ケバル川のほとり日本でも

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早天祈祷会最後の挨拶

2024-02-28 22:36:43 | 日記

 昨年の11月から参加させて頂くようになった、こちらの教会での早天祈祷会が今日で最後の参加になってしまいました。

 今日は今朝の早天祈祷会の様子、また礼拝のなかで証の機会が与えられましたので、それを再度まとめたものを、お分かち出来たら感謝です。

 まだまだ参加できると思っておりましたが、急な辞令により本日で最後となりました。これも神様の御手によることだと受け止めております。短い期間でしたが、神様は放送伝道の働きに長年携わってこられた教会に導いてくださったこと、そして私自身も共にお祈り出来たこと、三河地区での放送伝道の活動にも携わることが出来たことは感謝でした。

 また早天祈祷会では、遠く離れた私が参加するようになったので、これまで参加されていなかった方や、ズームで参加されていた方も教会に足を運んでくださるようになったことも感謝でした。

【今朝の様子】

 今日お別れの挨拶をしたら、早天祈祷会にも参加されるようになった方がとても寂しがっておられたので、私も悲しくなってきました。

 悲しいお別れにはしたくなかったので、私は来週からも放送伝道の為に共にお祈りしたいので、ズームで参加したい旨と、また仕事で近くに来た時には絶対に顔を出します! と言い、6名の方一人ひとりのお名前をお呼びして笑顔で挨拶をすることが出来ました。

 こんな短期間であっても主イエスにあって交流が与えられたことは本当に感謝でした。私自身早天祈祷会に参加するようになって励まされたこと、そして参加するようになってくださった方も、私ではなくイエス様が祈りの戦士として私たちを招いてくださったことによるのだ、と思っております。

 パウロさんがたびたび、私のことや私達のために祈ってください! と願っていたことや、イエス様が、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。と言われたことを思い出しました。祈ることによってイエス様の働きに共に参加していることを感じました。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

【救いの証、神様から与えられたビジョン、現在に至るまでの導き】

 救いの証 2024/2/11(日)

只今ご紹介に預かりました金憬晤です。

今日は礼拝の中で貴重なお時間を頂くことが赦され感謝します。

 

今から救いの証、次にその後に神様から頂いたビジョン、そして今日(こんにち)まで守り導いて来てくださった神様のご真実をお話し出来たら感謝です。

 

私は、この日本という国に外国人として生まれてきました。そして日本の社会のなかで在日であることの不都合さを知っていくにつれ、自分の本当の姿を隠していくようになっていきました。

 

一方、社会人としては暴走族として人様に迷惑をかけ、親に暴言を吐き、自分や周りを傷つけながら生きてきました。

 

そんな私でも、20歳の頃に初めて結婚を意識しはじめる女性との交際がありました。勇気を出して自分は日本人で無いことを告げました。相手の女性は全く関係がないかの如く受け止めてくれました。

 

しかし、私が原因で別れることになりました。

 

悲しみをなんとか誤魔化そうと、必死に働いたり笑顔を振りまいたりしましたが、心のなかは乾いていくばかりでした。

 

そんな時、当時働いていたトラックの中のラジオで、それまでは何が流れていたかも分かりませんでしたが、急に「信じる者は救われる」、という言葉だけがはっきりと私の耳に留まりました。よく、「一筋の光明が心に差し込んだ」などと言われますが、まさにそのようでした。番組を聞き終わった時には、私の真っ暗闇だった心に温かい灯りがともった感覚を今でも覚えております。

 

それから番組を聞くようになり、ある日「ダイジェストバイブル」という小冊子をプレゼントしてくれる案内があり葉書を出しました。

 

毎日プレゼントが届くのを心待にしましたが、自分が出した葉書がまた戻ってきました。葉書には「名古屋集中郵便局」の印鑑が押され、「この葉書はもう使用できません」と書かれていました。

 

諦めきれなかった私は、住所を目当てに「世の光センター」という所を訪ねました。そこは今私が通うことになる教会でしたが、どうしても入ることが出来ませんでした。玄関の前を行ったり来たりした挙げ句、もう帰ろうと諦めかけました。しかし、私に気がついてくださった方が声をかけてくださり、ようやく中に入ることが出来ました。

