たつのこ半畳記 350

坐禅会情報・四季折々の様子を伝えるときどき日記。
令和3年に開創360年を迎えている起雲山大龍寺のブログです。

★江戸のまち、火事、大龍寺

2023年09月24日 | おはなし
江戸のまちはたびたび火事に襲われていたました。
木造の建物、過密な人口ということもあって、ひとたび火事がおこれば類焼が止まりません。
江戸時代の264年間、実に100回以上の大火があったそうです。

そのような大火の中のひとつに安政6年(1859)の「青山大火」があります。
今日、青山大火の様子を伝える資料をオンライン上の
「東京大学学術資産等アーカイブズポータル」から見ることができます。



クリックすると大きくなります。


青山大火場所附
頃ハ安政六年未二月二十一日夜九ツ半時頃南大風はげしくして
青山おんでん松平近江守様近辺より出火いたし井上様御下屋敷前町
緑丁不残やける夫より久保田町通り高(こう)徳寺門
前焼る此辺人多く損じ山じりへん
熊野権現北原宿長安寺妙安寺
此辺小やしき多く焼る夫より弾正様
御屋敷龍岩(りうがん)寺應(おう)覚寺焼る是より
千駄ケ谷へ飛火して松前様外小屋敷
三枝(さへぐさ)様龍光寺前町不残焼る千駄
がや御焔硝(ゑんせう)蔵万丁焼是より長養(よう)寺へ
飛火して花房様其外御旗(はた)本様
御家人御屋敷三十二ケ所ほど
焼る也又々四ツ谷大番丁
大御番御組屋敷東がハ
中程迄焼一ト只四ツ谷
塩丁へ飛火して西ハ大木
戸迄同塩丁三ケ町
伝馬丁二丁目三丁目
北角油店南側酒店
にて留る也夫より杉大門
御屋敷方並ニ寺々焼
此辺人多く死す

松平摂津守様御類焼
表御門残る御先手御組屋敷
板倉様御下屋敷市ヶ谷谷丁
不残焼る此辺ニて人馬多く死す
とやま尾州様御下やしき
少々御類焼月桂寺(げつけいし)やける
夫より伯耆(ほうき)様外御小屋敷焼るなり
小笠原様残る是より牛込原丁へ飛
火して同二丁目三丁目小屋敷寺々
十八ケ寺やける
早稲(わせ)田不残焼けて
穴八幡 夫より牛込馬場下より高田迄
焼る
又々目白台下へ飛火して小屋敷

多く焼る並ニ町家少々やける也
これよりまた飛火して音羽護(ご)
国寺門前音羽丁一丁目二丁目まで
焼る也又一方ハ目白台細川様御下
屋敷飛火ニて御庭(にハ)お茶屋残り
焼又雑司ケ谷(そうしがや)辺少々やけて翌廿二日
昼四ツ半時頃漸々(ようよう)火慎(しづま)り人々安堵の思をなしけり

一道法里数 青山おんでん辺より音ハごこくし辺迄南北凡一リ二十六丁ヨ
一御大名様 御やしき数三十七頭
一御旗本様 三百八十軒
一御小屋敷 数しれず
一寺の数 百五十ケ寺
一町の数 八十八ケ丁ヨ

 ※テキストの改行は、史料に基づいています。
 ※一行あけは、史料の貼り合わせ・折り目です。
 ※リンク先にてテキスト化されていたものを精査訂正しています。
 ※太字・赤字・朱線を施しています。
 ※(かっこ)は、史料にある よみがな です。




大龍寺は原町2丁目にありますので、赤字部分が大龍寺に関わる記述です。
安政年間は、安政の大獄、桜田門外の変などもあり、幕末の混乱期。
そんな時に不用意な火事により類焼してしまったことは非常に残念です。

他の史料(後の明治政府の書き上げ)によると、
明治2年(1869)10月に再建されたとあります。
当時の住職、檀信徒の苦労と、再建に向けた志が偲ばれます。
再建は、安政の大火から10年後のことだそうです。

