ケバル川のほとり日本でも

在日4Kの気ままなブログ。

2023/12/27 私の霊を御手にゆだねていく者へと

2023-12-27 23:09:31 | 日記
★日記

写真は、毎朝創造主との時間を最優先にするきっかけを下さった教会で、年内最後の早天祈祷会から現場へ向かう途中の景色。
早起きして得られる、もうひとつの祝福です。

今日は2023年の仕事納めでした。
今年も沢山の出来事があった一年でしたが、振り返えってみると、すべては創造主の御手の中にあった一年だったと思えます。
現場では心から挨拶して帰ってくることが出来ました。

そして明日は数年使っていたスマホを今回の連休こそは、と朝から新しい機種に変更しに行く予定です。

このブログを書き始めた理由は先日触れましたが、今後継続していく為に、簡単な方針は決めておこうと思っております。

※まず無理はしない…。

※新しい明日のため、早寝早起きを優先に。
基本一日の終わりにと思っているけれど、眠りと明日を妨げるまでしない。
もう、明日に差し支えると思ったらお休みする。
特に月末と月初めは事務作業を妨げない。

※帰省時と連休中もお休みにする。
せっかく帰省して家族と一緒にいられるので、帰省中にすべきことを大切にする。
ブログで家族を二の次、そっちのけにしない。

※一日の終わりに教えられたことを振り返り、夕べの祈りをしたあとに。
それから日記や教えられたことを素直に上げてみる。
翌日くらいまでは、見返して乱筆乱文があれば内容は変えずに推敲し、自身の日記として残していく。

みたいなことを思っております。
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★聖書日記【詩編31編】

ここには、十字架上のイエス様も口にされた「私の霊をあなたの御手にゆだねます」という言葉や、繰り返される「私はあなたに信頼します」など、成熟した信頼、信仰の告白があります。

なんかすごいな!

しかし、全体を見ると自分の嘆きや、懇願の祈りなど、親の前だからこそ泣きじゃくって地団駄を踏むような幼子の祈りもあります。

私もダビデ王がここに述べているよう命の危険の数々は経験したことはないですが、先が見えなくなって叫んだり、ただ祈りの言葉も口に出ずにため息や、うめき声だけのような祈りということはありました。

イエス様こそ究極の十字架に向かわれる前に祈られた祈りは、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイの福音書 26:39)でした。

そして、神様は私たちの心にも「お父ちゃん」、のように呼びかける霊を私たちの心にも与えてくださった。(ローマ人への手紙8:15)

嘆きの祈りも、感謝の祈りも、言葉にならないうめきのような祈りも、父なる神様の御前にはどんな祈りもまずはゆされていることに感謝。

そして、信頼や賛美へも整えられていくとともに、最後には主イエスが教えてくださった「主の祈り」を、父なる神の御前に祈り続け、信頼していく者であり続けたいです。
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ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
マタイの福音書 6章 9〜13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会





ご恩寵のうちに堅く立たせてくださいます

2023-12-26 22:29:16 | 日記
年内の仕事も今日を含めあと二日。今年は珍しく年内にするべきことも順調に進んでいます。あとは、明日の仕事納めで年内の仕事も終わって、残すは大晦日が日曜日となり、その日の教会学校でのお話の準備かな…。

今日の聖書通読箇所は詩編30編で、心に残ったことは、あのダビデ王でさえ、まことの神様を求めず脇においやって生きていこうとするなら(6節)、神様も御顔を隠され(7節)、しかし苦境に立たされるなかで神様を求め、救いだしてくださり、神様を賛美していく者へと、呼び掛けていく者へと変えてくださる、神様の人へのお取り扱いの寛大さを覚えました。

私も、いや私こそ喉元過ぎれば熱さを忘れるで、順調な時や悩み事がない時は神様を求めようとせず、ひとたび苦境に立たされると、神様に叫び求める誠に身勝手な者です。

しかし、それでも神様に叫び求めるなら神様はけっして無下にはなさらなず、あわれみ深く救いだしてくださるお方です。(1~3節)

その事を人生のなかで痛感したダビデ王が、もう過去の考え方を徹底的に改めていて、一国の王でありながらも素直に神様を呼び求め、そして周囲にも呼び掛けていく者とされていったのですね。(10~12節)

私も最近、自分こそは事故を起こさない、と油断して大きな事故を起こしたり、その処理を通して神様を脇においてしまったり、自分本意で人を悲しませてしまったりするような者だけれど、苦境に立たされて、そこからも救いだしてくださる神様のお取り扱いを経験して、自分の生き方を悔やんでようやく神様を求め、賛美し、感謝していく人生へと矯正されていくのを教えられている今日この頃です…。
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聞いてください主よ。私をあわれんでください主よ。私の助けとなってください。
あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き喜びをまとわせてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い押し黙ることがないために。私の神主よ私はとこしえまでもあなたに感謝します。

詩篇 30篇 10〜12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会



 

