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神のことを思うのか、人のことを思うのか

2024-02-13 21:49:33 | 日記

 なかなか時間がとれなかったので久しぶりの投稿になります。それでも今日の仕事は遅くなりましたが、おかげでわりと山奥の現場なので綺麗な星空が見えました。現場を出た途端には流れ星も。昔は一瞬の間にお願いだなんて無理な話だと感じていましたが、よほどの思いがあったら瞬時に出てくるものかも!? なんてことを…。

 

【聖書日記】マタイの福音書17章1-13節

 昨日と今日の箇所で共通して思ったのは先の話ではないですが、普段何を思っているのかが瞬時に出てくるものかも、と思いました。

 昨日の箇所で一番弟子として描かれているペテロは、良い信仰告白をしてイエス様に誉められたと思ったら、すぐイエス様から「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱責されました。

 当然イエス様に嫌われてのことではないと思いますが、それぞれの思いにはまったく大きな隔たりがあっように思います。

 イエス様は昨日の箇所も今日の箇所でも、その思いはまっすぐに十字架への道に思いが向いていたのに対して、ペテロはまったくそれとは違います。それだからこそのイエス様の叱責だったのかなあとも思いました。

 誉められたと思ったら、そこまで言われたペテロの胸中はいかばかりかと思いました。生涯この時の出来事も忘れることはなかったのでは、と思います。

 今日の箇所で突然の体験の中で、驚きのあまり自分でも何を言っているのかが分からなくなったほどだったのだと思います。

 心に残ったのは昨日の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とのお言葉。神のことを思うか、人のことを思うか(自分のことも)。結局はこれが常に問われているように思いました…。

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"さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。

イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」

すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。"

マタイの福音書 16章 5〜7節

 

"さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。

彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。

その時からイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」"

マタイの福音書 16章 13〜28節

"それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」

すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」

イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。

しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」

そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。"

マタイの福音書 17章 1〜13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 


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