唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

ジェーン・オースチン『自負と偏見』と資本主義の倫理

2021-09-15 | 日記

この文章は2001年4月に作成したものですが,ごく私的な場面を除いて,これまで未公開でした.ここに初めて発表します.

唐木田健一

 

資本主義の倫理

 さきの新聞紙上での論説で岩井克人氏(以下,敬称略)は,資本主義の「論理」を「売れなければならない」と規定し,それに対する資本主義の「倫理」として「売れればよいというものではない」という議論を展開した[1].もちろん,「売れればよいというものではない」というのは決して目新しい主張ではない.しかし,日々「売れなければならない」という脅迫のなかにいて,それを不快・苦痛に感じていた私にとってはきわめて新鮮であり,なぜか突然イエスの「山上の垂訓」を思い起こしたほどであった[2]

 これに関連して,岩井が言及したのは,ジェーン・オースチンの小説『自負と偏見』である[3].岩井によれば,この小説は,「売れなければならない」という“結婚市場の中で,さまざまな娘たちがそれぞれどのように自分たちを「売って」いくかを描いた”ものである.「女主人公」の名はエリザベス・ベネットといって,彼女は「売れなければならない」自分を「売らない」ということで,最後には,“古い家柄と大きな財産と優れた容姿をもつまさに最高の結婚相手”であるミスター・ダーシーと結ばれるというのである.私にとってオースチンは,漱石の『文学論』[4]で,かすかではあるが肯定的な記憶がある.私はますます,岩井の論法にひかれた.

 ところで,エリザベスが最初に拒否するのはコリンズ牧師からの求婚である.そして,岩井によれば,

俗物中の俗物でありながら,大きな財産があるわけでもないコリンズ牧師─彼の求婚を断るのは当然の決断です.彼との結婚は,売れ残りにならないための代償としてはあまりにも大きすぎます.

ここで,私はよくわからなくなってきた.これは,「売らない」ということではなく,要するに,単に「安売りはしない」ということではないのか.「安売りはしない」ということなら,資本主義においてごくありきたりな「論理」であり,手管である.そんなものなら「倫理」の名に値しない.私はともかく,オースチンを読まなければと思った.

『自負と偏見』を読む

 さまざまな事情で,読み始めるまでにはだいぶ時間がかかったが,以降は大変軽快かつ面白く読了することができた.結果として,私の結論は明確となった.『自負と偏見』の世界を岩井の論法にあてはめるなら,「売れなければならない」という論理における倫理は,「売ってはならない」である.これを仮に資本主義にあてはめれば,資本主義社会の倫理は,資本主義を否定することである.「売れればよいというものではない」などといった気楽でありきたりなものではない.

 岩井は,新聞紙上では「東大教授」としかなかったが,彼と柄谷行人との対談の記憶をたどれば,確か経済学者のはずである.世の経済がこれほど人々を圧迫し,不安に落とし入れ,またさまざまな文物を破壊しつつあるとき,「経済学者がこんな能天気な主張をばらまいていていいのか!」というのが,私が岩井を通じてオースチンから学んだ結論であった.

 また,実際に『自負と偏見』を読んでみて,岩井の論説のなかには看過しがたい部分がいくつか存在することに気がついた.たとえば,上に引用した部分である.“・・・・・.彼との結婚は,売れ残りにならないための代償としてはあまりに大きすぎます”とあれば,主人公エリザベスがそのような《計算》を行ったか,あるいは作中でそのように扱われていたかのような印象を与える.作中では,たとえばミセス・ベネット(エリザベスの母親)の見解によれば,コリンズとの結婚は,明らかに財産上の利益をもたらすものであった.また,コリンズにもその自信があったからこそ,ベネット家を訪問したのであった.一方,エリザベス自身はといえば,そのような《計算》とは全く無縁なのであって,彼女がコリンズを拒否したのは,彼がどうしようもない「俗物」で「バカ」だったからである.