 

教会に入って簡単な挨拶を済ますと、その方は聖書の中心的なメッセージを話してくださり、祈りへと導いてくださいました。そして帰り際に「四つの法則(インターネットで閲覧可)」という、小さな冊子を手渡してくださいました。

 

私は何度もその冊子に目を通し、そこに書かれている祈りを、ご利益でも受けられるかの思いで、繰り返し祈り、いつしか祈りの言葉も完全に頭に入っておりました。

 

ある日、仕事で運転をしながら祈っていた時、イエス様の傷だらけになった姿がはっきりと私の頭に浮かびました。「イエス様の十字架は私の罪のためだったんだ」と知り、毎回唱えていただけのような祈りは、私の心からの祈りとなりました。

 

「主イエス様、私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死んでくださったことを感謝します。私は、今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の心の王座で、私の人生を導いてください。私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。アーメン。」

 

そして次に日曜日が休みとなった日に、初めて教会の礼拝に出席しました。私が今通う教会は60有余年が経ちますが、教会で一度だけ海外に研修旅行に行った事がありました。行き先は韓国で、教会から約10名の方が行かれたようです。そして皆さんが帰って来た最初の日曜日に、私は何も知らずに礼拝に参加しました。

 

牧師先生のメッセージは「十字架によって結合された交わり」と題して、日韓の過去の歴史や韓国研修旅行で受けた内容を中心に、エペソ人への手紙2章14~18節からのメッセージでした。

 

キムチがまだスーパーで売られてもいないような時代、私は日本の方が日韓の過去の歴史を悔やみつつ、キリストにあって一つとされていくことが可能である、という内容の話しを生まれて初めて耳にしました。

 

続いて、礼拝後の報告では2名の方が、韓国のクリスチャンとの交わりで受けた恵みを涙ながらに分かち合ってくださいました(内一人は私の妻です)。

 

私は、まるで新約聖書に登場してくるザアカイさんのような心境でした。礼拝が終わるや否や、我を忘れて写真を見せてもらいに駆け寄りました。

 

これまで自分を隠しながら生きてきましたが、神様の目には全く隠されてはおらず、私の全てが知られており、この日を選んで招かれているように思いました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

(伝道者の書 3章 11節 新改訳2017)

 

それから教会の方々に祈られながら、半年後に洗礼を受けました。そんな私でしたからクリスチャンとして洗礼を受けることは清水の舞台から飛び降りような思いでした。

 

はじめ暴走族からクリスチャンとしての生活には大きな不安がありましたが、神様の胸に飛び込んで本当に良かったと思います。

 

★私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

テモテへの手紙第二 2章 13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

★「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

(テモテへの手紙第一 1章15節)

 

それから1年くらい経った頃、神様から特別な使命が委ねられていることを知るようになっていきました。

 

その次第は次のようにでした。教会の祈祷会に、フィリピンに宣教師して派遣される女性の方が来られ、その使命のきっかけとなった聖書箇所を開いてお話ししてくださいました。エゼキエル2章、3章で、捕囚の地にいた預言者エゼキエルが、神様に背き続けている同胞の民へ神様の言葉を語るように、との命令でした。

 

なにげなく聖書を開いたら偶然同じ箇所を開くことが出来ました。

「おおっ!」と一人喜んでおりました。

 

しかし、そのメッセージが仕事中でも頭から離れなくなってしかたがありませんでした。「もしかしたら神様は私に対しても語りかけておられるのでは?」と考え始めました。

 

ある時、居ても立っても居られなくなり、吐き出すようにして祈りました。そして祈り終わると、聖書に挟んであったしおりに最初に目が行きました。(CLCのしおりだったかと思います。)

 

そこには次のように書いてありました。

「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、

みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。」(申命記 10章 17〜18節,新改訳©2003)

 

私は祈りによって神様からの使命を受けとめました。しかし、今日まで牧師や宣教師などのフルタイムでの働きの導きを感じたことは一度もありませんでした。

 

それゆえずっと気になってきたことが2つありました。

 

