ケバル川のほとり日本でも

在日4Kの気ままなブログ。

早天祈祷会最後の挨拶

2024-02-28 22:36:43 | 日記

 昨年の11月から参加させて頂くようになった、こちらの教会での早天祈祷会が今日で最後の参加になってしまいました。

 今日は今朝の早天祈祷会の様子、また礼拝のなかで証の機会が与えられましたので、それを再度まとめたものを、お分かち出来たら感謝です。

 まだまだ参加できると思っておりましたが、急な辞令により本日で最後となりました。これも神様の御手によることだと受け止めております。短い期間でしたが、神様は放送伝道の働きに長年携わってこられた教会に導いてくださったこと、そして私自身も共にお祈り出来たこと、三河地区での放送伝道の活動にも携わることが出来たことは感謝でした。

 また早天祈祷会では、遠く離れた私が参加するようになったので、これまで参加されていなかった方や、ズームで参加されていた方も教会に足を運んでくださるようになったことも感謝でした。

【今朝の様子】

 今日お別れの挨拶をしたら、早天祈祷会にも参加されるようになった方がとても寂しがっておられたので、私も悲しくなってきました。

 悲しいお別れにはしたくなかったので、私は来週からも放送伝道の為に共にお祈りしたいので、ズームで参加したい旨と、また仕事で近くに来た時には絶対に顔を出します! と言い、6名の方一人ひとりのお名前をお呼びして笑顔で挨拶をすることが出来ました。

 こんな短期間であっても主イエスにあって交流が与えられたことは本当に感謝でした。私自身早天祈祷会に参加するようになって励まされたこと、そして参加するようになってくださった方も、私ではなくイエス様が祈りの戦士として私たちを招いてくださったことによるのだ、と思っております。

 パウロさんがたびたび、私のことや私達のために祈ってください! と願っていたことや、イエス様が、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。と言われたことを思い出しました。祈ることによってイエス様の働きに共に参加していることを感じました。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【救いの証、神様から与えられたビジョン、現在に至るまでの導き】

 救いの証 2024/2/11(日)

只今ご紹介に預かりました金憬晤です。

今日は礼拝の中で貴重なお時間を頂くことが赦され感謝します。

 

今から救いの証、次にその後に神様から頂いたビジョン、そして今日(こんにち)まで守り導いて来てくださった神様のご真実をお話し出来たら感謝です。

 

私は、この日本という国に外国人として生まれてきました。そして日本の社会のなかで在日であることの不都合さを知っていくにつれ、自分の本当の姿を隠していくようになっていきました。

 

一方、社会人としては暴走族として人様に迷惑をかけ、親に暴言を吐き、自分や周りを傷つけながら生きてきました。

 

そんな私でも、20歳の頃に初めて結婚を意識しはじめる女性との交際がありました。勇気を出して自分は日本人で無いことを告げました。相手の女性は全く関係がないかの如く受け止めてくれました。

 

しかし、私が原因で別れることになりました。

 

悲しみをなんとか誤魔化そうと、必死に働いたり笑顔を振りまいたりしましたが、心のなかは乾いていくばかりでした。

 

そんな時、当時働いていたトラックの中のラジオで、それまでは何が流れていたかも分かりませんでしたが、急に「信じる者は救われる」、という言葉だけがはっきりと私の耳に留まりました。よく、「一筋の光明が心に差し込んだ」などと言われますが、まさにそのようでした。番組を聞き終わった時には、私の真っ暗闇だった心に温かい灯りがともった感覚を今でも覚えております。

 

それから番組を聞くようになり、ある日「ダイジェストバイブル」という小冊子をプレゼントしてくれる案内があり葉書を出しました。

 

毎日プレゼントが届くのを心待にしましたが、自分が出した葉書がまた戻ってきました。葉書には「名古屋集中郵便局」の印鑑が押され、「この葉書はもう使用できません」と書かれていました。

 