歴史的な史料がありませんが、この大火の後も、
関東大震災、太平洋戦争の空襲などが起こります。
この大火以前の歴史事象も、大龍寺と結びつけて考えると、
いろいろと理解が深まるのではないかと思います。

「これからのお寺は大変だ」という声を時々聞きますが、
それは私が無知なだけで、安穏としていた時代はなかったのです。



(史料保管先)
東京大学学術資産等アーカイブズポータル( https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/ )
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★お寺のご縁、もやもや。

2023年09月04日 | おはなし
ご葬儀の場で、それまで交流のなかったお寺さんとご縁をいただくことがあります。
たとえば、拙寺のお檀家さんに嫁いでこられたお嫁さんの実家が寺院だったり、
お檀家さんの娘さんの嫁いだ先が寺院だということがあります。

そのようなお檀家さんのご家庭でご訃報があると、
私が菩提寺の住職としてご葬儀を司祭し、親戚の住職さんは参列者となります。
ご葬儀の前後にご挨拶をさせていただく機会があると、ご親戚のお寺さんには
「若輩ではありますが菩提寺としてお勤めさせていただきますが、
 ○○寺さまにはご法助いただき有り難うございます。
 今後の年回法要なども遠慮なくご参列下さい。」
などとお伝えするようにしています。



そういえば、母や妻の実家も、寺院ではありません。
一般家庭(在家)の出身で、先祖のご供養をお願いしているお寺(菩提寺;ぼだいじ)があり、
そのどちらのお寺も、たまたまですが、宗旨は拙寺とおなじ曹洞宗です。
母や妻が拙寺に嫁いできた事によってお寺同士の交流も生まれています。
 

 
立場がかわって、喪主の親戚のひとりとしてご葬儀に参列したことも何度かあります。

ご葬儀の際には、喪主さんが私を菩提寺さんに紹介して下さいます。
その場では、菩提寺さんに快く迎え入れてくださることが常です。
ところが、後日、喪主さんが四十九日忌の打ち合わせをすると、
「次の法要からは、親戚のお坊さん(私のこと)は、呼ばないでね」
と釘を刺された…と伝え聞いたことがありました。
(特定されても困るので、もう何年も前の話です)

以来、その親戚のご法事に招かれても、私以外の家族が参列しています。
気付かないうちに、何かやらかしてしまったのだろうか…
それとも、同業の僧侶が参列するのは避けられることなのか…
というモヤモヤが残っています。
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★コソコソしないでシッカリと。

2023年08月09日 | おはなし
携帯型のカネのことを手鏧(しゅけい)とか、引鏧(いんきん)といいます。





引鏧を目にすると、師父との思い出がよみがえります。


小学生の頃、師父から送迎の鳴らし方を教わったことがありました。
引鏧の持ち方から始まって、鳴らし方、歩き方、法要前後の進退作法、
法要の開始を伝える殿鐘(でんしょう)の聞き分け方など、
細かく多岐にわたることがらにいっぱいいっぱい。


私の鳴らし方が自信なさを感じたのでしょう。
 導師が上殿することを法堂全体に知らせるのだから、
 コソコソしないでシッカリ鳴さないとね!
ということを、何度も言い置かれました。


僧侶を続けていればさすがに送迎の鳴らし方こそ身につきましたが、
日々の行持、布教教化、寺院経営などは、行き届かないこと、自信の無いことばかりです。
そんな時は、いまだに師父の教えに支えてもらっています。


コソコソしないでシッカリとね、と。

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★夢にまで見た夢の中で。

2023年02月13日 | おはなし
2月2日の未明のことだった。
師父と私が、砂の上を歩いている夢を見たのだ。
  
私たちは歩きながら言葉を交わしていた。
師父は自分が亡くなったことはわかっていて、
それを人生の一コマとして受け止めつつ、
いまは、自転車で世界中を旅しているそうだ。
確かに、亡くなる前に難儀をしていた足のむくみはすっかり治まり、
ついでにお腹も引っ込んでいたので、十分な運動ができているのだろう。
顔色もよく、自信に満ちた言動は、元気だった頃の本人そのものだ。

