ケバル川のほとり日本でも

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ベタ踏み坂と水木しげる記念館から学んだこと

2024-06-22 19:14:08 | 日記

今日は、午後から下のチラシの写真にある「ベタ踏み坂(江島大橋)」に行ってみました。ダイハツタントのCMで利用された橋だそうです。

まず午前中は、今年の4月にリニューアルしていた「水木しげる記念館」に行き、水木しげるさんの生い立ちから戦争体験、そして幅員してから漫画家への道のり、そしてお亡くなりになられるまでの歩みを学ぶことが出来ました。

ねずみ男と砂かけババアとのツーショット写真も。誠に恥ずかしい限りですが、こんな時、いい年こいてもワクワクします……。

そして、毎朝私の仕事の安全の為にも祈ってくださっておられるご夫妻に近況のポストカードを。ポストカードの絵柄は妖怪道五十三次の日本橋でした。クリスチャンのご夫妻に妖怪道とは⁉ とも思いましたが、そんなに深く疑問視はされない! と信じて💦

鬼太郎カット、少し考えてみました。

近くの生コン屋さんまで!

そして午後からベタ踏み坂へ。中国地方も梅雨入りしたようですね。午後から雨も降ってきたのと、やはりスマホと、陸地からは思うような写真は撮れないようですね、けれど行って来れただけでも良かったです。

ベタ踏み坂は、現場に配達に来られる燃料屋さんに、1ヶ月ほど前から話を聞き、ようやく来れたので、車での走行はジエットコースターがまず高い所へ登って行く時のように、少しワクワクしました。🎢

 

鳥取県側から島根県側への下りでは勾配がきついので、ブレーキを踏みながら下りないと、直ぐに制限速度は軽くオーバーしてしまいます。

 

反対側、島根県側の橋のたもとには、江島大橋に関する説明看板があり、PCラーメン構造についての説明もあったので、PCラーメン構造がどんなものか、ようやく大まかには理解出来ました。また近くのファミマにも、江島大橋のチラシもあったので、ちょっとしたお勉強も出来ました。

PCラーメン構造の橋では日本一の長さのようですね。

最後に、そういえば水木しげるさんは、戦地で片腕を失った後、パプアニューギニアの現地の人と会う事を禁止されながらも何度も訪れ、そこの人々を「土と暮らす立派な人々」との意味合いで「土人」と呼んでいたそうです。

 

終戦後に国に帰るときも、土人の方々に残るよう言われ、本気で残る事も考えたそうですが、軍隊の方に相談すると、「そんな事を考えるのは何十万もいる軍人の中で、おまえ一人だけだ」のような事を言われ、とりあえず国に帰ることにしたそうです。

 

現地の親友には、「また七年後に来る」と伝えたそうですが、その約束が成し遂げられたのは二十年以上後になったそうです。

 

もう一つ、現地の人たちは、水木しげるさんのことをなぜだか「パウロ」と呼んでいたようです。

 

聖書とは全く関係ないかもしれないですが、水木しげるさんの現地の人達との、出会いと交流と別れから以下の御言葉を思い出しました。

 