諦めきれなかった私は、住所を目当てに「世の光センター」という所を訪ねました。そこは今私が通うことになる教会でしたが、どうしても入ることが出来ませんでした。玄関の前を行ったり来たりした挙げ句、もう帰ろうと諦めかけました。しかし、私に気がついてくださった方が声をかけてくださり、ようやく中に入ることが出来ました。

 

教会に入って簡単な挨拶を済ますと、その方は聖書の中心的なメッセージを話してくださり、祈りへと導いてくださいました。そして帰り際に「四つの法則(インターネットで閲覧可)」という、小さな冊子を手渡してくださいました。

 

私は何度もその冊子に目を通し、そこに書かれている祈りを、ご利益でも受けられるかの思いで、繰り返し祈り、いつしか祈りの言葉も完全に頭に入っておりました。

 

ある日、仕事で運転をしながら祈っていた時、イエス様の傷だらけになった姿がはっきりと私の頭に浮かびました。「イエス様の十字架は私の罪のためだったんだ」と知り、毎回唱えていただけのような祈りは、私の心からの祈りとなりました。

 

「主イエス様、私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死んでくださったことを感謝します。私は、今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の心の王座で、私の人生を導いてください。私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。アーメン。」

 

そして次に日曜日が休みとなった日に、初めて教会の礼拝に出席しました。私が今通う教会は60有余年が経ちますが、教会で一度だけ海外に研修旅行に行った事がありました。行き先は韓国で、教会から約10名の方が行かれたようです。そして皆さんが帰って来た最初の日曜日に、私は何も知らずに礼拝に参加しました。

 

牧師先生のメッセージは「十字架によって結合された交わり」と題して、日韓の過去の歴史や韓国研修旅行で受けた内容を中心に、エペソ人への手紙2章14~18節からのメッセージでした。

 

キムチがまだスーパーで売られてもいないような時代、私は日本の方が日韓の過去の歴史を悔やみつつ、キリストにあって一つとされていくことが可能である、という内容の話しを生まれて初めて耳にしました。

 

続いて、礼拝後の報告では2名の方が、韓国のクリスチャンとの交わりで受けた恵みを涙ながらに分かち合ってくださいました(内一人は私の妻です)。

 

私は、まるで新約聖書に登場してくるザアカイさんのような心境でした。礼拝が終わるや否や、我を忘れて写真を見せてもらいに駆け寄りました。

 

これまで自分を隠しながら生きてきましたが、神様の目には全く隠されてはおらず、私の全てが知られており、この日を選んで招かれているように思いました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

(伝道者の書 3章 11節 新改訳2017)

 

それから教会の方々に祈られながら、半年後に洗礼を受けました。そんな私でしたからクリスチャンとして洗礼を受けることは清水の舞台から飛び降りような思いでした。

 

はじめ暴走族からクリスチャンとしての生活には大きな不安がありましたが、神様の胸に飛び込んで本当に良かったと思います。

 

★私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

テモテへの手紙第二 2章 13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

★「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

(テモテへの手紙第一 1章15節)

 

それから1年くらい経った頃、神様から特別な使命が委ねられていることを知るようになっていきました。

 

その次第は次のようにでした。教会の祈祷会に、フィリピンに宣教師して派遣される女性の方が来られ、その使命のきっかけとなった聖書箇所を開いてお話ししてくださいました。エゼキエル2章、3章で、捕囚の地にいた預言者エゼキエルが、神様に背き続けている同胞の民へ神様の言葉を語るように、との命令でした。

 

なにげなく聖書を開いたら偶然同じ箇所を開くことが出来ました。

「おおっ!」と一人喜んでおりました。

 

しかし、そのメッセージが仕事中でも頭から離れなくなってしかたがありませんでした。「もしかしたら神様は私に対しても語りかけておられるのでは?」と考え始めました。

 