私は、ここ最近の寺や家族の出来事を話そうと思っているのに何故か言葉にならず、
口から出てくるのは、最近誰を見送ったかということばかりであった。
 
 
 
二人はいつの間にか知らない部屋の中にいた。
私はこれが夢だということがはっきり認識できていて、師父に
「初めて夢に出てきてくれたねぇ!」
とおどけながら言うと、不意に目頭があつくなってきた。
涙は一度出始めると堰を切ったように止まらず、
これは師父を見送った悲しみの涙なのか、
いま再会できた嬉し涙なのかわからないまま泣いていた。
泣きながらも頭の片隅で理由を考えていたけれど、ついに答えは出なかった。

どちらにせよ、師父が亡くなっていまだに一度も涙していない自分も、
ようやく泣けたのかもなと、ある意味ホッともしていた。
 
 
 
だが今度は、泣きやみ方がわからない。
どうやって次の展開に進もうかと焦りながら泣いていると、
息子がやって来て私に電話を手渡してきた。
息子グッジョブ!と思いながら電話を取ると、残念ながら訃報だった。

師父への挨拶もせず枕経に向かい、先方に着いたところで目が覚めた。
目の周りの違和感。涙はホントに出ていたみたいだった。
 
 
 
そういえば、師父は自転車旅行をしていると言っていたけれど、
夢の中で、その自転車はまったく見かけなかった。
そもそも師父が自転車に乗っている姿というものを、これまで一度も見たことがない。
ホントに自転車に乗れるのか怪しいものだと思えてしまうほど、見たことがない。

一体、どんな自転車で旅をしているのか。
旅をしながら誰に出会い、どんなことをしているのか。
またいつか、旅の途中で立ち寄ってほしい。
今度は涙せず、自転車の点検をしながら話をたくさんしたい。
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★次、涅槃衣を着るのは…

2023年01月28日 | おはなし
師匠が遷化した時に限り弟子が着用する
涅槃衣(ねはんえ;※注)という法衣があります。



 2列目中央に立つ現住職が着ているのが涅槃衣です。


昨年8月、先代住職が逝去した直後の荼毘式(だびしき)にはじまり、
9月の四十九日忌、11月の本葬儀と、3回も着用しましたが、
今後、私がこの涅槃衣に袖を通すことはありません。


次に涅槃衣を使うことになるは私が"三途の川"を渡る時。
私の弟子が遺弟(ゆいてい)として着ることになるでしょう。
その時がいつになるのかわかりませんが、きれいに保存しておくために、
法衣店さんに、アイロンを当てて仕付け糸をつけてもらうことにしました。





法衣を引き取りに来た職人さんが法衣のヒモを取り上げて
縫い付けている糸をほどくと、紙片が出てきました。

  「平成2年 55000」

と書かれていて、これは法衣が作られた年と、代金なのだそうです。
つまり、先代住職が今の私くらい(50歳)の時に作ったもののようです。





※注 涅槃衣を誰が着用するかは、諸説あるようです。

  ①遺された弟子が着る   →代々着用されていく

  ②亡くなった師匠が着る →涅槃衣もともに火葬される。

  ③師匠と弟子が着る     →同時に2着必要で、師匠の衣は火葬される。

地域性や、師匠からの言い置き等があるみたいです。
大龍寺では、先代住職の言い遺しがあったことから、
①遺された弟子が着る、ということで、勤めさせていただきました。



僧侶として、住職として、後世に残すべきものは、
お釈迦さま以来不断に繋がってきたこの仏法、
そして、多くの檀信徒のよすがとなるべき大龍寺。
それをずっと守り続けてきた歴代住職のおもい。

それらをまるごと象徴するもののひとつとして、
この涅槃衣を代々受け継いでもらえればと願っています。
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★あなたは孤独ですか?~フリースタイルな僧侶たち