 あるいは,岩井は,エリザベスがダーシーとの結婚を断ったのは,“「売れなければならない」娘ならば誰しも狂喜して自分を「売る」だろう.彼がそう決めてかかっているがゆえ”であるとしているが,これも全く正しくない.確かに,ダーシーに求婚されている最中,エリザベスは彼が「絶対成功に自信をもっているらしい様子」を「一目で見てと」って,怒りをあおられてはいるが,それが拒絶の理由などではない.彼女は,そんなこと以前に彼が嫌いだったのであり,それは彼の「社交上の振舞い」の問題もあるが,それ以上に,彼女の側に彼に対する大きな誤解があったからである.物語は,その誤解を解いていくプロセスを軸に展開するのである.

 何かいろいろな《計算》をしているのはエリザベスではない.岩井自身である.私には,彼の読み方が,きわめて《資本主義的》であるようにみえる.

引用の問題

 岩井はこの作が,“長い間「女性向け」の娯楽小説として軽んじられてき”たという.そして,その文脈のなかで引用するのが,新潮社文庫版(脚注3)における「解説」である.岩井は名をあげていないが,解説はこの版の訳者である中野好夫氏によるものである.

「彼女の小説は人をたのしませる文学であって,人生いかに生くべきかだとか,人間心理の深淵を探るとかいった深刻な問題と対決した文学ではない.そういう意味では『偉大』な文学ではなかったかもしれぬ.」

 この新潮社版の「解説」が書かれてから四十年.今,『高慢と偏見』が「偉大」な世界文学の一つであることを否定する人は少数でしょう.

これでは,「解説」の著者が,この小説の偉大さを否定したかのごとくである.

 ここに引用されている中野好夫の文章は,実際は,次のような構造の一部なのである.すなわち,中野はオースチン文学の魅力をさまざま語ったあと,「もっともこう言ったからといって,オースチン文学が完全無欠などと言っているのではない.」として,上に岩井が引用した部分を書いた.そして,中野はさらに文章を続け,「だが,忘れてならないことは,オースチンの書いていたころは,近代小説というものが生まれて,まだせいぜい半世紀とちょっとしか経っていない時で,そのころの小説は,大きく言ってすべて娯楽文学だったのである.(後略)」として,上の仮想的な《貶め》からオースチンを擁護しているのである.

 繰り返すと,上に岩井が引用した文章は,それを挟んでいる「もっともこう言ったからといって,・・・・・」と「だが,・・・・・」が消されてしまっているのである.中野は上の文章を自ら否定するために書いたのであり,岩井はその部分だけを切り出し,解説者・中野の意見であるかのように提示したのである.このような引用の仕方は,ある種の世界では,通例のこととして珍しくはないのかも知れないが,それにしてもここで出会うとは私には大変な驚きである.

「女性向け」

 先に触れたが,岩井はこの小説が「女性向け」である(として軽んじられてきた)ことをしきりと強調する.私には知識がないので,これについて立ち入った議論をする気はないが,「四十年」前の中野においても,100年前の漱石(脚注4)においても,そんな扱いの気配はまるでない.また,中野によれば,オースチンの当時の《摂政殿下》(のちのジョージ四世)も彼女の愛読者だったということである.だから私は,岩井が何ゆえこの小説の「女性性」に触れ,同時にそれに対応して彼がこの小説への共感を表明するに,“私のような男性までもが”とか“私のような男性の読者も”といってことさらに「性」の問題に言及する理由がまるで理解できない.岩井は何か根本的な思い違いをしているのではないか.私には岩井教授とコリンズ牧師のイメージが何故かダブってくるように感じられ,大いに困惑する.

                                                                  (2001.04.22)


[1] 岩井克人「小説『高慢と偏見』」朝日新聞「思潮21」2001年2月2日夕刊.

[2] 私は以前,荒井献の分析にもとづいて,イエスの「山上の垂訓」における逆説を考察したことがある.唐木田『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),5章.

[3] 私は,中野好夫訳『自負と偏見』新潮社文庫(1997)を参照した.岩井もこの版の「解説」に言及している.なお,岩井は,この本の表題を,“『自負と偏見』とも訳され”るとしながら,一貫して『高慢と偏見』と表現している.

[4] 夏目漱石『文学論(二)』講談社学術文庫,217-230ページ(1979).漱石の「序」の日付は明治39年(1906年)11月である.