ある時、居ても立っても居られなくなり、吐き出すようにして祈りました。そして祈り終わると、聖書に挟んであったしおりに最初に目が行きました。(CLCのしおりだったかと思います。)

 

そこには次のように書いてありました。

「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、

みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。」(申命記 10章 17〜18節,新改訳©2003)

 

私は祈りによって神様からの使命を受けとめました。しかし、今日まで牧師や宣教師などのフルタイムでの働きの導きを感じたことは一度もありませんでした。

 

それゆえずっと気になってきたことが2つありました。

 

一つ目は、果たしてどのようにこの使命が展開していくのだろうか。在日コリアンへの伝道に召されているのならば、在日の集まるコミュニティーに出向いた方が良いのでは、とかも考え足を運んだりもしました。しかし、自ら出向いたとしても何ら進展はありませんでした。

 

ただ洗礼を授かった牧師先生から個人伝道の学びが受けられたことと、私が成すべきことは神様がエゼキエルに語っておられたように、「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル書 3章1節)という事だけでした。

 

まずは、日々神様のメッセージ(哀歌と、嘆きと、悲しみ)に耳を傾け続けることでした。

 

神様は不思議なことに、一信徒である私に今日までの30年間、両親や叔父や叔母をはじめとして家族・親族に福音を伝えるように遣わされ共に働いてくださいました。また人生の紆余曲折の中にあっても、神様としか思えない導きのなかで、同胞との出会いを与えてくださり、伝道の機会を常に与え続けてくださいました。

 

そのようにして、今日まで伝道の機会を与え続けてくださいました。

 

最後にもう一つ気になっていた事は、同胞への働きに召されているのなら、本名で生活したほうが良いのでは? と数年置きに真剣に考えては、やはり本名で生きていくことはリスクが大きく思え、いつも断念していました。

 

しかし、51才を過ぎてから約1年間行った大阪高槻市の現場で、本名で生きていきたいと決断する機会が与えられました。

 

同じ時期に現場に来られた一人の方に対し、少しだけでも親しくなり、応援したかっただけでしたが、結果はむしろ私の言動で相手を困らせ、悩ませてしまうことになってしまいました。社会的に後ろ指を指されるような事は何一つありませんでしたが、それでも「私はクリスチャンです」と公言しながら、自分の言動を全く制する事が出来ない惨めな姿を露呈してしまい、自分に失望していきました。

 

そんな時、インターネットで通勤中に聞いていた「世の光」のメッセージで、一人の若い女性が、「私たちの国籍は天にあります。」という聖書の言葉から、当日のメッセンジャーの先生に、「先生、わたし本名で生きていくことを決心しました!」といった出来事があったことをお話してくださいました。

 

その頃の聖書箇所の黙想から、今回は、神様も私の背中を押してくださっておられることを感じました。例えデメリットが多かったとしても、一人の在日コリアンとの出会いが与えられ、その方に福音を伝える事が出来れば本望だ、と思いました。また、高槻で本名を決心したことを人生の分岐点とし、残りの人生を天国をもっと見上げながら生きていきたいと願いました。

 

そして、家族にもその旨を告げ快く了承してもらい、2022年の5月から本名で働きはじめました。

 

それから、約一年半の間に、現場で3名の方々が、私のヘルメットの本名を見て、「私も在日です」と名乗り出てくださる方が与えられました。私にとってはとても嬉しいことです。そして今でもその方々と祈りつつ関わりが与えられております。

 

出会いと伝道のための門が新しく開かれたことを実感しております。

 

しかし、強い決心をしても、やはり弱さを覚える罪人です。残りの人生、まずは毎日神様を最優先にする生活に改善したい、こちらで持たれている早天祈祷会を機に、毎朝み言葉と祈りを最優先にした生活を志したいと、歩み出しております。

 

コロナ禍の影響で夜の祈祷会がお休になっていたことは、私にとっては良かったのかもしれないです。

 