2021年12月12日 | おはなし
お坊さんが作っているフリーペーパー
『フリースタイルな僧侶たち』さんから、
インタビュー取材を受けました。


「あなたは孤独ですか?」
という簡単な問いかけから始まって何をお話ししてもよいのですが、
自分が訥々と話したことが寸分違わず文字化されて驚きました。

「えー」とか「うーん」とか「ちょっと」とか。
なんと無駄な言葉が多いのでしょう…。


永平寺での2つの経験について、お話させていただいています。



あなたは孤独ですか? 太田賢孝



掲載誌はこちらのウェブ上で見ることができます。
https://freemonk.net/magazine/vol-59/
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★お釈迦さまの弟子となる 《看取りのはなし4》

2021年12月11日 | おはなし
★半年後の予約 《看取りのはなし1》
★何よりのお薬 《看取りのはなし2》
★できることをする 《看取りのはなし3》




彼女のお戒名を考えるにあたって、
改めて、本人が歩んできた半生についてお話をお聞きしました。

今でこそ彼女は一人で一家を護っていますが、
これまで様々な人たちとの出会いや別れがありました。
身体の難病にも悩まされ、まさに四苦八苦の中にもありましたが、
どんな困難にも、人間の尊い精神を見失わないよう生きてこられた方でした。

お話と呼応する写真もたくさん見せてもらいました。
その中には、数十年昔の拙寺で撮られた法事の写真など、
史料としても貴重な写真がたくさんありました。



お戒名は、その場ですぐにはできません。
私自身がじっくりと考える時間をいただいて、
数週間後、原案を携えてご自宅へ行きました。

本人がしっくりこない場合には再考することも想定しつつ、
お戒名の一文字一文字に籠めた仏教の教えや
これからの人生に向けた私の願いなどをお話しさせていただきました。
彼女は、お戒名の文字から伝わってくる印象、発音の清々しさ、
家族のお戒名がおのずと連想されることなどから、
一目見て、大変快く受け入れてくれていました。
そして私の言葉を聞き漏らさないようにと注意深く耳を傾けてくれましたが、
第一印象は最後まで変わらず、お戒名の原案がそのまま本決定となりました。

受戒の儀式は、日を改めて修行する予定でいましたが、
病状のことも考えると、車で送迎したとしても拙寺に来てもらうのは難しく、
彼女の自宅で受戒の儀式を修行することにしました。



そして当日。
椅子に腰掛けて儀式を勤めるため、キッチン横の食卓を祭壇としました。
持参のご本尊さま(20㎝ほどの掛け軸)をはじめとする仏具などを配置し、
自宅仏壇に祀られている家族のお位牌や写真も並べて、
大龍寺で行う儀式と同じように修行ができるようにしました。

儀式の進行は彼女の体調に合わせることにしていましたが、
式の直前に痛み止めを飲んでいたこともあってか、大過なく進められました。
約一時間、彼女はきちんと椅子に腰掛け、
お唱えや、席上での礼拝なども略さず勤められました。
私も、お授けする戒律のこと、お戒名のこと、
これからの生き方など、丁寧にお話をさせていただきました。

この日、彼女はお釈迦さまの弟子となりました。



【注記】
この記事は本人の事前了解があり、個人情報保護のため一部改変をしています。
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★できることをする 《看取りのはなし3》

2021年08月19日 | おはなし
★半年後の予約 《看取りの話1》
★何よりのお薬 《看取りの話2》





彼女が一番心配していることは、自分が亡くなってしまうと、
一家を護る人、両親と兄の供養をする人がいなくなってしまうことでした。
財産管理や役所への事務手続き等は行政書士の先生と進めているそうで、
私は、彼女の宗教面、精神面での関わりに専念することができました。


そして、相談を重ねる中で、本人が心配していることが、

 (ソウギ) 本人の葬儀に関すること

 (カタチ) 一家の墓地と仏壇に関すること

 (ココロ) 一家の供養に関すること

 (オカネ) お布施に関すること

に分けて考えることができるとわかりました。
彼女からは、この病気にかかるずっと前から、これまでの苦難を聞いていたため、
それらの出来事が透けて見える辛い決断もありました。


