切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

向島城趾・・・秀吉の宴の場なのか    京都市伏見区

2023-12-30 17:21:43 | 撮影


『向島城
 文禄3年(1594)に、あるいは慶長元年(1596)に築城されたとも伝わっている。この城は伏見城の出城とも、月見の城とも、また、逃げ城であったともいわれてる。向島の堤には桜並木が植栽され、川角太閤記には「向島おどり」の記録がある。慶長大地震には、川中の島であったので石垣が土中に沈んだと伝えられている。この城は、徳川の下屋敷となり、家康と対立 していた石田三成も加藤清正から逃れる手段として、一時この城に身を寄せていた。慶長3年 (1598)豊臣秀吉亡きあと、家康はこの城より豊後橋を渡り伏見城に入城して名実ともに天下人となっ たのである。』
 (説明板より)

 

『向島城本丸址

豊臣秀吉が文禄元年(一五九二年)に隠居後の 住まいとして、水運により大坂と京都を結ぶ要衝の地であり、本拠である大坂と朝廷に影響力を行使する 聚楽第の間に位置する伏見指月の岡に指月伏見城を築いた。この伏見城の支城として、宇治川を隔てた 南側の巨椋池に築いた水城が向島城である。
 文禄三年(一五九四年)に徳川家康が向島の私邸において観月の宴を催した。そこに正客として招かれた秀吉が月見を気に入り、遊山所として築城したともい われ、慶長二年(一五九七年)、秀吉は完成した向島城 に公家や門跡らを招き、瓜見の盛宴を催している。
 慶長元年(一五九六年)七月一三日深夜に発生した大地震により、指月伏見城が天守含め倒壊した際には、命辛々救い出された秀吉が倒壊を免れた向島城を改修し、一時的に避難したといわれる。
 向島城は秀吉の死後、徳川家康の居城ともなったが、元和五年(一六一九年)に伏見城とともに廃城が決定し、破却された。
 今日では巨椋池が干拓されるど、大きく様相が変わったため、城跡としての痕跡は見つけ難いが、 名残として本丸跡と推察される区域が微高地となっているほか、本丸町、二の丸町、鷹場町などの地名が残されている。
 京都市』  (駒札より)

 

『太閤堤 槇島堤址

 槇島堤とは、現在の観月橋(豊後橋)を起点とし、 宇治橋手前まで繋がる宇治川の提防である。槇島堤は東の宇治橋近くから薗場堤を経由して小倉堤とも繋がっており、槇島堤と薗場堤が繋がる付近には かつて槇島城があった。
 豊臣秀吉は文禄三年(一五九四年)九月、前田利家らに豊後橋から宇治橋まで宇治川の流れを変える築堤を命じた。駒井重勝が生きた時代の貴重な 記録である「駒井日記」には、翌年四月五日に早くも堤に桜三千百八十本の桜並木の存在が記されてい
ることから、一年足らずで築堤が完成したことになる。同年には宇治川の氾濫により多くの桜が 流されたとされる。
 記録には秀吉が完成を急がせたため、利家自身もモッコを担いで工事に加わり指揮を取ったため、 秀吉は利家を労いて見舞ったとも伝わっている。
 当時の伏見城からの眺めは、春ともなれば宇治川の槇島堤に咲く美しい桜、その奥に向島城が聳える景観は壮観で在っただろう。
 近年まで向島小学校北側の堤横には老木の桜が 所々残っていたが、今は現存しない。
 京都市』   (駒札より)



 宇治市を南北に縦断する国道24号線。伏見区向島に入るとこの辺り一帯がかつての向島城址となる。豊臣秀吉は当時、淀川が合流する手前の宇治川のこの辺りが物流拠点として 極めて重要な場所であり、この辺りに城を築くことを計画し伏見城(指月城)を建立することとなった。今現在の伏見区桃山町辺りの小高い丘のところになる。そして宇治川を挟んで 南側は広大な旧小椋池が広がっていた。その池の一部に水城として向島城が平行して建設が進められた。

 指月という名称から月の方向を見て、その壮大な景観を楽しむという意味合いが込められており、秀吉自身は年老いた後の隠居地として向島城を考えていた。実際に大勢の人を招いて観月会が催されたりしている。しかし慶長伏見の大地震により伏見城は天守閣を含めて崩壊。一方の向島城は一部の損壊にとどまり残ることとなった。秀吉亡き後は徳川家康の居住地となり しばらく存続する。

 宇治川を挟んで二カ所の城を結ぶ橋については、当時は豊後橋と呼ばれていた。この橋はやはり大地震で崩壊。その復旧工事は急を要するものとして、突貫工事で進められ一部には宇治橋が移築されたとの説もある。この橋は 今現在、観月橋と呼ばれ国道24号線の橋となっている。また後年、伏見城とともに向島城も廃城ということが決定され、取り壊されることになる。以降徳川家康は江戸城から全国統一の政治を進めていくことになる。



  向島城址については今現在、遺構となるものは全くと言っていいほど何もない。一時発掘が行われ、本丸や二の丸、三の丸などの跡が確認されているものの、その地に説明板があるくらいで、石垣も塀も何もない。ごくわずかに地形の凸凹やゆるやかな坂が確認できる程度だ。しかしこの向島一帯は町名が向島二の丸町や 三の丸町などと呼ばれ、当時の名残が続いている。また一時この一帯が四谷町と呼ばれていた時もあった。これは徳川家康が向島城に居住していたところ、江戸城の前を流れる隅田川を宇治川に当てはめ、そこからの景色を四谷から見て楽しんだという。そこから向島城のことを別名四谷城と呼んび、その四谷という名前が残ったとも言われている。



  結局向島城そのものは、豊臣秀吉が優雅な生活を楽しむための居城としての役割を与えられ、そのために多くの人々が、また税が投入されて建築されたものだったと言える。いわば秀吉にとっての巨大な御殿と言ったものだ。大地震によって徳川家康が一時居住し政治を行ったということはあるものの、早々と廃城が決まり歴史的には向島城が大きな役割を果たしたとまでは言えないのだろう。従って発掘で見つかった一部の石垣 などの遺構は残されることなく、向島ニュータウンが大々的に建設され、またその北部では江戸時代から続く 細い路地があちこちに張り巡らされた住宅街が今も広がって、かつての繁栄を偲ばせている。


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