その日の成すべきことを終えたら、いや早くやるべきことだけを片付け、その日の感謝と「主よ、あわれんでください」と反省をして早く床に就き、翌朝に「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と新しいスタートをして、一日一日を大切に歩んで行きたいと願わされております。

 

そのような機会と、実際に共に祈って頂ける励ましを、こちらの教会を通してお与えくださったことを心から感謝します。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

(マタイの福音書 6章 33〜34節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会)

 

そして、イエス・キリストとの出会いを通して、この日本に在日コリアンとして生まれてきたことの意味を与えてくださり、主を証しながらこの地上の生涯を天を見上げて歩むものとしてくださったことを感謝します。

 

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」』

(イザヤ書 6章 8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会)

 

これからも宜しくお願いします。

 

 今日もこちらのブログを訪問して最後まで読んでくださりありがとうございました。どうか皆さまの上に神様の祝福がありますように!

God bless you !


見捨てず離れず救われる神!

2024-02-27 20:52:15 | 日記

 立て込んでおりましたので久しぶりのブログ投稿になります。ブログのタイトルを「…の気ままなブログ」にしておいてよかったです💦

 今日は、今の現場も急な辞令を頂き、今週までとなりましたので(いまのところの予定ですが)、名残惜しみつつ、急いであちこちに足を延ばしております。

 昨夜は少し足を延ばし、隣町浜松だけで展開されているハンバーグ屋さんに。そして今晩は、また反対の隣町にある日帰り温泉「本宮の湯」に行ってきました。

 個人的には露天風呂が良かったです。館内を流れているクラシックを聴きながら、豊橋方面の夜景、オリオン座、その星座の下の航路になっている夜間飛行を眺めながらで気持ち良かったです。そしてお風呂上がりには100円のミニカップソフトクリーム。これくらいでも十分でなかなか美味しかったです😊

 来週の新しい場所では、知人に教えてもらった「はわい温泉」とやらに行ってみようかと思っております。そちら方面では「はわい温泉に行ってきました!」なんて鉄板ネタになっているみたいです。

 もう一つ、こちらの餃子屋さんにも行けたので思い残すことはなにもありません!🥟🥟🥟

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【聖書日記】詩編38編

 この詩編は、聖書の神様が望んでおられるあるべき王様の姿から逸脱して大失敗してしまったダビデ王の嘆願のような祈りです。

 神様からの懲らしめからなのか、そのような苦しみのなかで、周囲の失脚を願うような態度や、近親の者さえ離れてしまっていく孤独。ダビデ王はそれらの結果は自身の罪が招いたことで、私の愚かさとも告白しております。

 自身の犯した姦淫の罪によって生まれた子供もすぐに亡くなってしまったようです(第二サムエル12章)。またその事が起こってからはダビデ王の家庭には争いと問題が絶えなくなりました。

 しかし、そんな自身の人間としての愚かさを認めつつも、あわれみ深い神様に向かっては「あなた」と祈りすがることを決してやめないダビデ王でした。

 こんな詩編が聖書に残され読者の一人とされていることに、大きな慰めを受け涙がでました。

 私なんかも本当に愚かで惨めな罪人の一人として、それでいて神様に祈ること縋ることを諦めなくてもよいのだ! 父なる神様は、そのようにして御前に遜ってでも救いを求めることを喜んでくださってあられるのだ、と思いました。

 また、終わりのほうの祈りには「主よ私を見捨てないでください。わが神よ私から遠く離れないでください。」とありますが、聖なる神様、義なる正しい神様が私を見捨てない為の、正しいお方イエス様の見捨てられた身代わりの十字架、を思います。

 それゆえ、これから老人になっていっても、いつまでも本来畏れ多いお方に向かって、幼子ような心で「あなた」と祈りつつ歩んで行きたいと思います。

 こんなブログでも訪問してくださった皆さまの人生も、どうか豊かに守られますように。

 ★詩編38編【記念のためのダビデの賛歌。】

"主よあなたの激しい怒りで私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私に突き刺さり御手が私に激しく下りました。

