唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

ノーベル賞,文化勲章,文化功労者

2021-10-27 | 日記

ノーベル賞で「日本人」受賞者が出たときの報道のバカバカしさにはいつも辟易していますが,今年(の物理学賞)は日本国籍を離脱した人物だったので,若干のおもしろい場面も見ることができました.首相の岸田が「日本にとっても大きな誇り」といったそうです.

今年のノーベル賞はこのように比較的には静かに過ぎましたが,そのあとの文化勲章,文化功労者の選抜に関しては,いつも通りのバカバカしさに接することとなりました.

ここに掲載するのは,物理学者の社会的責任サーキュラー『科学・社会・人間』115号,2011年1月25日に掲載されたものです.

 

    *

ノーベル賞!

唐木田健一

 

 これまでは,あまりにバカバカしいこととして「蔑して」遠ざけてきたが,このところ少々私の気分が変化してきたので,ここに論じてみたい.いわゆる《権威ある賞》についてである.

 最近,日本人2名がノーベル化学賞を受けた.今回私は,テレビの報道番組などで関連の話題が出たときは,「蔑遠」することなく,しっかりと視ることにした.その結果あらためて確認したのは,人々は《偉業》を讃えているが,その《偉業》とは「ノーベル賞の受賞」ということなのであった.これは「ノーベル賞騒ぎ」の本質をよく表している.

 偉業なるものが仮に存在するとしたら,(今回の場合)数十年前になされた研究がそれにあたるはずである.しかし事態は逆転している.その研究成果は,受賞によって偉業へと昇格したのだ.これはおかしなことである.何年か前,日本の会社員がノーベル化学賞を受けたことがあったが,そのとき受賞者は「ノーベル賞に決まったからといって私の能力が上がったわけではない」という趣旨を発言していたと記憶する.これは上述のおかしさに通じるものである.

 国際的な運動競技大会でのメダル騒動もノーベル賞騒ぎ同様バカバカしいものである.しかし,こちらのほうは,その大会での実績とメダル獲得とは直結している.ノーベル賞の場合のような乖離はない.ノーベル賞では,まずは御当選が偉業なのであり,めでたいのである.

 化学でも,物理学・医学においても,その中のさらにそれぞれの分野の専門家に「現在生存している研究者の業績で,世界的な評価に値するもの」をリストしてくれるよう依頼したら,(「いくらでも」というのは大げさと言われるかも知れないが)いくつも挙げてくれるであろう.各専門分野において(ノーベル賞候補程度の)よい仕事など,めずらしいものではない.とくに最近では,あとになってたまたまその関連分野が世界的流行になったとか,受賞者とは関わりのないところで有力な用途が見出されたといったことが受賞のきっかけになっていることもある.

 「ノーベル賞の自然科学部門では(いくつかの例外は別として)概ね妥当な人が受賞している」としてノーベル賞を擁護する人もいる.しかし,そんなことは当然で,世界中には「妥当な人」が多数存在し,その中から受賞者が選ばれたということに過ぎない.だからこそ御当選がめでたいのである.そして当選者を選ぶのは,北欧の王国のアカデミーや研究所である.

 ノーベル賞の選考過程は秘密ということになっているが,当選のための運動や働きかけ(あるいは当選させないための運動や働きかけ―これは最近の中国政府のような開けっ広げのものをいっているのではない)が相当な影響力をもっているらしいことはよく知られている.今回もノーベル賞をめざして北大が組織的に国際的な広報活動をしたことが,肯定的に報道されている.

 受賞者本人やその血縁・地縁関係者・同窓生が当選を喜び,また商売第一のマスコミが仰々しく騒ぎ立てても,私としてとくにミズをさす気はない.しかし,多数のすぐれた業績を知る学会では,このような賞に対し(私のように「蔑遠」する必要はないのかも知れないが),少なくとももっと距離を置いたほうがよい.そうでなければ,すぐれた業績を有する多くの人たちに対して失礼(不公正・不公平)である.レッキとした研究者が,当選者を当選者ということでありがたがっているようでは,学者としての資質が疑われる.

 ノーベル賞は,平和賞(や文学賞)をみれば露骨に明らかなように,その運営団体の強力な自己主張の行為である.この自己主張に費やされている莫大な費用は,(よくは知らないが)企業経営者アルフレッド・ノーベルの遺した私財がもとになっているのであろうから,自己主張の中身はともかく,自己主張の行為そのものは私が口出しすべきことではない.最近ではノーベル財団のほかに,スウェーデン国立銀行が関与しているらしい(経済学賞)が,いずれにしても私とは関わりがない.他方,同様な自己主張の行為に,私の支払う税金が関与するとなれば話は違ってくる.たとえば,日本の文化功労者や文化勲章である.

 ノーベル賞についてすでに述べたので,文化功労者や文化勲章受章者の選択に関するバカバカしさにはもう触れない.ここでは金(カネ)のことだけ問題としたい.文化功労者や文化勲章受章者はほとんど,(本人の《主観的》評価は別として)恵まれた社会的地位あるいは境遇にある人たちである.また,当選対象となった業績は,その地位あるいは境遇における業務としてなされたものである.さらに,これらの人々はすでに,経済的にも恵まれていると推定される.ところが,文化功労者およびその中から選ばれる文化勲章受章者には,350万円の年金が支払われるとのことである.これは大金である.

 日本現代史研究で貴重な仕事をした友人が先ごろ亡くなった.65歳だった.ある追悼文では,「市井の研究者がひっそりと亡くなった」と表現されている.私が知り合いになったのは比較的に最近のことであるが,そのときすでに彼は厳しい闘病中で,同時に積極的な研究活動を継続していた.生計を立てるための仕事(研究ではない!)が病気のため不可能となり,生活保護を受けているとのことであった.彼がもっと長生きしていたら,文化功労者や文化勲章受章者になっていたであろうか.彼自身も,また彼の友人たちも,そんなことは思いもしなかったであろう.それはもちろん,彼の友人や彼自身が,彼の仕事を低く評価していたからではない.文化功労者や文化勲章受章者とはどんなものか,みんなよく知っていたということに過ぎない.こんな顕彰制度は,何もかも恵まれた人に対する政府によるバラマキとして,即刻廃止すべきであると思う.こんな制度は,すぐれた業績を有する多くの人たちに対して失礼である.

 それにしても,ノーベル賞などというバカバカしいことひとつとっても,我が師ジャン=ポール・サルトルは立派であった.彼がノーベル賞を拒否したのは,1964年10月のことであった.

 ついでに付け加えておけば,その翌月に日本の首相に就任した佐藤栄作は長く政権を担当し,退任後の74年にはノーベル平和賞に《輝いた》.

(2010年10月27日)