そのような時を過ごす中で、彼女が触れていないことがひとつありました。
それは自分自身のお戒名に関わる事でした。





彼女の病状次第で、緩和ケア病棟への入院を打診している病院では、
月に1回、経過観察の診察があり、私は車で同行、付き添いをしていました。
彼女から、かつて立ち寄っていた飲食店と食材店が横浜中華街にあると聞いており、
ある日の診療のあと、お食事を口実に、中華街まで足を伸ばすことにしました。
彼女はとても喜んでくれて、車中ではずっと喋りっぱなしでした。
そして話が両親と兄の供養や、お墓のことなどになった時、
ズバリ、彼女が自分自身のお戒名についてどう考えているか、聞いてみました。





彼女は、大龍寺が「生前戒名」を勧めているのは承知しており、
でも「永平寺別院で3日間の加行と大龍寺での得度式」というのは、
いまの自分の病状では無理だと諦めていたそうです。


修行は蔑ろにはできませんが、障壁になるのも考えものです。
体力的に参加できない方には、大龍寺での半日修行や、
中には、自宅の病床で横たわっている方への授戒など、
それぞれに合わせているこれまでの事例を紹介しました。


彼女は今のような病状でも、お戒名を受けられる可能性があることがわかり、
何度も念押しをして「お戒名を受けたい」という気持ちを伝えてくれました。

「ご両親、お兄さん、そして貴女の4人が
 堅い縁で結ばれた家族であるとわかる、
 あなたらしいお戒名を考えましょう。」

と私が応えると、彼女はとても喜んでくれました。
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★カバン

2021年04月17日 | おはなし
―――――――――――――――――――――――――――

4月24日(土)檀信徒・有志 清掃奉仕会 募集中
→ https://blog.goo.ne.jp/kiun350/e/7aae109b268194cffa9f161ca4f0c87f

5月9日(日・母の日)山門大施食会 内献・ライブ配信
→ https://blog.goo.ne.jp/kiun350/e/696ed1671934ff5a7b6a2af927243835

―――――――――――――――――――――――――――

長年連れ添った檀那さんを亡くされた女性の話。



外地で生まれた彼女は、第二次世界大戦の敗戦によって日本に来て、
縁があって、東北地方の港町に移り住んだそうです。

生まれて初めて海のそばで暮らすことのうれしさ、
今でも忘れられない思い出となっている夏の海水浴。




それでも年頃になって職を求めて上京し、
ワクワクドキドキの気持ちが収まってもいないうちに
電車でカバンの置き引きに遭ってしまったそうです。

カバンの中には全財産であるお財布も入っていて、
警察に届けても犯人は見つからず、荷物も戻らない…

日々の生活にも困窮してしまい、とにかく糧を得るため、
急遽始めたアルバイトは、下宿先の1階に開いていたバー。




ある日、初めて会った男性のお客さんに一杯のお酒をご馳走になり、
お酒を飲み慣れない彼女は、何も考えずに一気にキッュと!

以来、その男性は毎日のようにバーに来ては、
一杯のお酒を彼女にご馳走してくれていたそう。

そして後に、2人は夫婦となったそうなのです。




荷物の置き引きに遭った時は落ち込んだけど、
あの事件がなければ、檀那さんとの出会いもなかった、
こんなにも幸せな人生を送ることも出来なかった、
と、彼女は懐古している。




災い転じて福となす。

今、辛くて悲しい思いを味わっても、それが一生続わけはではないでしょう。
場合によっては、これから訪れる幸せのため、無くてはならないものかもしれない。
何事も、熱い情けと覚めた(冷めた)心で、取り組んでいきたいなと思っています。
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★何よりのお薬 《看取りの話2》

2021年03月23日 | おはなし
★半年後の予約 《看取りの話1》




遠くにある病院の診察に車で同行した翌朝、彼女の自宅から電話がありました。

薬で抑えていた痛みが未明から耐えられなくなり、
ガンの主治医に電話で相談したらすぐ診察、場合によっては即入院になるかも。
との見立てに、彼女は全部一人で自宅の片付け、診察・入院の準備、
郵便や宅食停止の連絡をし、マンション管理人さんへの挨拶も済ませたそうです。