あなたの憤りのため私の肉には完全なところがなく私の罪のゆえ私の骨には健全なところがありません。

私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。

私の傷は悪臭を放って腐り果てました。それは私の愚かさのためです。

私は身をかがめ深くうなだれ一日中嘆いて歩き回ります。

私の腰は火傷でおおい尽くされ私の肉にはどこにも完全なところがありません。

私は衰え果て砕き尽くされ心もだえてほえ叫んでいます。

主よ私の願いはすべてあなたの御前にあり私の嘆きはあなたに隠れてはいません。

私の胸は激しく鼓動し私の力は私を見捨て目の光さえも私から失せてしまいました。

愛する者や私の友も私の病を避けて立ち近親の者でさえ遠く離れて立っています。

私のいのちを求める者は罠を仕掛け私のわざわいを願い求める者は私の破滅を告げ絶えず欺くことを語っています。

しかし私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように。

まるで私は耳が聞こえず口で争わない人のようです。

まことに主よあなたを私は待ち望んでいます。わが神主よあなたが私に答えてくださいます。

私は思いました。彼らが私のことで喜ぶのではないか。私の足がよろけるとき私に対して高ぶるのではないかと。

私はつまずき倒れそうで痛みが絶えずともにあります。

私は自分の咎を言い表します。自分の罪で不安なのです。

私の敵は活気に満ちて強く私を憎む偽り者が多くいます。

悪をもって善に報いる者どもは私が善を追い求めると私をなじります。

主よ私を見捨てないでください。わが神よ私から遠く離れないでください。

急いで私を助けてください。主よ私の救いよ。"

詩篇 38篇 1〜22節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ★ "金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」"

ヘブル人への手紙 13章 5〜6節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 


天におられるのあなたがたの父のみこころ

2024-02-15 19:33:03 | 日記

 今日も山の中で工事用道路を作っております。午後からは雨でした。最近は寒さが少し緩み、道路は凍結しておらず、建設機械の窓ガラスには霜が付着していないので助かります。春もすぐそこまで来ているのを感じ始めています。

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【聖書日記】マタイの福音書18章1-14節

 今日の箇所は、“お弟子さんたちがイエス様のところに来て言った” という話題から始まります。何を言ったかというと、イエス様が度々口にされてきた「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」ということでした。

 マルコの福音書やルカの福音書も並行して読むと、どうもいよいよ自分達が待望していた神の国が近づいて来ていると思って、誰が偉いのか、イエス様の右側と左側に座ることが出来るのは誰かということに関心があったようです。自分達が待望していたと言っても、それはローマ帝国からの解放とか、ダビデやソロモン王時代の繁栄を夢見てのことみたいです。(使徒の働き1:6)

 そんな誰が一番偉いかで議論が白熱している弟子たちに対して、「イエス様は一人の幼子を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」と、またマルコの福音書では「腕に抱いて彼らに言われた」とあります。弟子たちにとって、当時女性や子供は見下げられがちだった社会では、まさかの教材になったのだと思います。

 そして、「向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国には入れません。ですから、誰でもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と回答されました。

 子どもだから無条件で天国に入れる、ということではなく、悔い改めて生き方を天の御国に向かって方向転換することだと思います。それは、ある時イエス様の所に夜こっそり訪れたユダヤ人の有力な議員だった、ニコデモさんとの会話でも分かります。イエス様は、神様によって、天からのお取り扱いによって新しく生まれることを教えられました。それによって幼子や老人の区別はなく御霊と真理によって父を礼拝することが可能になるのだと思います。(ヨハネの福音書4:23,24)(使徒の働き2:18)

 話しはそれてしまった感がありますが、続いてイエス様は「それから、このような子どの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」と言われ、悔い改めてイエス様を信じた小さい者たちの一人をつまずかせる者はわざわいです。と詳しく説明と例えを通して教えられ、悔い改めて生き方を方向転換したどんな人でも、滅びることは父のみこころではありません。と話を結ばれました。

