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天におられるのあなたがたの父のみこころ

2024-02-15 19:33:03 | 日記

 今日も山の中で工事用道路を作っております。午後からは雨でした。最近は寒さが少し緩み、道路は凍結しておらず、建設機械の窓ガラスには霜が付着していないので助かります。春もすぐそこまで来ているのを感じ始めています。

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【聖書日記】マタイの福音書18章1-14節

 今日の箇所は、“お弟子さんたちがイエス様のところに来て言った” という話題から始まります。何を言ったかというと、イエス様が度々口にされてきた「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」ということでした。

 マルコの福音書やルカの福音書も並行して読むと、どうもいよいよ自分達が待望していた神の国が近づいて来ていると思って、誰が偉いのか、イエス様の右側と左側に座ることが出来るのは誰かということに関心があったようです。自分達が待望していたと言っても、それはローマ帝国からの解放とか、ダビデやソロモン王時代の繁栄を夢見てのことみたいです。(使徒の働き1:6)

 そんな誰が一番偉いかで議論が白熱している弟子たちに対して、「イエス様は一人の幼子を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」と、またマルコの福音書では「腕に抱いて彼らに言われた」とあります。弟子たちにとって、当時女性や子供は見下げられがちだった社会では、まさかの教材になったのだと思います。

 そして、「向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国には入れません。ですから、誰でもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と回答されました。

 子どもだから無条件で天国に入れる、ということではなく、悔い改めて生き方を天の御国に向かって方向転換することだと思います。それは、ある時イエス様の所に夜こっそり訪れたユダヤ人の有力な議員だった、ニコデモさんとの会話でも分かります。イエス様は、神様によって、天からのお取り扱いによって新しく生まれることを教えられました。それによって幼子や老人の区別はなく御霊と真理によって父を礼拝することが可能になるのだと思います。(ヨハネの福音書4:23,24)(使徒の働き2:18)

 話しはそれてしまった感がありますが、続いてイエス様は「それから、このような子どの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」と言われ、悔い改めてイエス様を信じた小さい者たちの一人をつまずかせる者はわざわいです。と詳しく説明と例えを通して教えられ、悔い改めて生き方を方向転換したどんな人でも、滅びることは父のみこころではありません。と話を結ばれました。

 先日もこのブログに書きましたが、お弟子さんたちや、また私もしかりですが、その思いは神様のことを思わないで、人のことを、自分のことを思うので占められていたのだと思います。

 しかし、イエス様から聞いていた通り、イエス様の十字架を目の前で体験して、イエス様が言われていた通りにイエス様の復活を知って、そして旧約聖書から約束されてきていた通りに御霊を受けたことによって初めて神様を見上げながら生きていくことが可能になったのだと思います。

★"そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」"(使徒の働き2章38-39節)

 そしてあのような弟子たちは、神様のお照り扱いによって、神様に、小さな者の集まりである教会に、人々に仕える者へと変えられて行ったようです。

 ここに、いつまでも経ってもどこまでいっても自己中な私にも、神様にあって大きな希望のメッセージがあります。

★"一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」"
マルコの福音書 9章 33〜37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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【本日の聖書箇所】

"そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。
あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
※後代の写本に十一節として〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕を加えるものもある
あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。"
マタイの福音書 18章 1〜14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


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