理論
私は以前より,理論および思想の生成・変化の機構,あるいは理論および思想の成立根拠に関心をもっています.ここでいう「理論」とは,直接的には価値に関わらぬものであり,たとえば自然科学の理論などがこれに分類されます.他方「思想」は,一般に価値に関わるものです.理論と思想にはこのような違いはありますが,私の着目するのは両者に共通した形式であり,したがってそれらをともに広義の理論として扱っています.
理論とは,そんなあらたまったものばかりではありません.ある特定の問題について表明された意見も,私のいわゆる理論に属します.いかなる意見にもその理=由,すなわち由(よ)って立つ「理」があるのであり,それは「理」論的考察の対象になりうるのです.
首尾一貫性
このような「理論研究」において私が見出したことの一つは,理論を構築および評価するうえでの首尾一貫性の重要性です.首尾一貫性は,論理的整合性といい換えることができるものです.しかし,そうであるとするなら,その重要性は,あえていうまでもなく,むかしからよく知られていることではないのか.生徒・児童に対しても,主張が論理的であること,首尾一貫していなければならないことは,折に触れ指導がなされているでしょう.また,それは確かに重要ではあるが,いわば必要条件に過ぎないのではないか.―このような意見が聞こえてきそうな気がしますが,私の考えはそれらとは異なります.私は,首尾一貫性は,理論の正しさの本質であり,そのすべてであると主張しているのです.
首尾一貫性は単なる必要条件に過ぎないという考えは,理論を評価するための客観的基準が(理論外部に)存在するということを前提にしています.しかし,実際,そのようなものは存在するのでしょうか.価値に関わる理論について,かつては基準として《普遍的正義》なるものの存在が想定されることもありました.しかしいまでは,そのようなものはほとんど信じられていない.あるいは,信じられているにしても,それが通用するのは仲間内だけのことでしょう.こうして,価値に関わる理論の世界は,相対主義的傾向を強めているのです.
これに対し,直接的には価値に関わらぬ理論,たとえば自然科学の理論などは,それを評価するための客観的基準が,明らかに存在するようにみえます.たとえば理論は,実験や観察の結果,すなわち事実と一致することが一つの基準と考えられます.一般に理論は,(数学などを別とすれば)諸事実から構成されるものであり,その意味で事実との一致は重要です.しかしそれは,いわば理論内部から要求されることです.これに対し,事実との一致が理論に外部から課せられる基準であるとすれば,事情はまったく異なります.理論と実験結果が一致しないといっても,実験が誤っているのかも知れない(実によくあることです).また,実験は正しいのであるが,理論をその実験結果へと応用するだけの知識に欠ける,すなわち不一致は単に見かけに過ぎない場合もあります.
あるいは,単純性の要求などという基準がもち出されることもあります.それは,より少数の前提からより多くの独立な事実を説明する理論のほうが優れるというものです.二つの対立する理論の間の争いが決着したあと,正しい理論はどういう意味で単純であるのかを説明できる場合もあります.しかし,二つの(あるいは多数の)理論がその正しさを争っているその場において,単純性の要求によりその争いを裁定することなどは不可能です.たとえば,すでによく知られていることですが,地動説が提起された当時,単純性(および観測との一致)という基準においては,プトレマイオス天動説もコペルニクス地動説もほとんど同等でした.
理論の外部には理論を評価できる客観的基準など存在しない.評価可能なのは,理論がその内部において,諸事実および諸概念を,いかに首尾一貫して統合しているかという点のみなのです.
理論革命
さて,ここにおいて,何らかのきっかけによって首尾一貫性に破たんが生じ,理論内部に矛盾の発生することがあります.きっかけとは,理論内部への新しい事実の取り込みや,既存の理論間の統合などです.理論内部の矛盾は,その理論にコミットした人々にとって,深刻な問題です.そして,本質的な矛盾は,それを解決しようと努力すればするほど顕在化してくるという性質をもっています.それが理論変化の原動力となるのであり,この矛盾ののりこえが,いわゆる理論(科学)革命なのです.20世紀の第一・四半期における物理学革命は,このようにして起こりました.これにより,相対性理論および量子力学という新しい理論が誕生しました.
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柴谷の構造主義生物学
この私の理論研究に新たな展開のきっかけを与えたのは,生物学者・柴谷篤弘の問題提起でした〔『構造主義生物学』東京大学出版会(1999)〕.こちらは,1953年のDNA構造決定を契機とする分子生物学(→ゲノム科学)の進展に関わります.柴谷は,生物における「主体」として,さまざまな「論理回路」あるいは「構造」と呼ばれるものが存在し,それらが巧妙な首尾一貫性を示すことを論じました.「構造」とは諸要素の間の密接な関係を規定する枠組みのことです.そして,「構造」を構成する諸要素としては,遺伝子やその産物であるタンパク質,さらには細胞内のさまざまな化学成分などがあります.
私にとってとくに興味深かったのは,柴谷が記述する進化の機構です.柴谷によれば,ある生物が特定の種に属することを規定しているのは,その「構造」です.したがって,進化における新しい種の発生は,新しい「構造」の発生です.新しい「構造」は既存の「構造」をベースに生成すると考えられます.しかしながら,「構造」の拘束は強く,諸要素のそこからの逸脱は,ほとんどの場合,致死的です.変化は,あったとしても,ごく局所的なものでしょう.このことは,新しい「構造」の生成が,きわめてまれな事象であることを意味しています.
新しい「構造」は,既存の「構造」にとってまったく未知であった要素が新たに取り入れられ,それによって新たな「論理回路」が形成されることによって出現すると考えられます.ここで,未知の要素を取り入れる例として柴谷があげたのは,細胞内での遺伝子の組み換え,通常は使用されていないようにみえる遺伝子の取り込み,細胞外からの新しい物質成分の獲得,他細胞との融合による諸成分の共有,等です.新たに形成された「論理回路」は,内的な一貫性を獲得し(すなわち,「内部選抜」を通過し),さらに外部の「自然選抜(natural selection)」を切り抜ければ,まずは出発が可能です.これが新しい種の生成です.ここには,生物における首尾一貫性追求の作用がみられます.
新しい生命論
私は,理論変化の機構と,柴谷の記述する生物進化の機構との並行性に着目しました.これにもとづけば,旧来の「目的論」や「機械論」を越えた生命論が展開可能です.新しい理論および新しい種は,既存の理論および既存の種からの,いわば論理的な飛躍によって生成する.それは試行錯誤の運動であり,その方向を導くものは何もないし(「目的論」の否定),また因果関係も存在しない(「機械論」の否定)〔唐木田健一『生命論』批評社(2007)〕.
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「歴代」の哲学者たちが明らかにしたもの
以上を背景として,「歴代」の哲学者たち(ヒューム,カント,ヘーゲル,フッサール,ニーチェ=ハイデッガー,フロイト,Mポラニー,サルトル)の著作を眺めれば,次の諸点が浮かび上がってくるのがわかります:
・人間の認識および実践の中心には,首尾一貫性(多様の総合的統一)を追求する作用がある.
・その作用における判断の根拠はその作用自身である.
・首尾一貫性追求の作用は生物の各レベル(分子のレベル,細胞のレベル,組織のレベル,器官のレベル,個体のレベル,さらには「社会」のレベル)にも存在し,それは生物の本質をなす.人間の認識および実践における首尾一貫性追求の作用は,その一環に過ぎない.
また哲学は,歴史を通じて,飛躍を伴いつつ蓄積的に進展していることも理解できます.
〔以上は,唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ―知の総合と生命』の「はじめに」にもとづく〕
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