切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

豊康龍神 京都市中京区・・・御土居とは

2021-05-13 21:59:07 | 撮影
豊康龍神

 

『豊康龍神
由来
 昔戦国時代の世此の地一帯は先の豊臣秀吉公が築きし御土居ありし所にしてこの御土居たるや 古き伝説を有し日々□□□□尚凄き所たるもの如く今尚ここに辨財天の住ま居し給いしがこの辨財天は自己の行先に迷い給える状態なるものの如くあり 
昭和初期当町の発展に共ないその数年間の町内に於ける□□□□比率は極めて多く毎月の如く一及至二名の不幸を示し 中町役員又は其の家族に多きく見る現象にあり
この不可思議なる事実に徹し□□□□案ずる処ありこの際当町の一地を求めて□□□□祈祷し奉りこの不幸かつ火災その他の厄難を免し一般町民の福利増進の寄護に預り□□□□し幸にして崇高なる敬神□□念の各位の 御寄付により昭和四年五月に 町内守護神としてのお社を建立 安置するものなり
  以上
昭和五十三年六月吉日』 (駒札より)(□は判読不能)

 

 豊康龍神は四条御前通から南へ数百メートル。細い路地を入ったところにある。最初はなかなか見つけられなかった。あたりを歩き回ってようやく赤く塗られた枠を見つけて、きっとそこだろうとたどり着いた。
 ちょうど細い川が流れているところで、おそらくこれは運河だろうと思われるが、その川に沿って入って行くと、すぐに龍神がある。豊康龍神については駒札があるが、雨風に打たれて文字がかなり薄くなっており、全くと言っていいほど判読不能。そのためにネット上で駒札の写真がないかを調べてみると、まだ文字が比較的はっきりしている画像が見つかった。それを書き写したものが、上記の駒札の文章だ。ただ実際にはその画像でも、はっきりしないところがあちこちにあり、完全に分からないところは「□」で表しており、文字として表記したものも、全く別の文字であるかもしれないところもある。ただそれであっても内容の概要は大体つかめると思う。
 戦国時代に豊臣秀吉が京都に「御土居」と呼ばれる土塁を楕円形状に建設した。その御土居には弁財天が住み着き祀られていた。しかし時代を経て御土居の必要性が徐々になくなり、弁財天の行き先がなくなってしまった。そこでどうしようかと思っている時に、この辺りに居住している人たちに毎年一人二人と不幸が起こった。そこで人々は その弁財天の行き先として、この地に社を建てて祀ることになった。これが今の豊康龍神だと言う。
 豊康の「豊」は豊臣秀吉、「康」は徳川家康。つまり豊臣秀吉が御土居を造り、徳川家康の時代になって戦いはなくなり、平穏な日々が続いた。ということで家康は京都の道路の整備にあたって不要になる部分を取り崩していった。次第に御土居はあちこちで取り壊され、明治期にはズタズタになった状態で、部分的に残るような形になる。さらに大正昭和になると都市の発展で、ほとんどの御土居がなくなってしまう。それでもたまたまお寺や学校の敷地内、あるいは川の堤防に当たるような部分に残されたまま、今に至っているところもある。中には建設当時の様相をそのまま残しているところもあり、残された御土居の一部は現在史跡として文化財に登録されている。
 御土居の目的は文献としては何も残っておらず、あくまでも推定された内容となる。多々考えられている。外敵の侵入を防ぐため、川の氾濫などの防災のため、といったところは容易に考えられるが、他にもさまざまな説が考えられている。

  

 建設された頃は総延長約24km。今現在残っているのは約10箇所。小さな断片を含めるとまだあるようだが、明確なものの10箇所が史跡として指定されている。御土居巡りのツアーなどもあるようだ。以前にもこのブログで取り上げた小さな神社に、御土居に関わっているものがあったはずだ。京都の歴史の一端を見ることもできるので、この龍神にも是非訪れたいものだと思う。
 ちなみにこの龍神の西側は「土居ノ内町」という住所になる。

 
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