切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

佛光寺本廟~合槌稲荷大明神・粟田神社 京都市東山区・・・蹴上周辺

2020-06-16 22:40:23 | 撮影
佛光寺本廟

  

 佛光寺本廟は地下鉄東西線蹴上駅の西側にある。お寺の隣は京都の老舗のホテル、旧都ホテル。今は外資系のウエスティンホテルの系列に入ったが、昔から高級ホテルとして名高い。
 お寺そのものは浄土真宗で知られる親鸞聖人と深い関わりがあるとのこと。元々は親鸞の亡くなった骨を集め、お墓を設けたのがこの地であるというのが、お寺の元となっていると言われる。確かにお墓そのものは御廟として随分立派な構えの建物とお墓が境内にあるが、創建そのものは諸説あって、これだけには限らないようだ。また親鸞のお墓のある所という意味でも、様々な説があるのではないかと考えられているようだ。
 そういうことであるならば、親鸞自身は鎌倉期の人物であり、お寺の元になる建物の創建は鎌倉時代ということになる。当初はお墓に対してお寺全体としての規模は小さかったようだが、江戸時代に入って様々な整備がなされ、いくつかのを伽藍が建ち並び、今のような形態になったということだろう。そういった点からはお寺そのものの創建は、この江戸時代(元禄年間)と言う説を取る場合もある。
 この付近は三条通りから東山方面へ抜けると、そのまま山科へいたる地域で両側に低い山が迫る。このような山麓の傾斜地にお寺が建てられている。内部は大きく広く非常に立派なもので、やはり親鸞聖人の墓所であることを十分に感じさせる雰囲気だ。
 しかし、佛光寺本廟についてはお寺の存在としては確かにあるものの、「親鸞御廟」というのもあるのは確かだが、これが本物なのかどうかとなると話は違ってくる。
 親鸞が教えを説いていた鎌倉時代において既に著名な人物であったために、亡くなった後そのお墓というのがどこに設けられたのかについてはいくつかの説があって、今現在最終的な結論としては、東本願寺に設けられているということと、この東本願寺の境外地として五条坂に大谷本廟というのがあるが、この巨大墓地の中にあるというのが真の説のようだ。
 親鸞本人は自伝的なものは一切残しておらず、その生い立ちから布教活動に渡って、詳しいことはあまり分かっていない。そういうこともあって、お墓についてもこのようなややこしい話になっているんだろう。
 佛光寺本廟そのものの信頼性については、実のところ僅かながらの関係があったのか、あるいは全く無関係で単に主張しているだけなのか、よくわからない。
 親鸞については少なくとも中学校で、歴史教科書に登場し簡単ではあるが勉強しているはずだ。「歎異抄」「教行信証」などを通して難しい仏教の教えを、当時文字の読み書きができない多くの人々に仏教というものを身近なものとして、簡単な方法で信心に入れるようにした人物として、今現在でも全国的な尊敬を集めている人物だ。
      
親鸞聖人の墓
 


合槌稲荷大明神



『合槌稲荷明神
 ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。
宗近は信濃守栗田藤四郎と号し、栗田口三條坊に住んだので三茶小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名剱小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」も、これをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて明神を祀ったのが、ここだともいう。
 なお宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったといわれる。
    謠曲史跡保存会』 (駒札より)



 佛光寺本廟前の道路を挟んだ反対側。少し西側に狭い赤い鳥居が立っている。そこに小さな駒札が掲げられ、この神社の由緒が分かるようになっている。上記のものがそれだ。
 鳥居は狭く両側が民家で、そのまま進んでいくと石畳を左右に折れていくが、何か私有地の道を歩いているみたいで、とても神社の参道とは思えない。
 すぐに祠が現れる。お稲荷さんということだが、歴史的な由緒から、特定の人物が関わっていたとして、今に至るまでその名を馳せている。本来ならばこのようなごく小さな神社は、駒札もないし一体何という名前の神社か、という風になるが、やはり名を残した人物が信仰していた神社とあって、今現在も極めて小規模の神社ながらこうして残っているわけだ。
 佛光寺本廟の境内にも、小鍛冶宗近由来の場がある。そういった意味ではこの辺り一帯で 彼の活動が行われており、そこそこには知られた存在だったんだろう。
 刀剣に興味のない私としては、名刀と言われる刀を製作した人物など知りようがない。しかし刀剣には根強いマニアがいて、今書店に行くと刀剣シリーズのムック本が刊行中だ。
   


