切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

月読神社 京都府京田辺市・・・古代隼人一族がやって来た

2018-09-27 23:16:46 | 撮影


『月読神社
   京田辺市大住池平三一番地

月読尊(つきよみのみこと)・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。
 中世にはたびたび兵乱を受け、社殿の焼失・再建を繰り返したという。本社が位置する大住地域の多くは平安時代末期以降、室町時代末まで奈良興福寺の領地であった。
 神宮寺として、法輪山福養寺が明治初めまで存在した。同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊·北ノ坊・東ノ坊の六坊があり、大住小学校は北ノ坊のあった場所と伝えられる。神社境内には奥ノ坊の庭園の跡が残っている。
 慶応四年(明治元年・一八六八)、伏見鳥羽の兵乱が及ぶのをさけて、八幡の石清水八幡神が当社境内に一時遷座されたこともある。
 現在の本殿は、束に面するー間社春日造、銅板葺(もとは檜皮葺)の建物で、明治二十六年(一八九三)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造が見られる。春日造は奈良春日大社の本殿の形式で、現在の奈良市を中心に、奈良県・京都府南部・大阪府・和歌山県北部に分布する。
 例祭 十月十五日 宵宮には大住隼人舞が奉納される。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会 (駒札より)


『隼人舞伝承地
    京田辺市大住, 月読神社
 九州南部の大隅隼人が七世紀頃に大住に移住し, 郷土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときなどに 朝廷で演じ, また月読神社にも奉納して舞い伝えてき た。隼人舞は岩戸神楽と共に日本民族芸能の二大源流 ともいわれ, 『古事記』や『日本書紀』の海幸彦山幸彦の神話に起源するといわれている。文学博士志賀剛 氏(1897~1990)は能楽五座のうち外山座が月読神社の外山神楽座であるという。
 更に、隼人舞継承者牧山望氏(1900~1991) によって隼人舞が復元され毎年十月十四日の秋期例 祭宵宮に奉納されている。現在では地元に人々を中心 に大住隼人舞保存会が結成され大住隼人舞、隼人踊りが継承されている。大住隼人舞は,、昭和五十年(1975) 十二月十九日に田辺町(現在は京田辺市)指定文化財第一号に指定された。
    京田辺市教育委員会
    京田辺市文化財保護委員会 (境内説明書きより)

 

 京田辺市シリーズ。今回は月読神社。
 この神社の概要は上記二つの駒札の説明によりある程度わかる。名前の上に式内大社とあるように、延喜式神名帳に記載されている名前と比定されている。さらに大社とあるように神社の格としてはさらに上となる。

◆ 位置
  京田辺市の大住地区にある。この地域はある程度凸凹した丘陵地になっており、平地の部分では太古の昔から農作業が行われてきた。
 丘陵地の部分は JR 学研都市線の松井山手駅があり、近年、第二京阪国道とその側道が開通し、同時に今現在、新名神高速道路の巨大なインターチェンジが建設中。昔から比べて大いに変貌した地域だ。高層マンションがあちこちに建ち並び、それに伴って大型店舗も次々にオープンしかつての面影は全くない。
 最近発表された京都府の人口動態予測では、京都府下の全自治体の中で、この京田辺市だけが今後も人口が増加し、それ以外は全て減少するとのこと。最初に開発された地域はちょっとした高級住宅街で、他の地域とはまるで雰囲気が違う。そんな地域の中の丘陵地から平地にかかる場所に月読神社がある。すぐ隣が大住中学校であり、反対側に大住小学校がある。それを目標に行くと非常にわかりやすい。

 