彼女の連絡手段は、今では珍しい黒電話一本と郵便だけ。
留守電、FAX、携帯・スマホ、いずれも持っていなかったため、
すぐに診察、そのまま入院なるかもという状況を誰かに伝えておかないと、
場合によっては自宅での突然死が疑われかねないという事情もあります。
これから病院に向けて出発するという間際に電話をくれたのです。




翌日、入院している病院から電話がありました。
病状的にはあまり良いとは言えず即入院となったが、
いまは痛み止めが奏功していて、身心共に落ち着いているとのことでした。
当時の病院はコロナ対応のため通常のお見舞いはできない状況でしたが、
保証人として「入院申込書」に記名をするという名目でお見舞いに行きました。

そして、今後は在宅診療、介護保険、緩和ケアに対応した病院のことや、
独り住まいの彼女が、今後いかにして自宅での日々を過ごすか、
そしていかにして“最期”を迎えるかという話を、
具体的に詰めておく必要があることもわかりました。




彼女の退院を待って、様々な約束事を明文化する作業が始まりました。
財産的なことは行政書士の先生との間で話し合いが持たれ、
私は、彼女が仏事に関連して気にしているいくつかのこと
  自分が亡くなった時のご葬儀などのお勤めのこと
  その後の両親を含む先祖代々の供養のこと
  拙寺にある先祖代々の墓地のこと
  彼女の自宅にあるお仏壇のこと
などについてその思いを聞き、文書にまとめていきました。
拙寺へのお布施の奉納や石材店さんへの支払いが生じるものもありました。

通常、お布施についてはその意義について言葉を尽くして説明をし、
できるだけ具体的な金額の提示についてはしないようにしています。
けれども彼女のような状況では、いつも通りというわけにはいかないと思い、
具体的な金額についても、一緒に考えていきました。

幸い、彼女が癌を患うずっと前から、様々な想いを聞いてきましたので、
万が一の際の取り決めについては、何回かの話し合いでほとんど固まりました。
彼女はホッとしてましたが、私にはもう一つ話したいことが心にありました。




彼女の診察のほとんどは、車で送り迎えをしつつ同行させてもらいました。
診察後には体調が良いようだったので、時間的にもお昼ご飯を食べることになりましたが、
せっかく車なのだからと、病院から横浜の中華街へ足を伸ばすことになりました。

病院での診察を受けるため、彼女は痛み止めを飲んではいましたが、
中華街に行くことを心から喜んでくれて、車中の彼女はずっと喋りっぱなしでした。
楽しく過ごすことは何よりのお薬だったのかもしれません。

「いまかなあ…」

私は、タイミングを窺っていたことを話そうかと思いました。





★できることをする 《看取りのはなし3》
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★半年後の予約 《看取りの話1》

2021年02月17日 | おはなし
私たち2人は、半年後の予約をお土産にして病棟を出た。
右手に迫る山の稜線に夕陽はしずみ、病院一帯は薄暗くなっていた。
ところが左手に広がる太平洋は眩しく輝いていた。
海の上には夏の名残り惜しむかのような大きな雲。
その雲が夕陽を照り返して、日暮れの海を薄茜色に染めていたのだ。





彼女は長い間、難病を抱えながら生きてきた。
数年前には一緒に暮らしていた家族を皆見送り、
「私が一家の最後です。これからは、両親の供養をしながら、
 自分が亡くなった後のお墓のことなど、きちんとしておきたい」
という希望を伝えてくれていた。
 
 
そんな彼女に、長年の難病に加えて難しい癌が見つかった。
2度の手術では成功し回復が期待されたが、しばらくして転移が見つかった。
家族がいないので、医師からの説明には、菩提寺の住職として付き添った。
先生は癌の病状と手術の経緯、現在の状況をなど、よどむことなく説明をしてくれた。
そして最後に、彼女の命には限りがあり、それが差し迫っているということも告げてくれた。
 



 
それからの彼女は、精力的だった。
「“命ある限り”と悠長に構えてはいられない。
 “身体の動くうちに”しなければならないことがたくさんある!」
と、悲嘆にくれる一日さえ惜しみ、すぐに歩みはじめた。