2023/12/24のキャンドルサービスにて

2023-12-25 20:02:44 | 日記
今日からブログを始めようと思います。

昨日の12月24日は母教会でクリスマスの燭火礼拝(キャンドルサービス)でした。

今年のキャンドルサービスは、これまでになく一番心が温まるのを感じました。

どうしてだったのだろう…。

沢山の要因はあったのだろうが、ここ一、二年は特にいろんな事があったから余計にそう感じたのかもしれないです。

順番でクリスマスにまつわる聖書箇所を朗読する途中、緊張で一ヶ所噛みましたが、私は朗読中、その出来事に感極まって嬉しさが表情に滲み出てしまったかもしれないです💦

聖書箇所は「東方の博士来訪」で、マタイの福音書2章1~12節でした。

これまでになく心が温かくなったのは。
母教会の方々が祈り備えてきたからなのでしょうか。

よく備えられてきた聖歌隊と指揮者のど真ん中の席に座って味わうことができたからなのでしょうか。

またはクリスマスのメッセージが深く心に刺さったからなのでしょうか。

もしくは会が終わったあとの歓談の一時、お互いの近況をゆっくり話し合えたことが良かったのでしょうか。

それとも、その場から出張先の宿に出発する直前、名前を呼んで、行ってらっしゃい、と送り出して貰えたことも嬉しかったのかもしれないです。

なんか今年は大変に心温まるキャンドルサービスの夕べを過ごすことが出来て感謝でした。
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これからも日記や教えられたことなど、肩肘張らず、気ままに、ありのままに書いてみたいと思います。

日ごと、私に俳句・川柳や歌壇を送ってくださる方がおられ、以前その方が私に「キムさんも何か話したいことありますか?」と、問われたけれど、普段はあまり話さないほうなので、私からも日々感じたことを発信出来たらと、とりあえず始めてみることにします。

ブログ名に付けた「在日4K」の「K」は、ややこしく思われるかもしれないですが私のこれまでに関連する名前(あだ名も一つあります)の頭文字です。

私の元々の日本名は金田憬(K)で、生まれ育った家族や親族からは当たり前ですが現在でも“さとる”と呼ばれています。

もう一つは小学校からのあだ名がキンタ(K)です。

そして、次の2つは例外ではありますが、10代の半ばに一度家族が離れ離れなった事があり、その時世話になった恩人が伊藤(I)さんでした。
雇って貰えていただけでなく養子縁組まで真剣に考えてくださっておりました。
私が公○執○防○で○察○に閉じ込められてしまった晩には、お酒もかなり飲んでいたのにも関わらず、すぐに車を運転して私を取り返しに来てくれました。
今思えばどうして出てくることが出来たんだろう、今では到底あり得なかった話だと思います…。
そのままなら、私の人生もまた変わっていたのかもしれないです。

また、30代始めからの怪我を機に、仕事の転職繰り返していた私を、拾って忍耐して現在にも繋がる仕事を学ぶチャンスを与えてくださったのも、伊藤社長という方で、私の今があるW伊藤(I)社長は恩人でもありす。
そして最近かつて現場でお世話になったまた別の伊藤さんという方とも5年後越しの再会があり、仕事面で大失敗を経験し、キリスト者としても恥ずかしく大きく悩んでいた私に、今後の人生に大きな転機をもたらしてくれそうです。

そのように私にとって人生の節目節目で出会う伊藤さん達は、不思議なほどに特別なお名前のひとつです。

話は戻り、その後にまた家族が一緒に再出発することになり、その時を機に16才の頃から通名を加藤(K)に改め、現在にも至ります。

そして、21才の時にイエス・キリストと出会ってクリスチャンになってからは、あるがままの本来のルーツである本名で生きてみたい、みるべきか、と何年かおきにその都度真剣に考えてはみたものの、いつも踏ん切りがつかなかったです。
しかし、52才の時に起こった出来事を機に再び考え始め、その時こそ神様も背中を押してくださっておられることを感じ、金憬晤(K.K)という本名で残りの人生を生きることを決心しました。
人生の、また天国に向けての旅立ちの分岐点としてです。

ブログ名の一つの4K(I)はそこからで、「ケバル川のほとり」は、旧約聖書のエゼキエルという人物が、捕囚にあっていた異国の地で神様と出会い、同胞への使命を授かった出来事を、私にとっても生まれ育っている母国のこの日本は、どうしても異国の地でもあり、エゼキエルへの召命の出来事は、置かれた国と対象の人々は違えど、私にも同じ神様から(エゼキエル1章)、同じように与えられた使命として捉えているからです。

話は戻りますが、朗読では、東方の博士たちの巡礼の行く道を守り、帰りの道をも守り導かれた神様の御手を覚えました。

そして、いまも礼拝者を求め招き導く神様は、今も変わらずに私たちの歩みをも導いてくださることを信じて感謝します。

🌟聖書
博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイの福音書 2章 9〜11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会