明日は週の初めの日曜日、明日に備えて早く休もうと思います。

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使徒の働き 20:7-38 JCB‬

[7] 日曜日になって、私たちは聖餐式(パンと杯によりキリストの体と血の祝福にあずかる、キリスト教の礼典の一つ)のために集まり、パウロが説教しました。翌日には出発することになっていましたが、話は夜中まで続きました。 [8] 会場の三階の部屋には、たくさんのランプが、あかあかとともされていました。 [9] ところが、話がえんえんと続くので、窓ぎわに腰かけていたユテコという青年がぐっすり眠り込み、三階からまっさかさまに落ちてしまいました。人々が抱き起こした時は、もう死んでいました。 [10-12] パウロは下に降りて来て、彼を抱きかかえ、「心配するな。大丈夫だ」と言いました。すると驚いたことに、そのことばどおり、青年は生き返ったのです。人々の喜びはたいへんなものでした。一同はもう一度三階に上がり、聖餐式をしました。パウロはそのあとも長い時間説教し、夜明けごろ、ようやく出発しました。 [13] パウロは陸路でアソスに向かうつもりだったので、私たちは船で先に出発しました。 [14] そしてアソスで落ち合い、いっしょに船でミテレネまで行き、 [15] 翌日にはキヨスの沖を過ぎ、次の日サモスに寄港しました。その翌日にはミレトに着きました。  [16] パウロは、できれば五旬節の祭りまでにはエルサレムへ行こうと先を急いでいたので、エペソには立ち寄らないつもりでした。 [17] それで、ミレトに上陸すると、さっそくエペソ教会の長老たちに、船まで会いに来るようにとことづけました。 [18] 集まった長老たちに、パウロは語りました。「私が小アジヤに足を踏み入れて以来、どんなふうに生きてきたかは、よくご存じですね。 [19] 私は謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、神のために働いてきました。ユダヤ人には命をつけねらわれ、危険な目に会ったのも、一度や二度ではありません。 [20] それでも、ためらわず真理を語りました。個人的にばかりでなく、堂々と多くの人々の前でも。 [21] また、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、罪から離れ、主イエス・キリストを信じて神に立ち返るように勧めました。 [22] 今、聖霊が、どうにも逆らえない強い力で、私をエルサレムへ行かせるのです。そこで何が待ち受けているか見当もつきません。 [23] ただわかっているのは、行く先々の町で投獄と苦難が待っていると、聖霊が告げてくださったことだけです。 [24] しかし、主イエスがしなさいと言われた務めをやり遂げるためなら、こんな取るに足らぬ命でも、喜んで投げ出す覚悟はできています。その務めとは、神の恵みの福音を伝えることです。 [25] 皆さん。これまで何回か、あなたがたのところを訪問し、神の国のことを教えた私ですが、もう二度とお目にかかることもないでしょう。 [26] ですから、今ここで、はっきり宣言します。あなたがたがどんなさばきを受けることになろうと、私の責任ではありません。 [27] 私は、神のご計画全体を何もかも話しておいたからです。 [28] 注意しなさい。あなたがたは、神の羊たち〔神がキリストのいのちと引き替えに買い取った教会〕を養い育てる立場にあるのです。このことをしっかり肝に銘じておきなさい。いいですか、聖霊があなたがたに、監督者としての責任をお与えになったのです。 [29] 私が去ったあと、狂暴な狼のような偽教師たちが忍び込み、群れを荒らし回るでしょう。 [30] それだけではありません。あなたがたの中からも、弟子を自分の側に引き込みたいばかりに真理を曲げる者が出るでしょう。 [31] だから、よく見張っていなさい。私といっしょに過ごした三年間を忘れてはいけません。昼も夜も目を離さず、あなたがたのために流してきた私の涙を思い出してください。 [32] 私は今、あなたがたを、神とそのすばらしいみことばとにゆだねます。このみことばが、あなたがたの信仰を強くし、神のためにきよい者とされた人々が相続する恵みの財産を、あなたがたにも与えるのです。 [33] 私はお金やぜいたくな衣服をほしいと思ったことなど、ただの一度もありません。 [34] この両手が、どれだけ私自身の生活や、いっしょにいた人たちの必要のために働いてきたかは、よくご存じでしょう。 [35] また、貧しい人たちを助けることでも、常に良い手本となったつもりです。それは、『与えることは受けることよりも幸いである』という、主イエスのことばが、いつも頭にあったからです。」 [36] 語り終えると、パウロはひざまずき、エペソの長老たちのために祈りました。 [37] 人々は別れを惜しんで、一人一人パウロを抱きしめ、おいおい声をあげて泣きました。 [38] もう二度と会えないだろうと言ったパウロのことばに、胸も張り裂ける思いだったのです。それから一同は、パウロを船まで見送りました。

https://bible.com/bible/83/act.20.7-38.JCB

どこのキリストにある教会へ行っても、そこにおられる主にある兄弟姉妹と、主イエス・キリストにある恵みを分かち合えることは大きな喜びで

す。

 

 

 

 

 

 

 

 


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