切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大田神社 京都市北区・・・大田の沢は古代から?

2021-05-15 22:55:59 | 撮影
大田神社



『大田神社
 当神社は延喜式神名帳に記載されている古社で、 一名に恩多社とも云われる。 鎮座年代は不詳なれど賀茂に於ける最古の社であり、賀茂県主族の移住以前より濃民から長寿福徳の神として信仰が寄せられていたようである。 ご祭神の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、天岩戸の前でお神楽をされた神 で、その御神徳を慕って芸能上達を願い参拝される 方が多い。
 また、境内東側の沢地を大田の沢(おおたのさわ) といい、野生のカキツバタが美しい。藤原俊成(しゅんぜい)卿の古歌に「神山や 大田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」と詠われ、平安時代からこの地にカキツバタが咲きみだれて、すでに名勝となっていたようである。今日でも五月中旬頃には、 濃紫、紫の花が美しく沢一面に咲く。 このカキツバタの群落は昭和十四年に国の天然記念物に指定 されている。
 例祭は四月十日と十一月十日である。
  京都市』  (駒札より)

   

 大田神社は上賀茂神社から東へ約500mほどのところにある。創建については不詳だが、平安時代の延喜式神名帳に記載されており、そこには「太田神社」とあるところから他に比較し得る神社がないところから、神名帳の「太田神社」と比定されていることになる。いわば由緒ある式内社ということだ。したがって平安時代初期、あるいはそれ以前の創建となることは間違いない。上賀茂神社はその後にできたので「大田神社」の方が早いのだが、後に上賀茂神社の境外末社となる。
 神社の概要は駒札の通り。元々渡来系の血を引く賀茂氏族によってこの辺り一帯が開発され、帰化定住することになった。そうした彼らの信仰の対象として上賀茂神社や下鴨神社の前身となる賀茂社に当たるような社を建立し崇敬してきた。大田神社は上賀茂神社成立以前からあったと考えられており、賀茂氏の影響が大きくなるにつれ、上賀茂神社などの規模や位置付けも大きくなった。
 神社のある場所は閑静な住宅地で若い家族も多い。神社の前あたりはそうした家族の憩いの場となっており、小さな子供達も路上で遊び回っている。そこには北大路魯山人の生誕の地、という碑が立っている。神社の正式な駐車場はないが、門前の横にわずかに開いた敷地に数台駐めることができる。神社の正面鳥居をくぐると、先に「大田の沢」と言う池がある。無償で鑑賞できるが、入り口には維持協力金として300円を入れる箱がある。ここの「かきつばた」の群生は何千年も前からの姿を今に残していると言われており、国の特別天然記念物に指定されている。
 大昔、今の京都盆地は全体的に沼地が多くそのままでは居住や農作物生産が困難であり、縄文人、弥生人たちが少しずつ改良を加え、あちこちに住めるような状態の土地を整備してきた。後に古墳時代から天平時代の辺りにかけて、渡来人がこの地にもやってくる。そして土地改良を加えて居住者が増えていく。こうして権力の中枢がヤマト王権になった頃には渡来系の人たちと日本の人達が混じり合って、後に平安京が誕生する礎を造ることになる。この大田の沢という場所、及び少し離れたところにある「深泥池」はその数千年前の姿を今に伝える貴重な場となっている。
 カキツバタは5月がシーズンであり訪れたこの日はまさに満開状態で、非常に美しい青から紫色の花を咲かせていた。大勢の人達がカメラを向けて古代から続く景色を眺めている。よくぞ何千年もの間、そのままの姿で残されているものだと感心する。
 神社そのものは境内も広く、高い木々に囲まれており、式内社としての風格のようなものを感じる。拝殿に続き本殿は見た目には比較的新しいように見えた。いつ頃の建て替えかわからない。普段から参拝者の多い神社のようで、当日も三々五々7人々が訪れていた。上賀茂神社へ訪れる人は多いと思うが、わずかな距離なので是非とも大田神社にも寄ることがおすすめだ。

       
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