 先日もこのブログに書きましたが、お弟子さんたちや、また私もしかりですが、その思いは神様のことを思わないで、人のことを、自分のことを思うので占められていたのだと思います。

 しかし、イエス様から聞いていた通り、イエス様の十字架を目の前で体験して、イエス様が言われていた通りにイエス様の復活を知って、そして旧約聖書から約束されてきていた通りに御霊を受けたことによって初めて神様を見上げながら生きていくことが可能になったのだと思います。

★"そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」"(使徒の働き2章38-39節)

 そしてあのような弟子たちは、神様のお照り扱いによって、神様に、小さな者の集まりである教会に、人々に仕える者へと変えられて行ったようです。

 ここに、いつまでも経ってもどこまでいっても自己中な私にも、神様にあって大きな希望のメッセージがあります。

★"一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」"
マルコの福音書 9章 33〜37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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【本日の聖書箇所】

"そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。
あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
※後代の写本に十一節として〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕を加えるものもある
あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。"
マタイの福音書 18章 1〜14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


からし種ほどでも信仰によって歩ませていただこう

2024-02-14 20:01:33 | 日記

 今日はバレンタインデーなんですね。日本ではたしか明治か大正に東京の方で始まったとか。今では完全にバレンタイン商戦に日本中が巻き込まれていますね。私も物心ついた時から完全に巻き込まれてきた一人です。

 今日はやや身体の具合が悪いですが、このブログを書いたら床に就きます

 しかし、今日は嬉しかったことがあったので、それにまつわる回顧録から書きます。

 私がいま顔を出している豊川市の教会でお世話になっている方が、高槻市の教会に身内の方が通われていることだけは知っておられ、諸事情によりその後は会えなくなっていたそうですが、元気にしておられることを仲介してお伝えすることが出来て感謝でした。

 思えば私自身も高槻市の教会には不思議な神様の導きを覚えました。

 それは、2022年の一月から五月末までの間、それまで勤めていた会社を出ざるを得なくなり一人和歌山県の現場で働いておりました。通勤時に聞いていた関西一円に届けられているABCラジオの「福音の光」という番組を週末には聞いていました。

 ある時、番組から懐かしい声が聞こえてきました。私がイエス・キリストへの信仰に導かれた二十代の前半、近隣の教会間の集まりで集会を持った時、まだ新入りだった私をリーダーとしてサポートしてくれたクリスチャンの姉妹です。

 その方はそれから間もなく神様に全生活を捧げて歩もうと決心して神学校に学びに行かれ、その後は大学生を相手とする活動に従事され、全国へ行かれました。なんか凄いな(私には出来ないので羨ましくも思えた)と思いました。

 私がラジオで聞いたのはその方の声でした。約30年ぶりに聞きました。その後に、その姉妹が通われている高槻市の教会の牧師先生がショートメッセージをされました。

 私は懐かしさのあまりネットで教会名から調べ、その教会宛に「今日は懐かしいお声が聞けて感謝でした!」とメールを入れさせていただきました。

 すると、後日その姉妹から私宛に返事が届きました。そして私は「仕事柄全国へ行くことが多いので、もし現場が近くになった時には足を延ばします!」と書き、姉妹からは「お近くになったら礼拝にも是非顔を出してください。」とのことでした。

 それからすぐだったと思います。和歌山の現場に、現在お世話になってる会社の部長さんが来られ、最後の二週間だけ一緒に働き、「もし、次がどこへ行くか決まっていなかったら、是非高槻市の現場へ入ってください。」と、こんな私に現場を調整してまで先に入っていた方と入れ替えで行くようにしてくださいました。そしてその現場は、なんとラジオで話されていた方々の教会から約10分の所にありました。

