切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

八千代大明神(剣崎稲荷社)~西運寺 京都市伏見区・・・狸のお寺

2020-10-14 22:24:55 | 撮影

八千代大明神(剣崎稲荷社)

 

 国道24号線が宇治川の観月橋を渡ると、川の右岸に出る。そこを中書島駅に向かって少し行くと八千代大明神がある。
 幅の広い宇治川とその北側に流れる小さな川に挟まれた一帯が、尖った剣のように見えるのでかつては剣崎稲荷社と呼ばれていた。この地域は京阪電車の宇治線、同じく本線、そして宇治川の鉄橋を近鉄本線が走る。考えるまでもなく頻繁に踏切の警報器が鳴り、電車の通過音が派手に響く。このような中に民家がびっしりと軒を連ねる。ある意味覚悟がないと住めないような場所とも言える。
 このような中で八千代大明神は真っ赤な綺麗な鳥居が非常によく目立ち、昔ながらの住宅街がこの神社によって輝きを放っているような雰囲気にも見える。
 祭神は八千代大明神と言う女狐、つまりお稲荷さんだ。稲荷神社に「稲荷」という名称がつかないのは多分珍しいと思うが、祭神の名前がそのまま神社名になっている。敷地は非常に狭くその中に駒女狐が鎮座し、ちょっと怖い顔をして睨んでいるような感じだ。すぐに本殿があってこれもきれいな赤に塗られている。その北側には末社があって、この狭い敷地の中は色々な物でびっしりという状態。
 昔の古絵図にもほぼこの場所に描かれており、ずっと以前からあるようだ。なぜここに稲荷社があるのか、理由はよくわからない。
 稲荷神というのは本来、名前の通り稲耕作・穀物といったものの守り神として祀られたものだ。元々ははるか昔の渡来系の秦氏が関わっているという。稲荷神社で必ず見られるキツネは稲作りの神の使いとされて鎮座することになる。後世になってくると稲荷信仰はただ単に農耕に限らず、商売やものづくりの神としても信仰されるようになり、幅広い範囲で御利益をもたらすものとなった。
 八千代大明神のある場所はすぐ南側が宇治川であり、その宇治川のさらに南側はかつて巨大な巨椋池が広がっていた。古くから水運によって農耕生産物などが荷揚げされ、また積まれて上流下流へと運ばれて、商取引の大事な場ともなっていたという場所でもある。そういったところからこの場所に稲荷社があっても不思議ではない。
 

 ただし、この大明神には逸話があって、どこまで本当か作り話かは分からないが、以下のような伝承がある。
 昔背後の稲荷山にいた女狐が猟師に追われてある家に逃げ込み、ここの住民に憑依した。その結果取り憑かれた人はどんな病気も治す力がやどり、周辺の人々から崇められるようになり、さらにご祈祷なども行なって評判になる。結果的に奉行所がこの人の力を認めて、この場所に社を祀るよう命じたというのだ。何時代の話かは分からないが、たぶん江戸期のものだろう。従って御祈祷なりご神託が当たれば大騒ぎとなり、外れれば信用なくしというふうな風潮の中で、いろいろあたったことで大騒ぎになったというのだから、あながち作り話でないのかもしれない。
 非常に小さな神社だが案外名前の知られた神社のようだ。
  



西運寺

 

『松風山 西運寺(通称 狸寺)
 当山は慶長元年(一五九六)相州小田原産の西蓮社岸誉上人雲海大和尚が紀伊郡向島村(現、伏見区向島)に留錫の際、付近の住民に懇願されて世継地蔵尊を安置して創建された。同じ年、豊臣秀吉の命で現在の地の裏山一帯に伏見城の前身である指月城が完成し、慶長の大地震で倒壊した。指月城の支城である向島城も同じく倒壊。当山も甚大な被害を受けた事は想像に難くな い。指月城は倒壊後すぐ木幡山(現、伏見桃山陵)に伏見城として再築され、指月城のあった地の周辺には大名諸侯の屋敷が林立する。時を経て貞享三年(一六八六)当山五世義雲上人の時に公儀の命で松平上総介忠輝(徳川家康の六男)屋敷跡を下付されて現在の地に移転した。
 幕末の頃、当山三十世戴譽冠道上人が裏山に住んでいた雌狸に「八」と名付け、手を叩くと
山から下りて来て飼い犬の様に馴れ親しんでいた。この評判を聞いた人達が狸見物に訪れる 中、有名な陶芸家の高橋道八が狸見物の謝礼に等身大の狸の焼き物を納めたことにより「狸寺」の愛称が定着。道八の狸は現存しないが、今も狸の置物の収集を公開している。
 京都市』 (駒札より)

 

 宇治川にかかる観月橋を北側に渡ると外環状線に出る。この幹線道路を東へ進むと六地蔵へ至る。私も頻繁に利用している道路だ。ところがなぜか今まで、この道路沿いに西運寺というお寺があるのを知らなかった。近くに月橋院というお寺があるが、このお寺は直接道路に面しているために以前から知っており、紅葉もきれいでこのブログでも紹介している。しかし西運寺は道路から50mほど奥まった所にあるので気が付かなかった。いろいろ地図を調べてようやく訪れた次第だ。
 創建は戦国時代末期。もうしばらくすると江戸幕府が開かれると言った頃だ。元は宇治川の対岸の向島という地域にあった。後にこちらへ移転したものだ。創建以来様々な変遷があり、一時は無住のお寺になったこともあったと言うが、その後次第に住職の努力によって蘇ったものだ。
 幕末の頃から裏山に住んでいたタヌキがいて、住職が名前を付けて呼ぶとなついて出てくるようになった。当時タヌキというものを間近で見られるような環境には無かったので、珍しいということで著名人達が見学に訪れたと言う。いつしかこの評判が周辺の住民にも伝わり、多くの人々がタヌキを見に来るようになった。そして著名人の中でも京焼き物の作家が見学のお礼として、等身大のタヌキの焼き物を送った。こうしてお寺は別名「たぬき寺」と呼ばれるようになった。一時寂れていたお寺はその後も、住職が入れ替わるたびに本堂などを含めた様々な建物を修復し、新築しお寺としての体裁を整えていく。
 石段を上がって境内に入ると緑豊かで花も咲き、大きな狸の焼き物が何体か置かれている。代々の住職はたぬき寺ということで、様々な狸の工作物を収集していると言う。先ほどの京焼き物の等身大タヌキはいつのまにか行方不明になってしまって、今はどうなっているのかわからないと言う。残念な話だ。
 このように別名を持つお寺や神社というものも各地に結構多くあり、それぞれにほのぼのとした由来等があって、これはこれでいい話だと思える。京阪電車宇治線観月橋駅から歩いて近い。

    

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