まずは、かれこれ17年に渡って難病を診てくれていた主治医がいて、
人生最後になるであろう診察を兼ねて、お礼とお別れをしに行くのだと。
半年に一回の診察予約が迫っていたのは何かの巡り合わせだと思えた。


その病院は日常的に通えるような距離ではなかったけれど、
これまでずっと、新幹線に乗って一人で通院をしてきたそうだ。
ただ今回は、癌の病状もあるので車で連れて行くことになった。
病院の具体的な場所を確認すると、東京からは2時間ほど、
目の前に海が広がる温泉地に病院はある、とのことだった。





診察当日は、小さな心配が現実のものとなってしまった。
ひとりでは新幹線に乗れないような痛みに、朝から襲われていたのだ。
出発前に、麻薬が含まれているという痛み止めの薬を飲み、
車中では目を瞑ったり、喋ったりが繰り返され、病院に着いた。

診察を終えて「もうこれでこの病院にも来ることもないわ…」
と17年間を思い出して感慨深げに会計を待っていると、
主治医とはまた別に17年間、彼女の担当だった事務職の女性が追いかけてきた。

「次の予約を入れましょう!」
今日が最後だと思っていた彼女は返す言葉に困っていたが、
女性は「住職さん。次の予約、入れていいですよね?」と私に同意を求めてきた。





病院の玄関を出たら、輝く海に目を奪われた。帰ることを忘れそうなほどだった。
しばらくして「春になったらまた来ましょう」と言って帰路に就いた。
途中、晩ご飯でいただいたおそばを、彼女は半分ほど残ってしまったが、
「美味しい、美味しい」と言ってとても喜んでいた。

彼女の体調は翌日になっても快復せず、入院することになった。




★何よりのお薬 《看取りの話2》
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★朝がきたのに…

2018年03月30日 | おはなし
これはもう数年前の朝、都内へ通勤する人もいそうな観光地の駅でのことです。





切符の券売機の前に、見た感じで70代ほどの男性係員がいました。
その方は、観光客が乗車券を買うのをサポートしながら地元の話をしていて、
駅員ではなく、観光ボランティアをしている人のように見えました。

ひっきりなしに観光客が切符を買うわけでもないので、
手が空けば道行く人に「おはようございます」と挨拶もしていました。

私は係員さんと挨拶を交わしつつも自分で切符を買い
少し離れた所で待ち合わせの相手を待っていました。
係員さんの「おはようございます」という挨拶も背中越しに聞こえていました。





そんな折、別の男性の「え?何ですか?」という声が飛び込んできました。

どうやら、通りがかりのおじさんが、
係員さんの挨拶に「え?何ですか?」と返答したようなのです。

そして次のような主旨で言葉が交わされていったのです。


  係員さん「(^。^ ) はい! おはようございます!」

  おじさん「(`_´) はい。 で、何かご用ですか?」

  係員さん「(^。^;) え? いや、朝だから挨拶をしたんですよ」

  おじさん「(`_´) は? それでこっちは立ち止まってるんだけど!」

  係員さん「(*_*;) 私は切符を買う人のお手伝いとか、朝の挨拶をしているんですが…」

  おじさん「(`_´) おまえ変だよ! 用も無いのに話しかけてくるな!」


このおじさんは、係員さんよりも少し若い程度で、
いわゆる“若者”では無いでしょう。年の頃でいうとおよそ60代です。
朝の挨拶を受けたというのに、なんと、腹を立てているかのようでした。

妙な因縁を付けられて喧嘩を売られたわけではありません。
朝の挨拶をされて腹を立てる方が、よっぽど変だと私は思うのです…。







電車に乗っても、その時のことが頭から離れませんでした。


 私自身、切符を買ってそのまま改札に入ってしまったけれども、
 心のままに係員さんに加勢した方が良かったんだろうか?

 腹を立てていたおじさんは、何か気に病むことを抱えていたんだろうか?

 「用事が無ければ挨拶はしない」という考えはあるのか?

