朝食後は、さきほどの4人組で昨日の晩に話した、「もっとも鮮明に残っている母についての場面は何ですか?」という情景について話をします。登場人物の心的状態には一切触れずに、言葉だけでありありと物理的な情景を思い浮かべるという点は同じです.
ここでまた、何人かにシェアをしてもらったのですが、あやふやなイメージになってしまいがちである、言葉を使っているはずが、言葉につかわれてしまっているということを学びました.
先のマトリクス理論では子どもは取り入れるものと排泄するものがある、という点においてどこでも同じという見方をするのですが、この場合の取り込み、排泄は食事を取り込み、糞尿を排泄するばかりではありません.世界に触れ合うたびにその印象というものを自分の中にとりこんでいきます.そして、不要なものを排泄していきます.情動を伴わない言葉として残した印象は、いわば通俗的な、手あかにまみれた印象ばかりであり、その人独自の印象ではなくなってしまいます.
感情や情緒といった印象を言葉として残してしまうとそこでフィルタリングがおこってしまいます.
情動は印象をたべものとして取り入れて、成長していきます.
頭脳は情報をたべものとして取り入れて、成長していきます.
言葉として生の印象にフィルターをかけてしまうと、情動に栄養が届かないのです.そのため、頭脳は30代でも、情動は3、4歳レベルであるという大人はそこらじゅうにごろごろしています.逆に3、4歳の情動を守るために頭脳を使うようになってしまっているのです.
言葉のみならず、ビジョンもシンボル化して記号化してくると生の印象をねじまげてしまう可能性があります.吉福さんは、だからユングの夢判断などは好きでない、といいます.
それでは一体言葉は何をしているのでしょうか.
英国のバートランド・ラッセルのロジカルタイピングという考え方(この思考方法はグレゴリー・ベイトソンを通じてNLPへと続いていきます)では言葉のヒエラルキーというものを考えます.
より普遍性のある言葉から具体性のある言葉.例をあげましょう.
「コップ」
「白いコップ」
「とってのついた白いコップ」
「Aさんがのんでいた、とってのついた白いコップ」
下にいくにしたがって、具体性が増していくのが分かります.
言葉は普遍性をつくりだし、印象を共有するのに役立ちますが同時に個別のオリジナルな体験とは大きくかけ離れたものになってしまうという危険性を秘めています.
医学でいうならば、Evidenced Based Medicine と Narrative Based Medicine の違いでしょうか.このふたつは大抵セットで教えられているのですが(厚生科研 EBM研修会ではそうでした)なぜか、ナラティブベーストメディスンの方はほとんど語られることなく、伝える方も受けとるほうもわけがわからないままに広がっていかないという印象があります.エビデンスベーストメディスンは普遍性が高い分、個々の患者の事情やクスリをのむときに両親が泣いて頼むからようやくのんだ、とかそういった背景は一切切り捨てています.一方でナラティブベーストメディスンは個々の状態にこだわるあまりに全体像が見えなくなっている、というメリットデメリットはあります.
医療界を包む背景として資本主義や民主主義といったものがあるがゆえに、EBMのみに光があたっているのは当たり前といえば当たり前かもしれません.
こうした講義の後に再び身体を動かすワーク.
さきほどの4人組で昨日の晩に話した、「もっとも鮮明に残っている母についての場面は何ですか?」という情景について4つのシーンをいれた、物語を即興劇にするというものです.
これは準備と実行に時間がかかりますが、盛り上がりますし、何よりなぜか心に入る.記憶に残るというメリットがあります.
個々のドラマはさておき、これがすべておわっていろいろ語る時間もあって夕食です.
その3へ.
ここでまた、何人かにシェアをしてもらったのですが、あやふやなイメージになってしまいがちである、言葉を使っているはずが、言葉につかわれてしまっているということを学びました.
先のマトリクス理論では子どもは取り入れるものと排泄するものがある、という点においてどこでも同じという見方をするのですが、この場合の取り込み、排泄は食事を取り込み、糞尿を排泄するばかりではありません.世界に触れ合うたびにその印象というものを自分の中にとりこんでいきます.そして、不要なものを排泄していきます.情動を伴わない言葉として残した印象は、いわば通俗的な、手あかにまみれた印象ばかりであり、その人独自の印象ではなくなってしまいます.
感情や情緒といった印象を言葉として残してしまうとそこでフィルタリングがおこってしまいます.
情動は印象をたべものとして取り入れて、成長していきます.
頭脳は情報をたべものとして取り入れて、成長していきます.
言葉として生の印象にフィルターをかけてしまうと、情動に栄養が届かないのです.そのため、頭脳は30代でも、情動は3、4歳レベルであるという大人はそこらじゅうにごろごろしています.逆に3、4歳の情動を守るために頭脳を使うようになってしまっているのです.
言葉のみならず、ビジョンもシンボル化して記号化してくると生の印象をねじまげてしまう可能性があります.吉福さんは、だからユングの夢判断などは好きでない、といいます.
それでは一体言葉は何をしているのでしょうか.
英国のバートランド・ラッセルのロジカルタイピングという考え方(この思考方法はグレゴリー・ベイトソンを通じてNLPへと続いていきます)では言葉のヒエラルキーというものを考えます.
より普遍性のある言葉から具体性のある言葉.例をあげましょう.
「コップ」
「白いコップ」
「とってのついた白いコップ」
「Aさんがのんでいた、とってのついた白いコップ」
下にいくにしたがって、具体性が増していくのが分かります.
言葉は普遍性をつくりだし、印象を共有するのに役立ちますが同時に個別のオリジナルな体験とは大きくかけ離れたものになってしまうという危険性を秘めています.
医学でいうならば、Evidenced Based Medicine と Narrative Based Medicine の違いでしょうか.このふたつは大抵セットで教えられているのですが(厚生科研 EBM研修会ではそうでした)なぜか、ナラティブベーストメディスンの方はほとんど語られることなく、伝える方も受けとるほうもわけがわからないままに広がっていかないという印象があります.エビデンスベーストメディスンは普遍性が高い分、個々の患者の事情やクスリをのむときに両親が泣いて頼むからようやくのんだ、とかそういった背景は一切切り捨てています.一方でナラティブベーストメディスンは個々の状態にこだわるあまりに全体像が見えなくなっている、というメリットデメリットはあります.
医療界を包む背景として資本主義や民主主義といったものがあるがゆえに、EBMのみに光があたっているのは当たり前といえば当たり前かもしれません.
こうした講義の後に再び身体を動かすワーク.
さきほどの4人組で昨日の晩に話した、「もっとも鮮明に残っている母についての場面は何ですか?」という情景について4つのシーンをいれた、物語を即興劇にするというものです.
これは準備と実行に時間がかかりますが、盛り上がりますし、何よりなぜか心に入る.記憶に残るというメリットがあります.
個々のドラマはさておき、これがすべておわっていろいろ語る時間もあって夕食です.
その3へ.
先日は当方の駄ブログにお越しいただきありがとうございました。
足跡が残っておりましたのでお礼方々参りました。
今回のワークショップ、私は残念ながら土壇場でいけなくなりキャンセルになってしまいまして。
もう吉福先生は今後ワークをなさらないと聞いてますので心残りです。
でも知り合いの男性が今回参加していますので、戻ってからシェアしていただこうかと思っております。
杉原先生にとっても良いワークでありますようお祈りしています。
ありがとうございました。
また寄らせていただきます。
きっと吉福伸逸さんはどこかで別の形で来日は続けると思います.彼の弟子たちを育てる作業が残っていますから.
週末の指宿メディポリスのワークも終わったころですね~