真の解決をくださるお方と信じ、勇気を出して群集のなかでもやって来て上記のように告白した。

 イエス様は、彼の言葉とその信仰を見逃されはしなかった。

枯れに触って癒され、真の社会復帰が出来るように、継ぎになすべきことの指示をも与えられた。(7:4,5)

 

 次は当時ユダヤ人からは敬遠されていた、ローマの100人隊長の、しもべの癒しの奇跡である。

 彼自身、ローマ軍隊のなかで、上からの指示が絶対という環境のなかで生きていたからか、イエス様のお言葉さえ頂けたら、しもべは癒される、との信号をイエス様は喜ばれた。

 ユダヤ人から敬遠されていようが、愛するしもべを思い、イエス様のお言葉さえ頂けるなら、とイエス様に働かせる信号を主は驚嘆されました。

 ペテロの姑の癒しも、ペテロの家に入り、姑の手を触れられ癒されました。

 すると彼女は熱がひき、「イエス様をもてなした」、とあります。

 今日の箇所では、三者三様、一人ひとりにふさわしく取り扱ってくださり、神様の御業が表されました。

 三者三様、一人ひとりにあったお取り扱いで、それは社会的な復帰までも願われる最高なお取り扱いでした。

 それは私に対してもその通りで、この上ないお取り扱いでした。

 

主よあなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前になんと主よあなたはそのすべてを知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議あまりにも高くて及びもつきません。

詩篇 139篇 1〜6節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」
イザヤ書 53章 1〜12節
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