大将軍神社
『大将軍神社の由緒
所在地 京都市東山区三条大橋東三丁目下ル長光町六四〇
参神 大将軍神社は須佐之男命を祭神とし、相殿に藤原兼家を祀ってあ ります。
桓武天皇は延暦十三年(七九四)平安京の造営に際し、大内裏鎮護のため四隅に須佐之男命を祀り大将軍と称しました。
特に平安の東のこの地は三條口の要地に当たり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されて参りました。
また、藤原兼家公は後一条天皇の外祖父であり、藤原道長の父で、摂政、関白となり東三條殿を営み、その邸は、景勝の美そのものと詠われました。道長は後に父の像を祀りました。東三條殿は応仁の乱で廃壊しまし たが、当社の境内に東三條社として名跡を留めています。当地の住民は元来、平安遷都に際して奈良の旧都から朝廷に随伴して京都に移り住ん だ人々で、代々御所の御用を勤め種々の特権を認められた由緒あることで知られています。 大将軍社社 東三條社』 (由緒書きより)
『大将軍神社
素盞鳴命を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。
垣武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、 東南隅の一つである。
特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。
このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁の乱で廃壊したが、境内に東三條社として名跡を留めている。又、樹齢八〇〇年と伝える銀杏の大樹があり、かつては鵺の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。
京都市』 (駒札より)
大将軍神社というと何か軍人の大将のような意味に捉えられがちだが、そうではない。古代中国において重要な場所を守るための、いわば邪神除けの四方を司る神という考えのものだ。日本においてはこの考え方が平安遷都において初めて採用され、平安京の四隅に設けられることとなった。
今現在では少し移動したり、あるいは異説があったりして不明確な部分もあるが、今回訪れた大将軍神社は東山三条にあり、東の守り神となる。
他に北は西賀茂にある西賀茂大将軍神社。西は大将軍八神社。そして南は藤森神社の中にある大将軍神社、とされたようだ。これら4か所の大将軍神社によって、平安京内の特に重要な部分である大内裏を守るように配置されたという。
中でも東にあるこの大将軍神社は、三条通りを東へ進むと山間を通って山科から、さらに遠国へと続き、邪神から都を守る上では特に重要視されたようだ。
祭神の須佐之男命というのは様々な性格を持つ記紀に登場する神だが、その荒くれ性格や海神などといったところから祀られていたのではないかと思われる。同時にすでに盛んになっていた仏教の神仏習合の象徴である、牛頭天王との習合もこの須佐之男命が中心となっており、当時の考え方としては非常に都合が良かったんだろうと思われる。
それにしても1200年以上にわたって都の守り神として影響を持ち続け、今も信仰の対象となっている大将軍神社というのは、歴史的に見てもある意味、とんでもない存在だとも言える。
要法寺
『本山要法寺の略史
高祖日蓮大聖人の教えを受け継ぐ日尊上人が、前人未踏であった西国弘通を志されたのが始まりで、正安二年(一三〇〇)秋から全国布教活動に歩かれるようになり、その拠点として延慶元年(一三〇八)京都に法華堂を建立されたのが要法寺の起こりです。それ以来の歴史をたどってみると天文年間には天台宗徒による法難に遭い、大阪堺に一時避難。 天正十九年(一五九一)には町割の整理実施により寺町二条移転。宝永五年(一七〇八)京都大火では類焼。その後東山三条に移転し現在に近い一応の堂宇の形を整えることができましたが、 寛政年間には宗外から法難を受けたりもしました。明治三十二 年(一八九九)にいたり正統を受け継ぐ「本門宗」と宗名を公称するようになりましたが、昭和十六年(一九四一)政府の思想統一により日蓮宗との合同を強制され、第二次世界大戦後もしばらくその状態が続きました。しかし、日蓮大聖人の正統を受け継ぎ、日尊上人が要法寺を開創された意味にかんがみ、昭和二十五年(一九五〇)独立して「日蓮本宗」として名のり、布教活動の本拠地としての大きな役割を担いながら今日に至っています。また、日蓮大聖人御真筆御本尊をはじめ、貴重な古文書、重宝などほとんど失うことなく今なお要法寺に格護されています。』
