たつのこ半畳記 350

坐禅会情報・四季折々の様子を伝えるときどき日記。
令和3年に開創360年を迎えている起雲山大龍寺のブログです。

★江戸のまち、火事、大龍寺

2023年09月24日 | おはなし
江戸のまちはたびたび火事に襲われていたました。
木造の建物、過密な人口ということもあって、ひとたび火事がおこれば類焼が止まりません。
江戸時代の264年間、実に100回以上の大火があったそうです。

そのような大火の中のひとつに安政6年(1859)の「青山大火」があります。
今日、青山大火の様子を伝える資料をオンライン上の
「東京大学学術資産等アーカイブズポータル」から見ることができます。



クリックすると大きくなります。


青山大火場所附
頃ハ安政六年未二月二十一日夜九ツ半時頃南大風はげしくして
青山おんでん松平近江守様近辺より出火いたし井上様御下屋敷前町
緑丁不残やける夫より久保田町通り高(こう)徳寺門
前焼る此辺人多く損じ山じりへん
熊野権現北原宿長安寺妙安寺
此辺小やしき多く焼る夫より弾正様
御屋敷龍岩(りうがん)寺應(おう)覚寺焼る是より
千駄ケ谷へ飛火して松前様外小屋敷
三枝(さへぐさ)様龍光寺前町不残焼る千駄
がや御焔硝(ゑんせう)蔵万丁焼是より長養(よう)寺へ
飛火して花房様其外御旗(はた)本様
御家人御屋敷三十二ケ所ほど
焼る也又々四ツ谷大番丁
大御番御組屋敷東がハ
中程迄焼一ト只四ツ谷
塩丁へ飛火して西ハ大木
戸迄同塩丁三ケ町
伝馬丁二丁目三丁目
北角油店南側酒店
にて留る也夫より杉大門
御屋敷方並ニ寺々焼
此辺人多く死す

松平摂津守様御類焼
表御門残る御先手御組屋敷
板倉様御下屋敷市ヶ谷谷丁
不残焼る此辺ニて人馬多く死す
とやま尾州様御下やしき
少々御類焼月桂寺(げつけいし)やける
夫より伯耆(ほうき)様外御小屋敷焼るなり
小笠原様残る是より牛込原丁へ飛
火して同二丁目三丁目小屋敷寺々
十八ケ寺やける
早稲(わせ)田不残焼けて
穴八幡 夫より牛込馬場下より高田迄
焼る
又々目白台下へ飛火して小屋敷

多く焼る並ニ町家少々やける也
これよりまた飛火して音羽護(ご)
国寺門前音羽丁一丁目二丁目まで
焼る也又一方ハ目白台細川様御下
屋敷飛火ニて御庭(にハ)お茶屋残り
焼又雑司ケ谷(そうしがや)辺少々やけて翌廿二日
昼四ツ半時頃漸々(ようよう)火慎(しづま)り人々安堵の思をなしけり

一道法里数 青山おんでん辺より音ハごこくし辺迄南北凡一リ二十六丁ヨ
一御大名様 御やしき数三十七頭
一御旗本様 三百八十軒
一御小屋敷 数しれず
一寺の数 百五十ケ寺
一町の数 八十八ケ丁ヨ

 ※テキストの改行は、史料に基づいています。
 ※一行あけは、史料の貼り合わせ・折り目です。
 ※リンク先にてテキスト化されていたものを精査訂正しています。
 ※太字・赤字・朱線を施しています。
 ※(かっこ)は、史料にある よみがな です。




大龍寺は原町2丁目にありますので、赤字部分が大龍寺に関わる記述です。
安政年間は、安政の大獄、桜田門外の変などもあり、幕末の混乱期。
そんな時に不用意な火事により類焼してしまったことは非常に残念です。

他の史料(後の明治政府の書き上げ)によると、
明治2年(1869)10月に再建されたとあります。
当時の住職、檀信徒の苦労と、再建に向けた志が偲ばれます。
再建は、安政の大火から10年後のことだそうです。

歴史的な史料がありませんが、この大火の後も、
関東大震災、太平洋戦争の空襲などが起こります。
この大火以前の歴史事象も、大龍寺と結びつけて考えると、
いろいろと理解が深まるのではないかと思います。

「これからのお寺は大変だ」という声を時々聞きますが、
それは私が無知なだけで、安穏としていた時代はなかったのです。



(史料保管先)
東京大学学術資産等アーカイブズポータル( https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/ )
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