 でも、自分は東京に住んでいて、道行く人たち全てに挨拶はしないなぁ…。







東日本大震災以降、「絆」という言葉が改めて見直されています。
人と人がお互いに助け合って生きていく様を示していますが、
ちょっと美化されすぎている部分もあるように思います。
絆には、現代人が避けて通ろうとしている面倒な部分もあるはずです。

 顔を合わせれば挨拶をする。

 帰宅の時間が遅くなるのであれば、お隣さんに声を掛けて出かける。

 近所のおじさんが突然やって来て勝手にお茶を飲みはじめる。


でも、そんな面倒な部分を受け入れてもやはり、
生きていく事に大きな支えとなってくれるものが
絆ということなのでしょう。

いろいろな思いが去来しつつ、今に至ります。






挨拶をしていたおじさんは、気を取り直してくれただろうか。
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★わたしのわだち

2017年05月02日 | おはなし
あの子もこの子もお友達
みんなで輪になれ手をつなごう
元気に楽しく遊びましょ
僕の私の早稲田幼稚園
 
あの子もこの子もお友達
自分で考え話し合い
大きな夢を育てましょ
僕の私の早稲田幼稚園
 
  
 

 
 
 
私も巣立った幼稚園で入園式。
一番下の娘がお世話になります。
 
 
 

 
 
 
入園式で歌った園歌。
30年以上前に卒園しても覚えているものですね。
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★生々世々歴々代々

2014年01月19日 | おはなし
「後のことはお願いします」



そんな言葉と共に、大切なことや、重要な決定権を委ねられた時、

 「俺が任されたんだ。

   これからは自分の思い通りに、やってもいいんだ。」

と思ってしまうこともあるでしょう。
でもそれは、自由の意味をはき違えた子供の妄想と同じかもしれません。




私たちが譲り受けているものは、権力ではなく、人の想い。

だからまず、“あの人だったらどうしただろうか”と考えること。
そして現在の状況や経緯も加味して、委ねられた決定権を行使すること。

なんでもソツ無くこなす器用で優秀な人ではなく、
自分の想いを理解してくれている人に、私たちは安心感を抱くでしょう。





「後のことはお願いします」という言葉を発した人が、
どのような気持ちを抱き、私に委ねてくれたのか。

委ねられるとか、譲り受けるとか、受け継ぐとか、引き受けるとか。

自分は一人ではないのだと感じます。
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★通夜の晩の過ごし方。

2012年05月04日 | おはなし
いま、葬儀の日の未明の3時を過ぎました。
通夜の晩を過ごしつつ、明朝の引導がようやく出来上がりました。





訃報があったのは3日前でした。


病院で息を引き取られたということで、搬送先を定め退院手続きを経て、
故人が安置される頃を見計らって、枕経のお勤めにうかがいました。

今日の日本が概ね妥当としている死の条件とは、
心拍停止、呼吸停止、瞳孔の対光反射の消失が医師によって確認されることです。

でも、その後でも爪もヒゲも伸びます。
本当かどうかは知る由もありませんが「耳は最後まで聞こえている」そうです。

「亡き人の耳が聞こえているうちに…」という思いが、
私を出来るだけ早く枕経へと駆り立てるのです。





枕経の後は、葬儀の日程、いろいろな準備打ち合わせと共に、
「葬儀でお唱えする引導のネタ探しがしたいのですが…」と切り出しつつ、
亡き人は家庭ではどういう人柄だったか、あなたは亡き人からどんな影響を受けたか等、
思いつくまま、話の流れのままに語ってもらっていました。

ご遺族への理由付けは“引導に織り込む取材”と言ってはいますが、

 故人が生前にどんな苦労をして、どんなことをに幸せ感じ、

 これまでどんな思いを背負って生きてきたのか、

 そして、何を親しい人たちに伝えたかったのだろうか―?

という振り返りを、この機会にご遺族にして貰いたい、
改めて故人の気持ちに寄り添って葬儀を大切に勤めてもらいたい、
という想いがあって長らく続けています。





亡き人はご遺族から寄せられたお話がたくさんあって、
そこに自分自身が抱いている故人の思いが積み重なってきて、
今日の引導は、難産の果てにようやくできたもの。

ああ、少しでも寝よう。
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