(パンフレットより)
要法寺は、上記の大将軍神社の北側にある。
三条通りを挟んでここは左京区となる。日蓮宗のお寺でもちろん開祖は日蓮ということになる。このお寺の由緒は上記の通り。もちろんこの説明だけではほんのごく一部しか分からないが、第一日蓮宗そのものが非常にややこしい。
日蓮の著作である「立正安国論」は当時大きな影響をもたらし、それまでの仏教各派閥との大きな違いに衝撃が走ったのではないかと思う。その影響は日蓮本人だけではなく、後に続く弟子たちの全国的な普及活動によって、当寺文字の読み書きができない人たちが大半であったこの国の中で、大きな影響を広げていく。
しかしその教えの内容について様々な解釈が発生し、ただ単に日蓮宗というだけにとどまらず、様々な流派に分裂していくことになる。その結果、それぞれが日蓮何がしかを名乗り、極めて複雑な状態になっていく。それぞれの宗派による内容の違いについてはもちろん私自身は全くわからない。
これまでも京都市内や京都府下の多くの寺を撮影して回っているが、お寺の名前に「妙」とつくと大概、日蓮宗のお寺だろうという安直な認識でしかなかった。ネットで色々と日蓮宗について調べてみたが、あまりにも複雑でまとめて解説してあるようなサイトは特に見つけられなかった。書店に行った時に日蓮宗という名称の入った書物が何冊もあるが、どうもあえてそれを購入して読もうという気にはなかなかなれない。理由は簡単で、それ以前に読み込んで勉強すべき課題が山積みなので、日蓮宗にまでとてもじゃないが手が回らないというところが現状だ。
それにしてもここ要法寺は、日蓮宗の一つの派閥の本拠地のようなお寺で、広大な敷地に悠然と伽藍が並ぶかなり立派なお寺だと言える。駒札も何もなかったので、是非とも欲しいところだ。
この近辺には先ほどの大将軍神社だけにとどまらず、著名なお寺なども多数存在するので、この辺り一帯を回ってみるのもなかなかいいものだと思われる。京阪三条駅周辺ということになる。非常に便利な場所だ。
『大将軍神社の由緒
所在地 京都市東山区三条大橋東三丁目下ル長光町六四〇
参神 大将軍神社は須佐之男命を祭神とし、相殿に藤原兼家を祀ってあ ります。
桓武天皇は延暦十三年(七九四)平安京の造営に際し、大内裏鎮護のため四隅に須佐之男命を祀り大将軍と称しました。
特に平安の東のこの地は三條口の要地に当たり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されて参りました。
また、藤原兼家公は後一条天皇の外祖父であり、藤原道長の父で、摂政、関白となり東三條殿を営み、その邸は、景勝の美そのものと詠われました。道長は後に父の像を祀りました。東三條殿は応仁の乱で廃壊しまし たが、当社の境内に東三條社として名跡を留めています。当地の住民は元来、平安遷都に際して奈良の旧都から朝廷に随伴して京都に移り住ん だ人々で、代々御所の御用を勤め種々の特権を認められた由緒あることで知られています。 大将軍社社 東三條社』 (由緒書きより)
『大将軍神社
素盞鳴命を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。
垣武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、 東南隅の一つである。
特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。
このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁の乱で廃壊したが、境内に東三條社として名跡を留めている。又、樹齢八〇〇年と伝える銀杏の大樹があり、かつては鵺の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。
京都市』 (駒札より)
大将軍神社というと何か軍人の大将のような意味に捉えられがちだが、そうではない。古代中国において重要な場所を守るための、いわば邪神除けの四方を司る神という考えのものだ。日本においてはこの考え方が平安遷都において初めて採用され、平安京の四隅に設けられることとなった。
今現在では少し移動したり、あるいは異説があったりして不明確な部分もあるが、今回訪れた大将軍神社は東山三条にあり、東の守り神となる。