◆ 創建と名称
 創建については駒札の説明書きにも全く記されていない。つまりはっきりしないということだ。一応社伝によると、大同四年(西暦809年)ということになっているが、この根拠は平城京から平安京への遷都の際に、この地に霊光が現れ、宮殿を設けたという極めて不確かな、神話的な内容である故に、そのまま歴史的事実として認めるわけにはいかないというところから来ているようだ。
 ただ一説によれば、神社の元になった社は奈良時代以前からあったとも言われている。このことには、下に記している隼人の民族が関わっているのではないかと考えられている。後年、平安時代に入ってからは月読社の名前が現れ、延喜式にも掲載されることになる。
 名前の元になっているのは月読尊などを祀るところから来ていると考えられるが、この神は諸説あって詳しいことがあまりよくわかっていない。古事記及び日本書紀にもその名前が登場するものの、ごくわずかな記載で、どういう役割を果たしたのかも詳しく記されていないばかりか、両者の内容も異なっている部分もある。
 天照大神が太陽との関係があるのに対して、月読尊はその対象形ではないかとも考える説もある。こうした例は外国の古代の話にもよく出てくるケースだと言う。ただ月読尊を意味するかどうかは分からないが、万葉集にもこれに関わるような語彙が登場する。記紀の神話の内容とも関わっているので、どこからどこまでが本当なのかはよく分かっていない。その意味では平安中期の延喜式の記載が、最初の確かな存在を示していることになるのではないかと考えられる。

   

◆ 隼人舞伝承地について
 隼人というのは学校の教科書にも掲載されていたように、かつて九州鹿児島のあたりに勢力を持っていた南方系の民族(確証はないが)、ではないかと言われている。当時の朝廷に何度も抵抗しており、最終的には屈服させられたという歴史を持っている。その隼人がここ京田辺と一体どんな関係があるのか。
 上記の駒札説明書きにあるように、詳細は不明だが、古墳時代頃に九州の大隅からこの京都の地に移り住んだと言われている。彼らが郷里で舞っていたこの隼人舞を、宮中に披露することで、この舞が京都の地で継続的に行われるようになっていった。
 この隼人舞は、日本の民衆芸能の源流と言われ、後にここから猿楽や能などに受け継がれていったと言われている。そういった意味では日本文化のひとつの側面に、大きな影響を持っているものとして位置づけられる。今現在も毎年月読神社において、この隼人舞が演じられている。

◆ 地名「大住」の由来
 京田辺市大住という地名については、不確かな側面もあるかもしれないが、上記隼人の一族との関係が指摘されている。彼らの郷里である九州鹿児島には大隅半島がある。ここの「大隅」という地名は古代より使われていたものであり、はるばる京都までやってきた隼人の人々の心の故郷の中にある大隅が、この地でも「大住」という地名で、根付いたものではないかと考えられている。
 一方、大住の名前は、京田辺一帯の古墳に祀られた有力者の氏名の中にも見られることから、やはり5世紀、あるいは少なくとも6世紀には大隅隼人がここ京都の土地に住み着いたものと考えられると言う説もある。いずれにしろ、大住の地名は古代から続く極めて古い地名だ。

     

◆ 撮影
 第一鳥居、第二鳥居ともに、月読神社の額が掲げられていた。
 境内は比較的広いが、やや雑然とした感じがする。拝殿や本殿は再建されたもので、さほど古くはない。末社の社も割と新しく感じられた。
 この日は隣の大住中学校で、参観日か何かで大勢の保護者が来ており、ちょうど終わったところで次々と校門から出てきた。一方、神社には一人の女性が参拝に来ただけだった。隼人舞の時はかなり賑わうようだが、普段は比較的静かな雰囲気の中にあるようだ。一見すると長く深い歴史を持った神社、とはちょっと考えられないような気もする。常駐する人もいないようで、大きな神社によくあるお守りなども、何もないようだ。
 境内の奥の方へ進むと、多くの木が途中で折れて倒れており、中には根元から横倒しになった大木もあった。ロープが張られて近づくのは禁止されていた。そこには張り紙で「台風21号の爪痕」と記されていた。こんな巨大な木が簡単に折れて倒されて、というのもやはりすごい台風だったんだ。そういえば京都市内の平野神社の社殿も強風で倒壊してしまった。京都全体の文化財にも大きな被害を与えている。
 神社全体は社殿も含めて華やかな色彩は全く見られず、灰色を中心とした何か華が感じられない雰囲気だった。しかし大変な由緒もあり、各分野からの研究も多数行われている神社であり、訪問する機会があれば是非行ってみる価値があると言える。


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