神鳴り3

後期高齢者になりましたが、ますます若々しくありたいと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

来年もお正月は集まらないことに

2021-12-06 14:44:13 | 日記
我が家は毎年1月2日に親族一同が集まっていたけれど、3年前私の母が亡くなってからは集まっていない。

来年は来てもらうつもりであったが、最近は私が、ちょっと頑張ると腰痛を起こしたりするから、来てもらう自信がない。

それで次男一家が来てくれるというのも断った。

その代わり、寒さが緩んだ頃にどこか景色のよいところに集合して泊まってもよいと考えている。

総勢13人になるから金額的にはかなり嵩むけれど、それは日常を切り詰めて用立てれば良いことだ。

私は次男を産んだ翌年から婚家の家族全員招待していた。

それまでは義実家に集まっていたが、義母も当時64歳になり、しんどそうだったから、我が家に来てもらうようにしたのだった。

私が35歳のときだった。

私より一歳年上の義妹も、私が次男を産んだ同じ年に出産をしたが、義妹の兄の家である我が家に家族四人でくるようになった。

いつもお昼に来てくださいと招待するのに、義妹一家は夕方近くになってから来るので困ることは多かったし、来てくれたら来てくれたで、夜が更けても帰ってくれなくて、これにも困ったものだった。

義父母、義妹一家四人、我が家の家族五人で総勢11人の世話で、お正月明けに寝込んだりしたこともあったが、あの頃の長男の嫁は、そのくらいして当然という時代でもあったからしていた。

まあ今みたいに料亭の豪華なおせち料理とかは頼まなかったから、金額的に大したことなかったが、全部手作りしたから、年末の買い出しが大変であった。

まだ次男を授乳中でもあったから余計に…。

オムツも、あの頃は紙おむつはまだ贅沢品で、お出かけの時くらいしか使わなかったから布おむつの洗濯もしなければならなかった。

いま思い出しても、あの頃の私の頑張りを褒めてやりたいと思う。

義妹は晩婚だったから子供二人が小さくて、そのお手伝いもしなければならなかった。

夏休みなどは、義母に、義妹が大変だからという理由で義妹の上の子を預かったりもさせられた。

私は私の子供3人で手一杯だったのに、あのころ義母は、何故あんな無理難題を言ったのだろう。

また、東京の義弟一家が帰ってくるお正月は、義母が、「あなたは○○の帰省に合わせてどんな計画を立てているの?」と言うから、その頃から流行りだしたデパートの高価なおせち料理を、私達は食べたこともなかったのに、わざわざ買って届けたりもした。

今から思えば、あれもこれも嫁いびりだったのかもしれない。

まあ、いろいろありました。

その時は辛くてたまらなかったけれど、いま子どもたち三人が立派に育ってくれて、何の心配もなくなっているから、これは神様からのご褒美かもしれません。

私自身は、その後、難聴が進んで、ほとんど聞こえなくなりましたが、子供のことでは、それほど心配することがなかったのは、やはり、ご先祖が守ってくれたのかもしれません。

お正月のことから話が脱線してしまいましたが、暮れになると、いろいろ思い出します。

★長男の嫁と言はれて年上の義妹の子供の世話もさせられ

★義弟には援助するのに長男の夫に何もしてくれざりし義母

★薄給でマンション買ひし我が家にぞ金の要求ばかりせし義母

★生活が苦しく子供に八つ当たりしても義母には何も言へざりき

★マンションを買ふとき援助もしてくれずしかし言いたり「この安普請」と

★子がマンション買ふと言ふとき援助すらできぬとテーブル叩き怒りき

★マンションを買ひたる直後倒産をしたりし義父の経営会社

★まつさらのマンションリビング義実家の荷物で埋まりき倒産のあと

★あの頃を思ひ出だせば悔しさは沸々湧きて熱くなりける

★晩年は認知症にぞなりければ虐めし嫁の世話になりたり

★難聴である悲しみは難聴に伴ふ侮蔑、差別にありぬ

★晩年は涙ながして謝りてくれし義母なり「妬ましかつた」と

★しうとめの自慢の息子に難聴の嫁は我慢ができざりしかも