一つ目は、果たしてどのようにこの使命が展開していくのだろうか。在日コリアンへの伝道に召されているのならば、在日の集まるコミュニティーに出向いた方が良いのでは、とかも考え足を運んだりもしました。しかし、自ら出向いたとしても何ら進展はありませんでした。

 

ただ洗礼を授かった牧師先生から個人伝道の学びが受けられたことと、私が成すべきことは神様がエゼキエルに語っておられたように、「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル書 3章1節)という事だけでした。

 

まずは、日々神様のメッセージ(哀歌と、嘆きと、悲しみ)に耳を傾け続けることでした。

 

神様は不思議なことに、一信徒である私に今日までの30年間、両親や叔父や叔母をはじめとして家族・親族に福音を伝えるように遣わされ共に働いてくださいました。また人生の紆余曲折の中にあっても、神様としか思えない導きのなかで、同胞との出会いを与えてくださり、伝道の機会を常に与え続けてくださいました。

 

そのようにして、今日まで伝道の機会を与え続けてくださいました。

 

最後にもう一つ気になっていた事は、同胞への働きに召されているのなら、本名で生活したほうが良いのでは? と数年置きに真剣に考えては、やはり本名で生きていくことはリスクが大きく思え、いつも断念していました。

 

しかし、51才を過ぎてから約1年間行った大阪高槻市の現場で、本名で生きていきたいと決断する機会が与えられました。

 

同じ時期に現場に来られた一人の方に対し、少しだけでも親しくなり、応援したかっただけでしたが、結果はむしろ私の言動で相手を困らせ、悩ませてしまうことになってしまいました。社会的に後ろ指を指されるような事は何一つありませんでしたが、それでも「私はクリスチャンです」と公言しながら、自分の言動を全く制する事が出来ない惨めな姿を露呈してしまい、自分に失望していきました。

 

そんな時、インターネットで通勤中に聞いていた「世の光」のメッセージで、一人の若い女性が、「私たちの国籍は天にあります。」という聖書の言葉から、当日のメッセンジャーの先生に、「先生、わたし本名で生きていくことを決心しました!」といった出来事があったことをお話してくださいました。

 

その頃の聖書箇所の黙想から、今回は、神様も私の背中を押してくださっておられることを感じました。例えデメリットが多かったとしても、一人の在日コリアンとの出会いが与えられ、その方に福音を伝える事が出来れば本望だ、と思いました。また、高槻で本名を決心したことを人生の分岐点とし、残りの人生を天国をもっと見上げながら生きていきたいと願いました。

 

そして、家族にもその旨を告げ快く了承してもらい、2022年の5月から本名で働きはじめました。

 

それから、約一年半の間に、現場で3名の方々が、私のヘルメットの本名を見て、「私も在日です」と名乗り出てくださる方が与えられました。私にとってはとても嬉しいことです。そして今でもその方々と祈りつつ関わりが与えられております。

 

出会いと伝道のための門が新しく開かれたことを実感しております。

 

しかし、強い決心をしても、やはり弱さを覚える罪人です。残りの人生、まずは毎日神様を最優先にする生活に改善したい、こちらで持たれている早天祈祷会を機に、毎朝み言葉と祈りを最優先にした生活を志したいと、歩み出しております。

 

コロナ禍の影響で夜の祈祷会がお休になっていたことは、私にとっては良かったのかもしれないです。

 

その日の成すべきことを終えたら、いや早くやるべきことだけを片付け、その日の感謝と「主よ、あわれんでください」と反省をして早く床に就き、翌朝に「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と新しいスタートをして、一日一日を大切に歩んで行きたいと願わされております。

 

そのような機会と、実際に共に祈って頂ける励ましを、こちらの教会を通してお与えくださったことを心から感謝します。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

(マタイの福音書 6章 33〜34節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会)

 

そして、イエス・キリストとの出会いを通して、この日本に在日コリアンとして生まれてきたことの意味を与えてくださり、主を証しながらこの地上の生涯を天を見上げて歩むものとしてくださったことを感謝します。

 

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」』

(イザヤ書 6章 8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会)

 

これからも宜しくお願いします。

 

 今日もこちらのブログを訪問して最後まで読んでくださりありがとうございました。どうか皆さまの上に神様の祝福がありますように!

God bless you !


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