 そして、メールのやり取りをしてから一ヶ月も経たないうちに、私は連絡もせず日曜日に直接教会へ行き、「すぐ近くの現場になってしまいました!」と。先生も姉妹も唖然としておられました。

 そこで、約一年間コロナ禍でしたが、主なる神様にあって交わりが与えられたことは大変に感謝でした。

 それだけでなく、その高槻市は私にとって人生の分岐点ともさせて頂いた、絶対に行かなければならない現場だったとも思っております。

 まさか、今回はその高槻市の方と豊川市の方とを繋ぐことにもなろうとは、まさに神様のご計画は、私たちにはまったく知り得ることは出来ない深い御思いがあることを知りました。

 ★ "あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。

神よあなたの御思いを知るのはなんと難しいことでしょう。そのすべてはなんと多いことでしょう。

数えようとしてもそれは砂よりも数多いのです。私が目覚めるとき私はなおもあなたとともにいます。"

詩篇 139篇 16〜18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

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【聖書日記】マタイの福音書

今日の聖書箇所はいろんな出来事があっても、主は全てを通してもお弟子さんたちを教育してくださるのだと思いました。

 律法の教師は、神殿に税を納める義務は無かったそうですが、ここに教師以上の栄光なるお方がおられるのに、教師扱いすらしない人々に対して、またしても先走ったことを言ってしまったペテロ…。

 ペテロはきっと肩を落として主の元に帰ったのでは、と思いました。ところが主の方からその問題に触れてくださり、指示を与えられました。

 本来栄光に輝く神様であられるのに、人につまづきを与えないようともされた、救い主イエス様のへりくだられたお姿をここにも見ました。

 私たちが神様から与えられた権限を自分達のものと錯覚せず、主にならってへりくだりつつ、当然成すべきことを行っていきたいと願います。

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"彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、

こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。

そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」

イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。

それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

※後代の写本に二一節として〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕を加えるものもある

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。

人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。

彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」

彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」

ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。

しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」"

マタイの福音書 17章 14〜27節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 


神のことを思うのか、人のことを思うのか

2024-02-13 21:49:33 | 日記

 なかなか時間がとれなかったので久しぶりの投稿になります。それでも今日の仕事は遅くなりましたが、おかげでわりと山奥の現場なので綺麗な星空が見えました。現場を出た途端には流れ星も。昔は一瞬の間にお願いだなんて無理な話だと感じていましたが、よほどの思いがあったら瞬時に出てくるものかも!? なんてことを…。

 

【聖書日記】マタイの福音書17章1-13節

 昨日と今日の箇所で共通して思ったのは先の話ではないですが、普段何を思っているのかが瞬時に出てくるものかも、と思いました。

 昨日の箇所で一番弟子として描かれているペテロは、良い信仰告白をしてイエス様に誉められたと思ったら、すぐイエス様から「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱責されました。

 当然イエス様に嫌われてのことではないと思いますが、それぞれの思いにはまったく大きな隔たりがあっように思います。

 イエス様は昨日の箇所も今日の箇所でも、その思いはまっすぐに十字架への道に思いが向いていたのに対して、ペテロはまったくそれとは違います。それだからこそのイエス様の叱責だったのかなあとも思いました。

 誉められたと思ったら、そこまで言われたペテロの胸中はいかばかりかと思いました。生涯この時の出来事も忘れることはなかったのでは、と思います。

 今日の箇所で突然の体験の中で、驚きのあまり自分でも何を言っているのかが分からなくなったほどだったのだと思います。

 心に残ったのは昨日の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とのお言葉。神のことを思うか、人のことを思うか(自分のことも)。結局はこれが常に問われているように思いました…。

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"さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。

イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」

すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。"

マタイの福音書 16章 5〜7節

 

"さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。

彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。

その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」"

マタイの福音書 16章 13〜28節

"それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」

すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」

イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。

しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」

そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。"

マタイの福音書 17章 1〜13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会