「コンプライアンス(compliance)」ということがいわれ始めてすでに久しい.多くの組織では「行動規範」(あるいはその類似物)が制定され,さらには関連する諸規定の制定・整備がなされているようです.また,それと並行して,各種専門職の団体が会員に向けての「倫理規範」を定め,公表しています.しかしながら,いまだ《不祥事》はあとを絶たない―どころか,これまで比較的には堅実と思われてきた伝統ある企業の製造現場においても長期にわたる不正が明らかにされています.さらに国会では,首相の非行を糊塗するために,「高給」官僚が虚偽答弁を繰り返し,また証拠となるドキュメントが公然と隠蔽・改竄・廃棄されるという事態に至っています.これは,コンプライアンスや倫理規範のさらなる教育と徹底が求められているということなのでしょうか.
いま規範といわれているものはルールです.たとえば,(化学者は)「論文に記載するデータの偽造,ねつ造や他の著者の文献からの盗用を行ってはならない」といったものの集合です.組織の中でこれに反対する人はいないでしょう.また,単に「反対ではない」というだけでなく,そんなことは教えられるまでもなく,もとより承知していることです.だから,本質的な問題は,ルールを制定したり,それを教育することではない.確かに,ルールを制定しておけば,その違反者を躊躇なく処分できるというメリットはあります.しかし,倫理規範にどのように規定されていようがいなかろうが,科学者や技術者の学会において,ある会員の発表したデータが偽造や盗用であることが認定されたとすれば,それ自体が最高の処罰であるはずです.しかし現在の諸学会では,そのようなことは《注意深く》避けられています.
また現在の社会ではおどろくほど相対主義が浸透しています.そのため,刑事事件となって逮捕でもされれば別でしょうが,そうでなければ自己を含め「各人は各人の利害に沿って振る舞うもの」との悟り風態度で,相当な非行にも目をつぶってしまう人が少なくありません.これが不祥事と呼ばれる犯罪の再生産を加速します.あるいは,社会的に意見の対立が存在する場合,《絶対的》価値基準が存在しないという理由でその対立を調停不可能とみなし,そこから身を遠ざける人も少なくありません.この行為は現に力の強い側に有利に作用します.
したがって,必要なのは,共通の価値基準が存在しない場合いかに判断すべきかの方法であり、従来の倫理教育および管理者教育にはこれが決定的に欠落していたのです.これは,仮に古典的な概念と用語を採用するなら,「何が善か」を追求するための方法であり,これが本書の全体において提起されるものです.あらかじめお断りしておけば,これは相対主義に対して絶対主義をもち出すものではなく,逆にいわば,相対主義を徹底するものです.
現状では,行動規範や倫理規範を制定する側は,ある種の社会的体裁を整えることが主たる目的となってしまっているようにみえます.たとえば,諸学会共催のシンポジウム「科学者・技術者の倫理と社会的責任を考える」(2005年3月28日)の広報パンフレットには,「科学者・技術者のコミュニティである学協会は,・・・・・『行動規範』『科学者・技術者倫理』の確立が社会から受容される必要条件になっている」〔「・・・・・」は引用者による省略〕と書かれています.すなわち,規範や指針の制定の動機が内発的なものというより,「社会的ニーズ」(!)にあったことが率直に吐露されています.このことは,学会のみでなく,科学者や技術者が勤務する諸組織においても同様です.コンプライアンス研修や倫理教育を受ける側の多くにとって,それは単に受講実績を得るための義務的手段であるかのようです.このようなおざなりな現状を根本的に変えない限り,事態はますます悪化するばかりです.
本書〔「目次」〕が提起する方法は,組織の中で仕事をする専門職および指導者・管理者に対し,価値に関わる問題を評価するための明確なガイドを提供します.そしてこの方法は,実は,科学や技術分野におけるさまざまな探究活動においてブレークスルーbreakthroughを見出すための方法でもある[1]のです.
本書では,「倫理」は人間関係(「倫」)におけるコトワリ(「理」)という意味で使用されます.すなわちそれはコトワリ(倫「理」)なのであって,著者のいわゆる「広義の理論研究」[2]の一環を構成します.
[1] 唐木田健一『理論の創造と創造の理論』朝倉書店(1995),『アインシュタインの物理学革命―理論はいかにして生まれたのか』日本評論社(2018).
[2] 唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ―知の総合と生命』ボイジャー・プレス(2018),「はじめに」.