唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

「事実の理論依存性theory-ladenness」なる考えについて.その混乱と危うさ

2023-01-04 | 日記

 《科学哲学》という分野には「事実の理論依存性」なる考えがあります.これは「データ(あるいは観察)の理論負荷性theory-ladenness」などと呼ばれることもあります.その内容を簡単に要約すれば,事実(あるいはデータ)[1]は観察する側の理論(一般には思考の枠組み)に依存していると主張するものです.これにより,いわゆる科学論分野では,さまざまな混乱が生じました.

 事実が理論に依存するのであれば,事実は理論に対して中立ではありません.したがって,対立する複数の理論があった場合,事実にもとづいては,それら理論間の裁定はできないということになります.また,科学は歴史的に,理論が変化することによって説明可能な事実が増大し,蓄積的に進歩してきたと考えられていました.しかし,事実が理論に依存するのであれば,理論の変化によって事実の蓄積性は成立しないということになります.こうして,「理論の正しさ」および「科学の進歩」という考えに疑問が付せられたのです.また関連して,「通約(共約)不可能性incommensurability」などという考えも生じてきました.すなわち,対立する理論間は言葉が通じ合わず,その優劣の判定はできないということです.これにより,たとえば「相対性理論はニュートン力学より優れるのかどうか」などという素朴な問いが,あいまいさのうちに,あたかも無意味な議論であるかのように扱われました.

 この「事実の理論依存性」という考えを,ある文献[2]にもとづいて,少し具体的に紹介してみましょう.十八世紀のヨーロッパでは,燃焼に関するフロギストン理論という説が流行しました.この理論によれば,物が燃えるということは,その物の中に含まれる燃焼物質(フロギストン)が離脱することです.そこで,錆びた金属〔これも燃焼の結果と認められていました〕は,フロギストンが離脱したものと考えられます.それでは,錆びた金属と錆びる前の金属とではどちらが重いのでしょうか[3].現在の私たちにとって,燃焼とは酸化現象ですから,空中の酸素と化合して錆びた金属は,錆びる前よりも重いと考えられます.実際,錆びた金属のほうが重いという報告は,フロギストン理論より以前から存在しました.これはフロギストン理論を決定的に反証する「事実」のように思われます.しかしそれは,現在の私たちが酸化理論を共有しているためです.他方,フロギストン理論を共有する人々は,その「事実」を次のように見ていました.すなわち,フロギストンは「軽さ」(負の質量)をもっている.錆びた金属ではそれが離脱したので重くなったのである.――現在の私たちにとってはこじつけとしか思えないこの説明は,「フロギストン理論を共有する共同体のなかでは充分説得的であり,かつ客観的であったのです」.

 以上が,引用した文献の著者による「事実の理論依存性」に関する説明です.ここには基本的な混乱があります.「事実の解釈」が「事実」と混同されているのです.「事実」と「事実の解釈」は当然区別されるべきものです.そして,「事実の解釈」が理論に依存することなど,敢えて説明をする必要もない論理的に自明のことです.それでは燃焼に関わる「事実」とは何か.それは「金属は錆びると質量が増加する」ということです.この事実は,フロギストン理論においても酸化理論においても変わりありません.変わるのはその解釈なのです.事実は理論に依存しません.あるいは,逆に表現すると,理論に依存しないのが事実なのです

 一例をあげましょう.光電効果の実験結果(事実)は量子力学の確立するはるか以前に古典物理学の枠内で確立され,かつ解釈が困難な現象として知られていました.この実験結果が,アインシュタインの光量子仮説を通じて,量子力学の確立へと結びついたのです.量子力学においても光電効果の事実には何ら変わりはありません.ただその現象の解釈が可能になったというだけです.

     *

 以前に発表した私の論文[4]では,測定には理論が関わっているということを述べました[5].それは,測定対象である物理量の意味は,理論的に定義されるということの指摘です.ここで仮にその理論的枠組みに変化が生じたとしても,測定された量は新しい理論的枠組みにおいてデータとして評価することが可能です.さかのぼって考えてみれば,ニュートン力学の枠内で測定された距離や時間は,現在の私たちにとっても,データとしてそのままの意味をもっています.実際,現在においても,距離や時間に関する日常のほとんどの測定は,ニュートン力学の枠内で行われています.これらのデータを現在の理論的枠組みで評価したいのであれば,相対性理論にもとづいて,その測定の含む系統誤差の評価をすることになります.ただし,その大きさは,もとの測定値に与えられた/想定された誤差に比して,無視できるでしょう.

 私はまた同じ論文において,事実の発見には理論あるいは先入観が重要な作用をすることがあることを述べました[6].これは事実の発見に際して重要であるということであって,発見された事実がその後の理論によって変化するということではありません.たとえば,ケプラーは正多面体による宇宙の調和というすさまじい《先入観》から出発しましたが,彼の発見した諸法則は,ニュートン理論においても,さらには現代においても,法則(事実)として何ら変わらぬ意義を有しているのです.

 なお,科学理論の変化における断絶と進歩についての私の見解は,たとえば本ブログ記事「An Answer to Prof. S. Watanabe’s Paper titled “Needed: A Historico-Dynamical View of Theory Change”」およびその日本語版「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」に発表しています[7]

☆2023年10月追記:「事実」についての関連記事としては,本ブログ「学生・久能整君および弁護士・深山大翔君への連帯を表明する」参照.

唐木田健一


[1] 私は理論に関わる事実を「データ」と呼ぶことにしているが,ここでは,あとで引用する文献の表現に合わせ,データを含めて事実と称することにする.

[2] 村上陽一郎『新しい科学論――「事実」は理論をたおせるか』講談社(1979),186-189ページ.

[3] これについては下の注7も参照.

[4] 本ブログでは,「定量的科学におけるあいまいさについての考察」参照.

[5] 測定には一般に理論が関わる.ただし,測定法が確立されており,またそれが科学者間で共通に用いられている場合には,とくに理論は意識されない.

[6] これは,ハンソンが引用した「ある人は老パリジェンヌを見るだろうし,ある人はロートレック風の若い女性を見るだろう」というひとつの絵柄に関わる問題である.N. R. Hanson, Patterns of Discovery/村上陽一郎訳『科学的発見のパターン』講談社(1986),26-27ページ.

[7] 私の「理論変化の理論」の観点から上のフロギストン理論をざっと眺めてみる.木,紙,油脂などほとんどの可燃物は燃えると大部分が消失し,残った灰はもとの物質よりもはるかに軽い.他方,フロギストン理論を確立したシュタール(G. E. Stahl, 1660-1734)は,(燃焼の結果)錆びた金属はもとの金属よりも重いことを知っていた.フロギストンには正の質量と負の質量の二種があるのだろうか.これはシュタールも,またその後継者も説明できない困難な点であった.I. Asimov, A Short History of Chemistry/玉虫文一・竹内敬人訳『化学の歴史』河出書房新社(1967),62-63ページ.


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