粟田神社



『粟田神社由緒

御祭神 建速素盞鳴尊 大己貴命 他十一柱
御神徳 厄除 旅行守護 悪病退散 緑結び等
創建縁起
平安時代清和天皇貞観十八 (876) 年春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災有りて秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上された。天皇ただちに勅を下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社 (八坂神社) に七日間祈願され、その満願の夜に夢枕に老翁が立ち「帝都の東祇園の東北に牛頭天王 (素盞鳴尊) に緑の地在り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えられた。 興世は夢とは思わず神意なりと奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祭りした。
また一説には上古、栗田氏の氏神として創建されたとも伝えられる。
  要田神社社裔所 京都市東山区栗田口鍛冶町一』
          (由緒説明書きより)



『粟田神社の剣鉾と大燈呂

 粟田神社は、京都の東の出入口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って東海道を行き来する旅人の信仰も篤かった。
  十月の粟田祭は、剣鉾と大燈呂で知 られる。体育の日の前夜には御神宝の阿古陀鉾を中心に夜渡り神事が行わ れ、知恩院黒門前の瓜生石での祭典後、氏子町内を行列する。その際に栗田大燈呂と呼ばれる大きな灯籠が練る。これは戦国期の公卿 山科言継の日記 『言継卿記』に「栗田口の風流(中略)前代未聞驚目の事也」、青蓮院の寺誌『華頂要略』に「様々の造り物あり(中略)誠に一大壮観なり」と記されている灯籠の山車を平成二十年に復興したものである。
 体育の日の神幸祭で神輿を先導する剣鉾は、長い竿の先に真鍮製の剣先と様々な意匠の錺金具を配したもので、鉾差しと呼ばれる担い手が一人で支え、剣先をしならせて鈴を鳴らしながら巡行する。その現存する数では京都一を誇り、祇園祭の山鉾と同様に氏子の各町で護持される祭具である。  京都市』
  (駒札より)



『京都市指定有形文化財
粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿

 粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戶時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素盞鳴尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観十八年(八七六)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(一一一三~一八)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応九年(一五〇〇)に吉田兼倶が再興したという。
 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化二年(一八〇五)六月に焼失後、文政六年(一八二三)に再建されたことが明らかとなる。 建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戶時代後期の複合社殿として価值が高い。  拝殿は、確実な資料を欠くものの元禄十六年(一七〇三)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。 本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のもの として貴重である。
  平成八年四月一日指定  京都市』 (駒札より)

 佛光寺本廟のすぐ隣にある。
 かなり規模の大きい神社であり、参道の坂道を少し登れば見晴らしの良い境内に着く。境内に建ち並ぶ舞殿や拝殿、本殿。そして数々の末社。それぞれが格式の高い造りで見ているだけでも飽きない。細かな彫刻も含めて上記のように、指定有形文化財になっているのも納得ができる。
 拝殿・本殿は特に隣勇壮な造りで見応えがあり、まさに巨大神社のそれを思わせるのに十分だ。自粛要請もあって人出は少なかったが、ポツポツとマスクをした人々がやってきている。境内にはベンチも用意され、ゆったりと過ごすのにも良い環境だ。平安神宮の巨大鳥居も見える。
 由緒等は上記の駒札の通り。たくさんの案内があってなかなか分かりやすい。親切な神社だと言える。
 ブログを始める前に一度訪れて写真を撮っているが、数年ぶりに訪れて記憶にあった風景が全部そのまま思い出された。やはり当時からそれほど印象が深かったんだろう。この神社は行く値打ち十二分にある。

      
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