他に北は西賀茂にある西賀茂大将軍神社。西は大将軍八神社。そして南は藤森神社の中にある大将軍神社、とされたようだ。これら4か所の大将軍神社によって、平安京内の特に重要な部分である大内裏を守るように配置されたという。
中でも東にあるこの大将軍神社は、三条通りを東へ進むと山間を通って山科から、さらに遠国へと続き、邪神から都を守る上では特に重要視されたようだ。
祭神の須佐之男命というのは様々な性格を持つ記紀に登場する神だが、その荒くれ性格や海神などといったところから祀られていたのではないかと思われる。同時にすでに盛んになっていた仏教の神仏習合の象徴である、牛頭天王との習合もこの須佐之男命が中心となっており、当時の考え方としては非常に都合が良かったんだろうと思われる。
それにしても1200年以上にわたって都の守り神として影響を持ち続け、今も信仰の対象となっている大将軍神社というのは、歴史的に見てもある意味、とんでもない存在だとも言える。
要法寺
『本山要法寺の略史
高祖日蓮大聖人の教えを受け継ぐ日尊上人が、前人未踏であった西国弘通を志されたのが始まりで、正安二年(一三〇〇)秋から全国布教活動に歩かれるようになり、その拠点として延慶元年(一三〇八)京都に法華堂を建立されたのが要法寺の起こりです。それ以来の歴史をたどってみると天文年間には天台宗徒による法難に遭い、大阪堺に一時避難。 天正十九年(一五九一)には町割の整理実施により寺町二条移転。宝永五年(一七〇八)京都大火では類焼。その後東山三条に移転し現在に近い一応の堂宇の形を整えることができましたが、 寛政年間には宗外から法難を受けたりもしました。明治三十二 年(一八九九)にいたり正統を受け継ぐ「本門宗」と宗名を公称するようになりましたが、昭和十六年(一九四一)政府の思想統一により日蓮宗との合同を強制され、第二次世界大戦後もしばらくその状態が続きました。しかし、日蓮大聖人の正統を受け継ぎ、日尊上人が要法寺を開創された意味にかんがみ、昭和二十五年(一九五〇)独立して「日蓮本宗」として名のり、布教活動の本拠地としての大きな役割を担いながら今日に至っています。また、日蓮大聖人御真筆御本尊をはじめ、貴重な古文書、重宝などほとんど失うことなく今なお要法寺に格護されています。』
(パンフレットより)
要法寺は、上記の大将軍神社の北側にある。
三条通りを挟んでここは左京区となる。日蓮宗のお寺でもちろん開祖は日蓮ということになる。このお寺の由緒は上記の通り。もちろんこの説明だけではほんのごく一部しか分からないが、第一日蓮宗そのものが非常にややこしい。
日蓮の著作である「立正安国論」は当時大きな影響をもたらし、それまでの仏教各派閥との大きな違いに衝撃が走ったのではないかと思う。その影響は日蓮本人だけではなく、後に続く弟子たちの全国的な普及活動によって、当寺文字の読み書きができない人たちが大半であったこの国の中で、大きな影響を広げていく。
しかしその教えの内容について様々な解釈が発生し、ただ単に日蓮宗というだけにとどまらず、様々な流派に分裂していくことになる。その結果、それぞれが日蓮何がしかを名乗り、極めて複雑な状態になっていく。それぞれの宗派による内容の違いについてはもちろん私自身は全くわからない。
これまでも京都市内や京都府下の多くの寺を撮影して回っているが、お寺の名前に「妙」とつくと大概、日蓮宗のお寺だろうという安直な認識でしかなかった。ネットで色々と日蓮宗について調べてみたが、あまりにも複雑でまとめて解説してあるようなサイトは特に見つけられなかった。書店に行った時に日蓮宗という名称の入った書物が何冊もあるが、どうもあえてそれを購入して読もうという気にはなかなかなれない。理由は簡単で、それ以前に読み込んで勉強すべき課題が山積みなので、日蓮宗にまでとてもじゃないが手が回らないというところが現状だ。
それにしてもここ要法寺は、日蓮宗の一つの派閥の本拠地のようなお寺で、広大な敷地に悠然と伽藍が並ぶかなり立派なお寺だと言える。駒札も何もなかったので、是非とも欲しいところだ。
この近辺には先ほどの大将軍神社だけにとどまらず、著名なお寺なども多数存在するので、この辺り一帯を回ってみるのもなかなかいいものだと思われる。京阪三条駅周辺ということになる。非常に便利な場所だ。
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