春日神社(桂巽町)
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『春日神社
古代山背国葛野郡朝原村(現桂学区)の氏神として、五穀豊穣、子孫繁栄、無事清明を加護し、村人の守護所として崇められる。明治三十九年神社併合令により、同四十五年、村民全員(四十余名)の寄進を以って神殿を建て、村内三カ所に鎮座の轟宮、三之宮、春日社を、この地に合祀した。爾来、八十有余年の風雪に老朽傾き甚しく桂学区民有志一同の寄進を得て、平成九年十月五日修復完工す。
祭神は天児屋根命、大山咋神、バ幡大明神を礼る。祭礼は毎年十月第三日曜日。
松尾大社神職司祭により、執り行っている。
平安京建都桓武天皇の第二皇女で朝原内親王(のちの平城天皇妃)はこの朝原の地で誕生、伊勢斎宮在位十五年ののち十八歳の時に戻られ、天皇はその労苦を慰労感謝され朝尞內親王第を賜れる。日本後記に「朝原内親王第御幸」と記してあり、御幸の道筋に在る春日神社について桓武天皇が参拝祈願された事は十分推測することが出来ると史学者も申しています。王城の地、京都のあまたの神袿のなかでも桓武天皇参拝祈願された神社そう多くあるものではなく、私達はこのことを深く心に刻んで日々の参詣を致したいものであります。』
(駒札より)
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桂地域に二つの春日神社があるということで、何か関係があるのかどうか訪れてみた。
阪急電鉄桂駅から数百メートルだ。鳥居は住宅街の道路に面しており、境内も非常に狭い。この中に大きな樹木や本殿などが配置されており、神社としての体裁はしっかりと整えられている。境内も十分に掃除されており、地域の氏神様として崇められていることが、あるいは大事にされていることがよくわかる。
はっきり言ってど素人の私にとってみれば、何か目立った特徴があるようには感じられなかった。鳥居の横に上記のような駒札の説明があった。創建などは不明らしいが、かなり古くからこの地にあったようだ。
説明文の中にもあるように桓武天皇の皇女である朝原内親王はこの朝原の土地で誕生したと言われている。この朝原と言う名前が「ちょうばら」と発音され、後に訛ってそれが「千代原」になったのではないかと考えられている。今現在でも地名として「桂千代原」というのがこの付近に残っており、国道9号線の亀岡方面への入口の所が「千代原口」と呼ばれている。
しかし桓武天皇といえば、平安時代以前からの人物であり、遅くとも奈良から平安時代にかけてこの地に社を構えていたものと思われる。桂から西南方面の大原野一帯は古代から人々が住み着き、農耕が盛んに行われ、近くを流れる桂川を通して様々な土地との交易も盛んであったところだ。
そういった点からは、地域に住んでいた人たちが「春日社」に馳せた思いというのは、当時の天変地異に対してもかなりな思いがあっただろうと思われる。
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元々「春日大明神」というのは今の奈良にある「春日大社」が発祥であり、奈良時代初期の藤原氏の氏神であったと言われており、春日の名前ついては省略しておくが、春日神を祀る社として各地に春日神社を名乗る社が誕生していく。今では全国に同名神社が約1000箇所あると言う。このようないわれからすると、1300年もの長い歴史を持つ由緒ある神社だと言えるのではないか。
春日神社(桂春日町)
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続いて阪急京都線の東側に位置する桂離宮の南にある同じ名前の「春日神社」へ向かう。 ここも比較的小さな神社で、鳥居や狛犬、本殿などを全体的にも新しい感じだ。由緒書きも何もなく、帰ってから様々なもので調べてみたが、ネット情報も含め皆無に等しい状態だった。この神社のある住所は「桂春日町」であり、少なくとも地名については歴史的な由緒のあるものだ。
しかし情報がないというのは何とも仕様がない。祭神はおそらく春日大神だろう。念のために京都府神社庁のホームページで調べたが、なんと登録もされていない。独立系の神社なのか。とにかくよくわからない。
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下桂・御霊神社
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『御霊神社
創建
貞観十八年四月十八日下桂御霊神社の祭神として勧請する(1117年前)
桂光院智仁親王(桂宮)より後水尾天皇御使用の鳳輦を神輿として下賜。また後水尾天皇御宸翰「御霊宮」の勅額を下賜さる。
祭神 橘逸勢公
逸勢公は平安朝の元勲であり、またすぐれた能書家で嵯峨天皇、僧空海とともに三筆と称せられた
伊都内親王願文、興福寺銅燈台扉銘は何れも公の手にな永表の書として有名である。
祭礼
もと旧暦の八月十八日であったが、新暦になって十月十八日となる。
近年五月の日曜日に変更する。
社格 村社
本邦御霊八社の一つである。
氏子 旧下桂村の産沙神
旧下桂村は江戸時代初期に中桂村と下桂村に分かれる。現在の桂東学区と桂学区の一部がその区域である。
平成五年五月 和田文夫書』
(境内掲板の説明書きより)
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『下桂・御霊神社
創建 八七六年(貞観一八年)
御祭神 橘逸勢(たちばなのはやなり)
橘逸勢は、嵯峨天皇 、空海と並び日本三筆と称された天下の能書家で平安初期の官人。
書聖をお祀りする珍しい神社です。
皇室の尊崇篤く、桂宮家より多くの御寄進を賜っている。
後水尾天皇の御宸翰勅額「御霊宮」、鳳輦などを御下賜。これらと共に社宝が例大祭に展示される。』
(境内駒札より)
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御霊神社・下桂御霊神社は同じ場所にあり、桂離宮の北側となる。
元々下桂御霊神社の創建にあたり、御霊神社が勧請されたものだと言う。同規模の比較的立派な神社が二つ隣接するような形になっているので、なかなか豪華で見応えがあるように見える。どちらがどちらで、どのような役割を果たしているのかは見ただけではさっぱりわからない。それぞれの由緒書きが上記のように掲げられていた。基本的に内容は同じようなものだ。
境内にはそれぞれの拝殿、本殿があり、御霊神社には比較的大きな神社にしかないような能舞台も設けられていた。
御霊という名前からは御霊信仰の対象であったことが示されるが、これは以前、上御霊神社、下御霊神社のところで少し解説しているので今回は省いておく。
今では祭神とされている橘朝臣逸勢公が、承和の変で謀反に関わり、伊豆へ追放となった。その途中彼は亡くなり、平安京では度々不思議なことが起こったりして、その霊を慰めるために当神社にお祀りしたということだ。
当時は似たような話は他にもいくつかあり、やはり特に貴族の人々にとってみれば、農耕民たちから貢物を奪い取り、華麗な生活を貪っている中で自分たちに理解のできないようなことが起こると、何かの祟りのような気持ちになったんだろう。これらははるか古代から人の死というものを大切に扱い、尊いものとして扱ってきた日本人の精神構造の中に積み上げられ、逆に罰を与えるということ、さらにその結果人を死に追いやったということに対しては、何らかのわだかまりを持つような気持ちがあったんだろうと思われる。
支配されていた農耕民たちにとってみれば、このような話を聞くとさらに恨みを残して亡くなっていったであろう人物に対する思いは、殊の外強かったのではないかと考えられる。そういった意味で、御霊信仰は日本各地に根深く地域の信仰を熱心な形で集めたのものと言えるんだろう。
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京都市中心部の上御霊、下護霊とともにこちらの御霊神社にもぜひ訪れるといいと思う。